【メッセージ】私の敵

2022年7月31日

(詩篇41:1-14,ヨハネ13:18)

(2013年6月9日K教会にて・アーカイブ)

あなたは私を全き者として支え
とこしえまでもあなたの前に
立たせてくださいました。(詩編41:13)
 
◆病気
 
詩篇は、旧約聖書の真ん中あたりに置かれています。旧約聖書は、ユダヤ教の人も大切にしている本であり、人類の文化の宝物となっています。世界のはじまりから、イスラエル民族を神が導く様子が書かれており、また、これから起こることも書かれています。
 
その中で、この詩篇というのは、少し変わった性格をもっています。まさに詩というように、これはメロディをつけて歌われていただろうということが一つ。それから、神さまからの言葉というよりも、人間からの叫びや祈りが基本的にそこにあるということが一つ。
 
ですから詩篇は、いわば讃美歌の歌詞なのですが、それはまた人から神への祈りの言葉でもあるわけです。
 
詩篇は、元のヘブライ語で「テヒリーム」(讃美)、ギリシア語訳では「プサルモイ」(心を動かすもの)、と呼ばれます。詩篇は全部で150載せられています。それが、大きく五つに分かれています(1-41,42-72,73-89,90-106,107-150)。
 
今日は、この詩篇の一つを取り上げました。それは、第一部の最後を飾るものです。この詩篇41篇を、今日は三つの点から読んでみようと思います。
 
まず、この詩は、病気の人を慰めてくれます。この詩篇41篇はよく、病気の人の慰めに読まれるのです。それは「主は彼が病の床にあっても支えてくださる。/その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる」(4)とあるからです。また、「見舞い」に来る人のことも書かれています。そして、その人は意地悪な人で、その病人に、口では早く治るといいねなどと言うのに、一歩そこを離れると、あれは治らないとか、死ねばいいのにとか悪口を言っているというのです。
 
昔は、今よりもずっと、病気というものは恐ろしいものでした。
 
治療法が発達していないというのもありましたが、ひとたび悪い病気にかかると、もう世の中から消されてしまったようなものだったのです。そして、病気は、その人の罪のせいだと決めつけられました。神さまが罰を与えたのだ、というのです。そして、悪いことをした人は病気になっても当然である、と考えられ、人々から見放されてしまいました。「私はあなたに罪を犯しました」(41:4)とここでも思わず口にしています。
 
いえ、こうしたことは今でもあります。先祖の祟りだとか、前世で悪いことをしたとか、確かめようのないことを言って、病気で気持ちも弱くなった人のことを、さらに追い詰めて、助かりたければ金を出すようにと迫るのです。
 
こんな世の中だから、この詩の病気の人の悩みのを、今も同じように感じる人が少なくないのです。
 
◆ダビデ
 
この詩には、「ダビデの賛歌」という題がついています。「賛歌」は、讃美歌のような意味です。神さまをほめる歌のことです。v  
ではこの詩の作者とされる、ダビデという人は、誰でしょう。
 
ダビデは、イスラエルの、二代目の王様でした。イスラエルの国は、もともとモーセがエジプトから連れ出した12の民族です。それが、最初はあまりよくまとまっていなかったのを、周りの大国につぶされないために、一人の王様のもとに、結束を固めるようになりました。最初の王サウルは、戦いで戦死してしまいます。ダビデは、そのサウルの家来でしたが、若い頃から人気がありました。少年のときに、ゴリアトという大男と一騎打ちをして勝った話を、聞いたことがある人もいると思います。
 
ダビデは、神さまによく従ったということと、イスラエルの国を強い立派な国にしたことで、後のイスラエルの人々にも、慕われる王となりました。
 
しかし、聖書は、ダビデのことを、スーパースターのようには描いていません。サウルに命を狙われて、惨めにさまようこともありました。子どもたちを甘やかして育てたために、子どもたちの間で争いやトラブルが絶えず、アブサロムという息子からは、ついに城を追い出されてしまいます。再び城に戻ったときも、ウリヤの妻バテシバを好きになり、そのためにウリヤが死ぬように仕向けるという汚いことをしてしまいました。このバテシバからも、その子ソロモンを次の王位に就けるために、いいように扱われてしまいます。
 
