平野啓一郎氏の講義・受講レポート

2022年7月15日

先日、平野啓一郎氏の講演を聴いた。それは、大学の講義であった。ただ、一般公開もするというので、応募した。こういうとき、「オンライン」が広まってきたのは、非常に頼もしい。学生が会場に集まるのだから、一般としてはオンラインを歓迎する、というのである。
 
平野啓一郎氏については、ご存じない方はあまりいないだろうと思われるが、北九州市出身(出生は愛知県)で、京都大学在学中に執筆した『日蝕』が芥川賞を受賞する。23歳での受賞は、当時最年少として話題になった。私も、読んだ。文学的才能のない私には、難しかった。今また読んでみたいと思う。最近では、『マチネの終わりに』が映画にもなったし、ちょうど今NHKで『空白を満たしなさい』がドラマ化され、放映中である。評判もいいようだ。また、西日本新聞に定期的に意見記事が掲載されているのと、ツイッターで数多くの意見を発信しているので、その考えていることについては、おおよそ慣れ親しんでいたように感じていた。
 
講義のテーマは、「死と向き合う時、生は」。教授は、各方面からゲスト講師を招いて講座を開いており、それはドイツを中心とした現代文化に関する講座であった。そこで、平野氏も配慮してか、トーマス・マンを後半で少し登場させてはいたが、講義の中心は、別だった。ちょうど安倍元首相の死の直後であったため、タイムリーな企画となったのであるが、そもそも平野氏は、死を意識する文学を描き続けている、とも言える。その意味では、本音の部分が語られることが期待された。
 
モチーフは、スティーブ・ジョブズであった。毎朝、鏡に向かって「もし今日が最後の日なら、それはしたい仕事なのか?」と問いかけてから、仕事に向かうという逸話である。もう亡くなってから十年以上経つが、この話は比較的知られているだろうと思う。
 
私がその言葉から、真っ先に思ったのは、「この人は今日が最後の日だとは考えていないからこそ、このようなことが言えるのだな」というものだった。そうしたら、少しして平野氏も、全く同じことを指摘したので可笑しかった。
 
実は平野氏は、父親の存在を実感して育っていないという。生まれて間もなく、父が突然亡くなったのだという。これが、死について自分に不思議な感覚を懐かせる要因ではないか、と分析している。こうした中で、死に対する分析が始まる。
 
人間の死には、二つの死があるという。時間をゆっくりたどりながら、そこに近づいていく死と、アクシデントにより突然訪れる死とである。
 
講義の内容はメモしているが、それを事細かくここに記す暇はない。端折っていくが、ここから話は、専らハイデガーの『存在と時間』の現存在分析に向かうのである。独特の用語を用いるため、ハイデガーの文を、板書もなしに耳だけで受け取るというのは、ハイデガーをお読みになったことのない方には酷だっただろうと思うが、そこを平野氏は、易しく噛み砕いて、要点を外さないようにうまく話していた。その辺りは、さすがである。
 
平野氏が中核に掲げるのは、「死への先駆」という捉え方である。先般の「100分de名著」でハイデガーが取り上げられたときも、中心に寄せられていた。死を思うと不安なので、人はそれを忘れて気を紛らすために、深刻に考えない人生を楽しもうとしている。だがそれは、「非本来的」な人のあり方である。死を他人事としてしか考えていないのである(頽落)。死を見つめることにより、人は本来的な態度がとれることになるのである。
 
しかし、これを先ほどの平野氏の掲げる、死の二つの分類に当てはめるならば、ハイデガーが本来的な生を考えているときの死は、「本当は今死ぬというふうには全く考えていない、ゆっくりといつか訪れるような死」のほうでしかない。平野氏はこの点で、ハイデガーを批判する。そして、ハイデガーがこの方面だけで死を捉え、先駆に価値を見出したのだとするならば、共に生きる他の人々を、そのように、ある意味で啓蒙する方向に走ることになるだろうと読む。だがそれは、時に危険でもあるのだ、と指摘する。事実、ハイデガーはヒトラーの登場により、本当にそのような態度をとるようになってしまったのだ。死を覚悟しよう、と言われたものの、それでは何をしたらよいのか分からない、そうした若者や大衆を、ヒトラーの許へ結びつける影響を与えていったのである。
 
あなたはいずれ死ぬ。だから生き方を変えなさい。そうしたメッセージが、果たして正しいのかどうか、考えてほしい。くだらないことをしている者に、そんなことはやめろ、と教えを与えることが、本当に正しいことなのか。何かの役に立つようなことに生き方を方向転換させるのが、よいことなのか。それは将来を、貧しいものにしていくことになるのではないか。
 
文学者として、見事なアプローチであり、ここに挙げられなかったことでも、いろいろな例と共に、特に、『魔の山』での、ナフタの叫んだ「卑怯者!」との言葉に、この社会のもつ危険性を読み取るなど、鋭敏な感覚を提示してくれたものだと、驚くものであった。
 
そう、私も最近叫んでいる。「卑怯者!」ではない。何かひとつのきっかけで、世の中は一気に変わるのだ、と。人々の価値観が、一気に転換して、正義と呼ぶものが、それまでとは全く逆のものにさえ、簡単になりうるのだ、ということを強く警告している。それを叫んだ正にそのとき、そのような事件が、事実起こったのである。世の中は、言論だとか民主主義だとか、はたまたテロだとか、的外れなことを声高に叫び、それが、絶大な影響を与える結果をつくってしまった。これは小さなことではない。一気に時代が変わる、回路をつくってしまったのだ。
 
さて、平野氏の分析は、筋道として、見事だったのだが、恐らくハイデガーは、死の先駆を言いたいがために、『存在と時間』を書いたのではない。存在の忘却の歴史を憂い、存在の語りかけ、あるいは存在が自ら顕かにしてくるはずのものに向けて耳を傾けることの必要性へと、思索を深めようとしたはずである。ただ、その存在を分析するために、死をモチーフとして、時間制の問題が重大な要素となるのだと捉えた。
 
しかし、いわば論文の実績をつくるために急ぎ著したとも言われる、この現存する『存在と時間』は、いわば彼の狙う哲学の、いわば第一巻に過ぎなかった。時間については、十分な分析をまとめあげることができず、また、それにある意味で迷ってしまい、ついに第二巻は出なかった。ただ、後期はそれに迫ろうと、また別の形で、最初の構想とはずいぶんと違う形で、そのテーマは追い続けている。
 
平野氏は、若いハイデガーの、本筋とは言えなかった部分の分析について、そうではない、という声をぶつけたのである。だから、まだハイデガーの思想の全貌を批判したことには、基本的になっていない。表向き実存主義と呼ばれたハイデガーの一部の考えだけを取り上げたに過ぎない。もちろん、講義の中では『存在と時間』で、と断っているし、またそれは今回の論旨のために適切な扱いではあった。後期ハイデガーは難しく、私も知っているとは言えないが、時間性についてなんとかしようともがいた思索は、たとえ未完に終わったのであるとしても、なおも検討する価値があるかもしれない。そこにも駒を進め、手を伸ばしてから、再びこのテーマでひとつの形ある物語が聞けたらいい、などと無責任に思った次第である。もちろん、ナチスへの協力はもはや否定できず、戦後も戦争責任を逃れようとさえしたハイデガーについてなど、平野氏にとり、その人物像と時代について、興味深いネタがきっと隠れている、とも思うからである。



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