悪く言うことの必要と危険

2022年7月11日

選挙前の政党や候補者が、甘い声で、いかにもいいことをメディアで語るとする。それが結局裏切られるということを、これまでも重々経験しているはずなのに、私たち投票者は、「みんな」に合わせて行動してしまうのも不思議である。
 
いや、だから与党ではないところを支持するのだ。そう息巻く人々もいる。特にキリスト教関係者には、威勢のいい声がよく飛び交う。選挙や政治に対する考えは、宗教とは関係がないから、それはもちろん自由である。だか中には、やたら政府の悪口ばかりを言う人がいる。批判はあって然るべきだが、どうも言い分を聞いていると、途中から首をかしげたくなる場合がある。
 
思うに、政治の悪口は、言いやすいのである。政治の中には、それが神の支配する国のものではないということで、どこかしら不公平や非正義は存在する。そこを持ち出せば、どの党でもどの政府でも、何らかの悪口を言うことは可能である。そしてこれが一番大事な点だが、政治については、悪口を言うことが認められている、ということだ。
 
芸能人の悪口を正面切っては言いづらいだろう。その人のファンもいる。また、言い方によっては、誹謗中傷となり、罪に問われる場合がある。時に、人命にも関係する。身近な人の悪口も、なかなか言えないものである。その上、徳や人格の点でも、また聖書に教えられているからと言って、人の悪口を言うことを制限しているのが、教会というところなのである。
 
だが、政治については、悪口を言うことは多分に許される。むしろ正当な批判や議論は、必要である。だから簡単に、政治の悪口を言いたくなるものである。たとえガス抜きに過ぎないと、自嘲的に分かっていても、つい口を突いて出る。だが、考えなければならないのは、ここにも人間の心理のひとつが現れている、ということである。誰かが悪いと口にすることで、ひとは、自分が正しい側に立つことを実感できるのである。誰かが悪いと言えば、自分を暗に正しい者として示す自己愛が、満足させられるのである。
 
使い尽くされた例話だが、他人を指さすとき、相手を指す指は人差し指一本だが、同時に三本の指が、自分を指している。「あなたはどこにいるのか」に徹底的に自分を破壊され殺された私は、この三本の指を意識することを、なかなか忘れることができない。
 
誰かのことを指摘しなければならないことはある。見張りとして、見たことを報告することは、必要な義務である。政治の問題にしても、批判ということは大切なことであるから、政治批判は当然必要とされるものである。だが、えてして、政治の悪口を言い合うことが挨拶代わりのようになり、その度に自分たちが正義の側にいることを安心し合うようなルーチンになっている、ということがあるものである。
 
事柄は事柄として、適切に挙げるべきであるにしても、他人の非を見出したことに夢中になり、結局自分を正当化するためだけに、それを用いているのではないか、という可能性については、よくよく気をつけておかなければならない。そうした反省能力は、非常に大切なのだが、たいていは意識されていないのではないか、と案ずるのである。
 
そうでないと、自分が何をしているかが見えずして、自分のしていることは絶対に正しい、というふうに思い込んでしまうようになりかねない。私たちは、自分のしていることが分からないものなのである。だからまた、私も同じ穴の狢に過ぎない。せめて、こうしたことを考えるに及んでも、なお、人の模範とすべきは、イエス・キリストのほかにはないのだ、ということを、改めて知るところに、慰めを求めるばかりである。



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