自己認識は嫌悪となるか誇示となるか

2022年7月21日

ミスをした自分が、悔しくてたまらなかったことがある。若いときに、そういう心理を辿る人は、少なくないと思う。学校では、いわば「正しい」ことが教えられる。テストなどでも、100点や90点をとっても特別なことではないような雰囲気があるとすると、正しいことができて当たり前というような共通理解があると言えるだろう。そういう情況では、ミスをすることが、悔しいということになりやすい。
 
また、子どもは原則主義に立ちやすい。「正しい」ことが教えられたら、それを柔軟に適用するという術を知らない。規則は、守らねばならないのだ。小学生のとき、信号が変わるのを待っているとき、黄色信号で通過した車を指さして「信号無視!」などと皆で指さしていたのを思い出す。
 
ミスをすると、「正しい」ことができなかった自分が、極悪人のようにさえ思えてしまう。自分のしたことは「正しくない」が故に、実に嫌なのである。
 
「角が丸くなる」という言葉がある。それなりに年齢を重ねて、また経験をもつようになって、ガチガチの規範主義ではなくなることを指すと言えるだろう。様々に置かれた立場があり、情況もある。また、人間関係の上からも、むやみに責めてはならないということも分かってくる。むしろ、それでも規則通りに相手を責めてなどしていたら、社会的に相手にされなくなっていくだろう。
 
私は多分にそういうタイプでいることもあったから、他の人より長い間、自分のことを許せなかったという傾向があったのではないかと思う。
 
子どものころは、自分を「ふつう」だと思っていた。信じていた。顔も声も、することも、考えることも、自分が「ふつう」であるのだ、と。だが、もちろんそうではないことは、次第に意識されてくる。自分の中の異常性に気づかされるのは、ショックなことではあったが、それは必要な過程であった。
 
それでも、そう簡単に抜けない性質というものは、ある。自分が「ふつう」だと思うのは、自分の判断が正しく、自分が正義である、と考えるということでもある。いろいろあったが、そのことを知る営みのひとつが、哲学であった。哲学には「メタ」という概念がある。「後に」という接頭辞(前置詞)であるが、アリストテレスの「自然学の後」に置かれたのが、私たちの知る「形而上学」のことであったために、「超えて」というニュアンスで理解されるようになった、というのは、哲学史で学ぶ基本である。
 
自分をひとつ高いところから見る。もちろん、簡単にできることではない。見ている自分は誰なのだ、という初歩的に問題にぶち当たる。近代哲学は、この問題と格闘して展開してきた。だがそれはともかく、哲学は、自分とは何かを捉えようとする。そこには、自分が「ふつう」ではないのだ、ということを認識させる営みがある、ということが言いたかったことだ。
 
けれども、それでは十分でない。論理的にも、それが如何に困難であるかということは、近代哲学史を垣間見ればすぐに分かる。それが20世紀になると、ついにパラドックスとなってしまい、解決不能の烙印を押されたようなことになった。物理学や数学でも、似たような状況があった。
 
私の中でも、哲学でのメタ認識が、打ち壊される時がくる。それが、キリストとも出会いであった。私の中の「ふつう」は、完全に破壊されたのだ。結局、哲学の領域では、「ふつう」観は生き残っていたのである。
 
自分を嫌悪する気持ちも、分かる。それは多分に、よくあることなのだろう。逆に、自分を誇示する気持ちが自分の中にあることは、なかなか分からない。自分の中の「ふつう」が破壊されたとき、それを痛感する。もしかすると、その逆の気づき方をする人も、中にはあるのではないかと思われる。いずれにしても、ひとの中には、どちらも、実はあるものなのだ。もしひとつしか気づいていないのであれば、あなたは、もうひとつ、大切な経験をする必要があるだろうと思う。



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