命を与えた説教

2022年7月27日

すばらしい説教、というものが、いまはウェブ環境から受けられる。これはたいへんうれしい。ありがたい。命ある礼拝説教で、生きる力を受けることができる。なんという恵みだろうか。
 
ある人が、その説教を聞いた感想を届けてくれた。部分的に、ご紹介してみよう。
 
ずっと、辛い状態が続いている。仕事の上でも、教会環境の上でも、その他具体的に挙げれば枚挙に暇がないほどに、辛いことに包まれている。とくにこの一週間、無理だと感じ、心身共に傷ついていた。しかしその説教では、「呻いてよい。溜息をついてよい」と語られていた。それも、ただうわべの慰めで、そのような声をかけてみた、というのとは違う。「溜息をついて、今度は、聖霊の息を吸い込めばよい」というメッセージに、はっとさせられた。ずっと辛いことばかりで、感謝の思いがもてないでいた。「神さま、どうしてですか」と訴えてきた日々だった。それなのにまた、先週、さらに職場で痛手があったのだ。説教のメッセージでは「神さまは沈黙しつつ共にいてくださる」という確信が語られていた。ECMO(人工呼吸器)を経験した教会員のエピソードが、紹介されていたのだが、そこに重ねて、「沈黙」は確かにあるが、「共にいてくださる」というその方の思いを、私たちにも伝えてくれた。そして、牧師自身が、神に向けて「私も疲れます」と祈った。それは、自分に代って、祈って下さったのだ、というものだと受け止めることができて、震えた。一生忘れない礼拝説教だと思った。
 
別の教会では、毎回命のない説教が、形だけ繰り返されている。お愛想で、指定された聖書箇所の言葉を切り取りつないで、尤もらしいコメントを並べている。その教会員から別の教会に牧師として招かれた人もいたが、それも同様にお粗末なものだった。ひょっとしてこのグループの標準が、そういう程度なのだろうか。「命」という言葉を繰り返しても、それはいったいどういうものなのか、説明をしようとしない。理由は簡単。できないのだ。語る者が「命」を知らないからだ。そして、抽象的に作文を読んでいれば、後は聞く側が勝手に補うことを、潜在的にでも期待しているのである。そこの人々は、よくこうした話を、礼拝説教として聞いていて堪えられるものだと、逆に感心する。
 
牧師が神に出会っているからこそ、神の言葉を取り次ぐことができる。神について知識があります、という者が、尤もらしい話をすることを、私は以前から「聖書講演会」と称していた。あるいは「聖書研究会」でもよいが、それは「礼拝」とは関係がない。私たちは、神を礼拝したい。人間の思いつきを聞いて、慰められないからこそ、信仰をしている。しかし教会へ来てまで、礼拝という場においてもなお、信仰に価しない講演や研究を聞こうなどとは思わない。
 
言葉は不思議なものだ。人を殺しもするし、生かしもする。ただ、殺し方によっては、生きることにもつながる。私は神の言葉で、死んだ経験がある。それはイエス・キリストと共に死んだということなのだ、と気づかされたとき、次は、イエス・キリストと共に復活させられた、という経験にもなった。だから、殺す言葉の中には、必要な意味も含まれていることが分かる。罪に死ぬことは、命のためには必要であるからだ。
 
もちろん、悪い意味で人を殺す言葉を、好ましいとは思わない。だから、生かす言葉、命の言葉、それが、説教からこぼれてくる、それが私たちの真実と信頼の礼拝における姿であるだろう。神と共にある牧師からは、確信をもってそれが語られる。神を見上げる人々を代表して、あるいは率先して、神と私たちとの間をとりもつことができるのは、究極的にはイエス・キリストであろうが、神と出会った牧師も、ちゃんとその役割を果たしている。それでこそ、牧師なのであり、説教者なのである。それは、小手先のテクニックではない。神と出会ったという厳然たる事実から、当然の結果として流れ出てくる出来事である。忘れられない礼拝説教を経験したというのは、こういうことであったのだろうと思われる。神が共にいる、という経験をせずして、空しく取り繕うようなことではなく、ほんとうに、命を与えられたのだ。



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