時代は一気に変わり得る

2022年7月9日

幾度か綴ったことかと思う。エスカレータで片側を空けるという「習慣」は、狭い横を慌てた人が追い抜くという危険行為を助長する。近年ようやく鉄道会社も、全面的にそれを禁止するように動き始めた。安全のためなら、と私も協力すべく、それでも空けられている右側(関西は逆であろう)に立つようにしている。
 
俺は歩かないからね、と左側に立つのは、危険な歩行を助長することになるので、責任逃れにしかならない、と私個人は思うためだ。
 
私により塞がれた通路は、さすがに最初は誰も追い越さない。だが、無理に行けば、S字型に歩けば、私のいるところも抜けないことはないのだ。それで、一応「すみません」などと言いながら、くねくねと歩き抜く人が、一人現れる。と、その後ろから、次々とくねくねと抜くものが続いて行く。おかげで、何度かに一度は、追い抜き際にぶつかけられる。もちろん、謝る人は百人に一人くらいだ。
 
道路沿いの民家の塀に、空き缶が置かれるということがあったらしい。近くに自動販売機があるのだ。並び積まれた空き缶を、住民が仕方なく取り去る。が、しばらくすると、また山のように溜まっていくというのである。ではどうすればよいか。とにかくこまめに観察して、ひとつでも空き缶があれば取り去る。これを繰り返すことで溜まらなくなるのだという。
 
お分かりであろうが、「ひとがやっていれば」、自分ひとりではやらないようなことも、やってよいような気になるわけである。「赤信号みんなで渡れば恐くない」というギャグがあったが、まさに至言だ。誰かがしていることに便乗したのならば、自分に責任がなくなる、とでも思うらしい。さらに言えば、私たちがふと口に出して言う表現がそれを証拠立てる。「だって、みんな、やっているじゃないか」と。「みんな」であるはずがない。「多くの人」、否どうかすると、他に一人や二人であっても、「みんな」と持ち出すのではないか。
 
事がベンチャー企業のようなものになれば、「ファーストペンギン」は重宝がられるかもしれない。最初に勇気を出して飛び込むペンギンを見て、群れのペンギンは次々に飛び込んでいくのだ。だが、悪貨は良貨を駆逐するかのごとく、よろしからざることについて、一人が決まりを破れば、それに続く者が、次々と現れるということの方が、現実には多い。ふだんであれば、善良な市民であるという顔をしておきながら、世の雰囲気が悪を是とするようになれば、たちまちそちらに変じていく。どこかで、こうした物語に、私たちはよく触れている。戦時中の生活を描いたドラマである。違う考えをもつ者は、いじめて構わないという社会になっていくことを、私たちは戦争の中にない現代の中で、けしからんことだ、という非難の眼差しで見つめている。
 
だが、それは過去の話ではない。いつでも、どこでも、起こり得ることであるはずである。それが、空き缶の例や、エスカレータの出来事のようなことで、はっきりしていると私は思う。事が起こらないときには、「まさか、そんなねぇ?」と笑っていながら、何かが始まると、「だって当然でしょう」に変わっていく。この変わり身によって、ひとは自分のアイデンティティの統一などという基本的な性質を棄て、いとも簡単に切り替えて別のモードになってしまうのである。
 
時代は、一気に変わる。変わり得る。いまはジェントルな顔をしている人が、人を殺すことを正当化する声を発するようにも、簡単になる。私たちはそれを、歴史から学ばなければならない。そして学んだことを、そうならない前に、活かすのでなければならない。
 
いまだ過去から目を閉ざしているキリスト教関係の人々は、とくにその役割を担うことができるように、知恵と霊を働かせる責任がある、と私は勝手に思っている。その先陣に立つかのように、ささやかだが、確実な報告を、日々行っている所以である。



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