この詩は、病気のことを描いているように見えますが、詩の後半では、自分と一緒に食事をした親友までもが自分を裏切ったのだと苦しんでいます。本当はここを強く言いたかったのではないかと思われます。ダビデにとり、この裏切り者は誰だったのでしょう。それは、アヒトフェルという、戦いの天才でした。アヒトフェルは、ダビデのもとで働いていましたが、その息子アブサロムが父ダビデを追い出した後、アブサロムの顧問としてダビデを殺す策略を立てます。結局、ダビデが送り込んだスパイが情報を掻き乱したために、アヒトフェルのダビデ攻略のアイディアは採用されず、自殺してしまうのですが、ダビデの命はこのとき、危機一髪でした。
 
ダビデは、この親友に裏切られたことがショックだったので、「私が信頼していた友さえも/私のパンを食べながら/威張って私を足蹴にします」(10)とうたっています。「しかし主よ、あなたは私を憐れみ/立ち上がらせてください」(11)と続け、ダビデは神に救いを求めています。ダビデは、絶望することなく、また自分の力だけでなんとかしようともがいたのでもなく、神が何かしてくださること、自分を立ち上がらせてくださることを、信じて祈ったのでした。
 
◆裏切り
 
ところで、この詩篇41篇は、新約聖書にはっきりと使われている部分があることで有名です。それは、今紹介した、「私が信頼していた友さえも/私のパンを食べながら/威張って私を足蹴にします」(10)というところです。
 
ダビデにとり、この「親しい友」とは、信頼していた部下のことでした。それが敵に回ったのでした。これが、イエスの生涯を記録する福音書の中に現れるとなると、「親しい友」というのは、あのユダのことを表すようになりました。
 
時は、最後の晩餐の席でした。イエスは十字架に架けられる前の夜、弟子たちと最後の食事をとりました。その席で、大切な教えを授けます。教会で「聖餐式」と呼ぶもので、神の救いをイエスの血とからだを受け取ることを、クリスチャンたちは二千年間にわたって続けているのです。
 
ヨハネの福音書は、このとき、イエスが弟子たちの足を洗ったと記しています。主人たるイエスが、しもべたる弟子たちの足を、まるで奴隷が仕えるようにして洗ったのです。教会とは、偉い人がふんぞり返っているような所ではありませんね。
 
イエスは、お手本を示したのだとこのことを説明し、それを真似してお互いに相手に仕えるようにしなさい、と言った後、こう付け加えました。「私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない。私は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴にした』という聖書の言葉は実現しなければならない。」(ヨハネ13:18)
 
ここに、この詩篇の言葉が使われていることが分かったでしょうか。まさにこのことが起こるのだから、そのときにこの言葉を思い出しなさい、と言うのですが、これが、いわゆる「ユダの裏切り」でした。この直後、ユダはこの場を抜け出して、イエスを捕まえることができるように、ユダヤ人の祭司長やパリサイ人たちのところに行ってしまうのでした。まさに、かかとを上げて、相手に致命傷を与えようとするかのような行為です。
 
ところが、聖書を研究する人というのは面白いもので、この詩篇の「裏切り」に、別の意味を見つけたという人がいました。紀元前6世紀の「バビロン捕囚」のときにも関係するのでは、という意見もありますが、もっと後、イエスの時代の二百年ほど前の事件とよく重なっている、というのです。
 
それは、シリア皇帝のアンティオコス四世の時代でした。ユダヤ人の国を支配したこの王は、ユダヤ人の土地に、ギリシア人の文化を無理やりもってきて、逆らうことができないようにしました。あろうことか、エルサレムの神殿に、ギリシア神話の偶像を建てたのです。
 
ユダヤの宗教、つまり旧約聖書を信じる人々は、これが許せませんでした。旧約聖書の「続編」という部分の「マカバイ書」というところに、この時の様子がよく描かれています。このとき、同じ仲間のユダヤ人たちの中には、この信じる人々に対して、信仰に熱心だと損をするぞ、とあざけって言い、現実路線をとる人々もいました。信じる人々にとっては、それは裏切り行為でした。同じユダヤ人たちから、神を信仰するなと馬鹿にされたのです。v  
ダビデの詩が、なんとぴったりと、しかし別の意味で重なることでしょう。
 
◆敵
 
さて、元に戻りますが、「敵」という言葉だけを聞いたとき、私たちはどんなイメージをもちますか。
 
子ども向けのテレビ番組、いわゆる「ヒーローもの」が分かりやすいですね。スーパー戦隊や仮面ライダー、ウルトラマンシリーズを思い浮かべるとよいのですが、見るからに憎々しい敵です。子どもたちにとり、誰が正義の味方かがはっきり分かっていることが必要なので、敵も分かりやすいように、醜い姿をしているのが普通です。敵が美しいと、どうしてやっつけなければならないか、分からなくなるからです。
 
いえ、子ども向けだからそうだ、とお思いになりませんように。大人たちも、そのようなイメージで、「敵」というものを憎たらしく思わせるように仕向ける罠に、しばしばはまっています。かつては、「鬼畜米英」と呼び、残忍なイメージで敵を見ていました。最近だと、アジアの近隣諸国について端から馬鹿にして敵視するような新聞や議員がいて、いつの間にかそういうイメージが作られていくようにマスコミも加担しているのが、気になります。正にいまならば、ロシア人全体に対する偏見が生まれていないか、懸念されます。
 
しかし、芥川龍之介の描く「桃太郎」は、実は鬼ヶ島の鬼たちが、侵略者としての桃太郎たちに苦しみ涙で訴える、という構成をとっていて考えさせられます。
 
その点、子どもたちのヒーローのほうが、案外誠実な面もあります。たとえばウルトラマンシリーズでは、平成のウルトラマンと呼ばれるその後半の時期には、環境問題を絡めたり、怪獣が暴れるにも理由があると同情的な見方をしたり、そのことで悩んだりするウルトラマンも登場しました。ウルトラマンにはキリスト教の精神が強く塗り込められており、私たちにはなかなか味わい深いところもあるのです。
 
そう。この詩人の「敵」にしても、たんなる憎い侵略者というわけではありませんでした。それならば、バビロニア帝国こそ「敵」だったはずです。しかし、ここでいう「私の敵」とは、もともと自分たちの仲間、同胞なのでした。つい先ほどまで友だちだと信じていた人に裏切られたとき、それは自分にとって厳しい「敵」となるのです。
 
これは子どもたちにもよく理解できます。いわゆる「いじめ」の構造は、しばしばそうなっているからです。昔のような、いじめっ子がいて皆をいじめる、という構図だとは限りません。むしろ、勢力関係は一瞬にして変わり、いつ自分が標的になるか分かりません。ですから、互いに顔色を見ながら、「みんな」から外れないように調子を合わせていかなければならない、そんな教室の図式がそこにあると言われています。
 
たった今まで自分の友だちだった者が、自分を排除するグループに行ってしまう。そして自分が孤立する。「いじめ」の中にしばしば現れるのが、そういう様子です。
 
イエスの敵となったユダもそうでした。
 
◆仕返し
 
このユダという人については、いろいろ考えようと思えば、考えることができます。しかし今日はそこには拘泥しないことにします。ただ、この詩のほうでも、少し気になるフレーズがあって、クリスチャンの方々も、時折ひっかかりをもつ部分ではないかと思われました。
 
詩人は、かつて親しかった友までが自分に反旗を翻すと言い、こちらへかかとを振り上げたのだと指摘します。しかし、主は相手をでなく、この自分を憐れんでください、と祈ります。立ち上がらせてください、と願います。そうして、「私は彼らに報います」(11)と、穏やかでないことを言います。ここは新改訳聖書では明確に「仕返し」と訳出していました。まさに「復讐を全うする」というその「仕返し」という意味が問題なのです。
 
他の訳では「見返す」(新共同訳)とか「報い返す」(口語訳や新改訳2017)のようにも訳されています。いずれにしても、自分を攻撃してくる相手に、災いがくるように、と神に祈っています。旧約聖書の時代には、このような争いの考え方も、ままあることではありました。しかし、新約聖書の時代、福音書に引用される詩が、仕返しをすることを勧めているのはどうしたわけでしょう。
 
そう。キリスト教とくれば、高校の教科書にも載っていることには、「汝の敵を愛せよ」のような考え方です。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)や「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)のような内容は、有名で広く知られています。
 
いやいや、と仰るかもしれません。この詩人も、自分で仕返しをするとは言っていないではないか、と。「復讐は私のすること、私が報復する」(ローマ12:19)とパウロは言っています。これは、神が発する言葉です。「わたし」とは、神のことです。ここを間違って理解させるように貢献してしまったのが、有名な『復讐するは我にあり』(佐木隆三)のストーリーでした。旧約聖書でも、エレミヤをはじめとして、預言者たちが、神こそが復讐をするお方である様子を描いています。「主は妬む神、報復する神。/主は報復し、その憤りは激しい。/主は対立する者に報復し/敵に向かって怒りを燃やす」(ナホム1:2)という言葉もあります。

 
何も、人が復讐をしてよい、という考え方ではないわけです。しかし、それにしても、自分を責める敵に向かって、仕返しを神に祈るというのは、抵抗があって然るべきでしょう。
 
これが、この詩を読むための二つ目の点です。私たちは仕返しを願うべきなのでしょうか。私たちの敵は、本当に悪そのものなのでしょうか。私たちも、平成のウルトラマンたちと共に、敵を滅ぼすことにためらいを覚えたほうがよいのではないでしょうか。
 
◆イエス
 
福音書の中のイエスの言葉を、もう一度味わいましょう。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)そして「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)、というものでした。この後にイエスはこのようにだめ押しをします。「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(マタイ5:48)
 
ああ、そんなことが可能なのでしょうか。人間には、こんなこと、できません。
 
けれども、この詩はどうでしょう。「このことで、私は知りました/あなたが私を喜びとされていることを」(12)というのは、なかなかの自信です。そして「あなたは私を全き者として支え/とこしえまでもあなたの前に/立たせてくださいました」(13)と言って、この詩をほぼ終えています。詩篇の中には、このように、「私は正しい」と言うような言い方をしている場合が、時々あります。
 
しかし、この詩を作ったのは誰でしたか。ダビデでした。子どもたちを甘やかし、女性に夢中になり、そのために人を殺しました。そのダビデが、「誠実を尽くしている」と自分を神にアピールしているのです。いうなれば、けしからんことです。これは、本当に、ダビデなのでしょうか。
 
聖書は、神の言葉だと言われます。しかし、その言葉を書いたのは、神の指ではありません。人の指です。人が、文字を書いたはずです。ただそれは、「霊感」といって、神の霊がその人に書かせた、というふうに私たちは捉えています。こういうと、なんだか胡散臭いように聞こえます。こういう言い訳で、「霊が語った」と称したインチキなスピリチュアルなるものが、世にあまりにも多くはびこっているからです。何でも、霊が私に語ったのだ、ということにしておけば、人から文句を言われないと思い、勝手に有名人を持ち出して、自分だけがその霊の声を聞いた、などと言うのです。
 
しかし、聖書は二千年にわたり、その真実性が調べられてきました。今巷で、金儲けのためにまかり通っているスピリチュアルが、はたしてこれから二千年間、持ちこたえられるでしょうか。無理でしょう。聖書は、それを否定しようとする無数の人が挑戦してきたにも拘わらず、それが嘘だということは、いまだに証明できておらず、世界の三分の一の人が真実だと認めています。聖書は神の言葉です。神が直接書いた文字ではないのですが、神が語った言葉が記録されています。
 
ダビデのこの詩も、神が書かせているのです。となれば、「誠実を尽くしている私」とは誰でしょう。そう、それはただの人間ダビデなのではなく、神である可能性があります。さらに言えば、イエスの姿と重ねて理解すると、私たちには十分納得できるでしょう。

イエスはいたぶられ、傷つけられ、理解もされずに一方的に扱われて死刑台に運ばれました。そのことはイザヤ書に、人々の罪を負って歩く姿として描かれています。「彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった」(イザヤ53:4)というように、キリストは病をも担ったのでした。この詩にも、病む人のことが書かれていました。
 
罪を犯したというのはイエスの場合にはありませんでしょうが、キリストを殺せ、除けという叫びの中で、人々から悪口を言われました。そしてユダが、裏切ります。つまり、足蹴にします。
 
しかし、「立ち上がらせてください」(11)、と詩人は祈ります。立ち上がる、あるいは起き上がるという表現をとる語は、復活のときにも使われる言葉です。
 
仕返しは、地上のクリスチャンの行為としては相応しくないかもしれませんが、結局のところ、最後の審判において、キリストは全権を担い、審きを遂行します。
 
神は聖霊とともに我が子と喜びもしました。キリストの敵は勝ちどきをあげることがありません。しかし、イエスは誠実を尽くしました。そして父なる神を讃えます。
 
つまり、「私の敵」という「私」は、イエスに置き換える読み方が可能だということになりました。少なくともヨハネの福音書は、そう理解して、引用したわけです。
 
私たちは、ともすれば、この詩篇を自分の信仰の力として活かすとき、どうしても、詩篇の「私」を、自分自身と重ねて読みがちです。私もそうします。しかし、それを私だとするからこそ、仕返しのような部分に違和感を覚えるのです。この詩の「私」は、イエスであってもよいのです。

 
◆癒し
 
このように見てくると、「敵は私に悪意をもって言います」(6)という言葉が、俄然、違った意味に聞こえてきます。それは確かに「敵」です。しかし、ただの敵ではないのです。
 
この「敵」とは誰でしょう。ユダかもしれません。パリサイ人かもしれません。ユダヤの指導者たちであるかもしれませんし、ポンテオ・ピラトであるかもしれません。いっそ、ローマ帝国なのでしょうか。黙示録の著者は、そのように描いているようにも見えます。それらは、どれも正しいでしょう。
 
いえ、もしかすると、この教会を去った人ですか。私と意見の合わないクリスチャンでしょうか。自由主義神学だとかペンテコステ主義だとかいって、私たちから煙たく見えるような、クリスチャンのことでしょうか。タバコや酒に溺れているクリスチャン? ふしだらな生活をしているクリスチャン? そうかもしれません。
 
でも、そのように思うとき、誰か重要な人を一人、忘れてはいないでしょうか。……そうした人を裁いている、この「自分」を、忘れてはいないでしょうか。
 
確認しましょう。この「詩人」と「敵」がいます。また、この「詩人」は「イエス」にも重ね合わせられます。そのとき「敵」は「ユダ」です。また、神に逆らう人々も敵のうちです。福音書を見る限り、ファリサイ人と呼ばれるエリート集団は、イエスの一番の敵でありました。
 
では、この場面を見る「あなた」はどこにいますか。
 
聖書の最初で、神が人を創造します。その神が初めて人に話しかけた言葉は何でしたか。「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)というものでした。
 
あなたは、この場面の、どこにいますか。聖書は、その物語を、外から眺めていられるような本ではないのです。自分と無関係な物語ではないのです。きっと、読んでいる自分が、聖書の中に登場していきます。関わっていきます。「ネバーエンディングストーリー」のように、物語の中に入っていく、それが聖書というものです。
 
あなたは、この幸いな人ですか。「弱い者を思いやる人」(41:1)ですか。「全き者」(13)ですか。本当ですか。
 
私自身は、そうは思えません。この自分。自分は、誰かの悪口を言っていました。早く死ねばいい、名前も滅びればいい、と呟いていました。心にもない優しい言葉をかけますが、心の中では人を悪く思い、その人のいないところで悪口を言うのでした。……まさに、詩篇に描かれている通りではありませんか。
 
自分がいつの間にか、イエスの「敵」になっているというようなことは、なかったでしょうか。まさにファリサイ人らと、同じようなことをする人間に、なってはいなかったでしょうか。
 
ファリサイ人とは何でしょう。祭司とは何でしょう。それは熱心な信仰者です。神に仕える人です。立派な人々です。聖書をよく知っています。清く正しい生活をしています。その上で、自分たちしか救われない、と胸を張っていました。しかし、自分が汚れたくないという理由で、傷ついた人を助けず、見て見ぬふりをして通りすぎたのです。
 
それは、弱い人を助けなかっただけではなく、まさにイエス足蹴にしていたことに、なりはしないでしょうか。イエスは、弱い人、苦しい人の味方だったからです。
 
それともまだ、自分はそんな「敵」ではない、と言い張りましょうか。罪がない、と言い張るところに罪がある、とイエスは言いました。
 
ただ、これは、「敵」だろうか、とおろおろすることを促すメッセージではありません。その罠をも避けることができるのです。
 
このイエスは、「敵を愛せよ」と命じたその人でありましたが、まさにそれをやり遂げたのは、イエスおひとりでありました。イエスだけが、人にはできない、敵を愛し、赦すということができたのでした。
 
ヨハネがこの詩を引用したところに、「私は、自分が選んだ者を知っている」(ヨハネ13:18)と言うイエスがいました。あなたは、そのようにして選ばれた者の一人です。「選んだ者」は、もはや「敵」ではありません。
 
私たちは、自分がそのイエスの「敵」であったことを知りましょう。しかし、イエスはその「敵」を、つまり「私」を赦してくださいます。すでに十字架の上で、赦してくださっています。ただイエスのもとに行きましょう。イエスの枝としてつながり、イエスの足下にとどまりましょう。十字架にすがり、ただ十字架を見上げ、自分のそんな「敵性」が、十字架につけられて死んでいることを信じましょう。
 
 
附・招き
 
どうか、目を閉じてください。自分の心と話し合ってください。ただし、ろうの方々は、手話を見つめてください。
 
人の悪口を言って楽しんだり、人を心の中で罵ったりした私。私たちは、神に従おうとしているのか、敵対しようとしているのか、自分を見つめ直して戴きたいのです。あるいはまた、どうせこんな自分なんかもういいんだ、と諦めて、希望を捨ててしまっている方がいらっしゃるでしょうか。
 
いつからでも、今からでも、やり直せる、というのが聖書の伝えるよい知らせ、すなわち福音です。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(コリント一13:13)という愛は、イエスの姿でした。イエスは、敵だった私を赦してくださいました。もし今いちど、私たちが敵になろうとしても、また新たに赦してくださいます。
 
愛は、私たち人間の中には不完全な愛しかありませんが、聖書の中に完全な愛が証言されています。イエスの両手の傷が見えますか。十字架につけられたときに釘打たれた掌です。あなたのために、その掌には穴が開けられたのです。今また、イエスはその傷がはっきり見えるように両手を広げて、そこに立っていらっしゃいます。そこに、一歩近づいてみましょう。私も一緒にそのようにします。抱き留めようとするイエスの胸に、近づきましょう。心の中で、イエス・キリストの名を呼ぶならば、その人は、もう救われているのです。



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