救いの体験

2022年7月7日

妻が、新しい教会で転入会の「証詞」をしたとき、何人かの人から珍しがられたのだという。「そんなはっきりとした救いの経験があるなんて……」のように。私もたぶんそう見られたのだろう。というのは、その教会で、自分はこんなところから救われたのだ、という話を聞く機会が、あまりないからだ。
 
例外はもちろんある。ある人は、自分の若いときの体験談をきちんと話す。いまでも若いうちだが、一人の牧師である。この人は、読み書きにいろいろと問題点は多いが、いわゆる「救い」の経験については、その「証詞」から、疑う余地はない。
 
こんなふうに話し始めると、もしかするとこんな声が聞こえてきそうである。「そんなはっきりした救いというものをもつことが、クリスチャンの条件なのではない。自分が劇的な体験をしたからといって、いつの間にか信じたというような人を排除するのは間違っている」などと。いや、誤解をさせたことは申し訳ないが、そういう人を排除する気持ちはさらさらない。人それぞれ、キリストと出会い、出会い方も様々であるから、ひとの数だけ物語があってよいのである。私はその点は、いつでも揺るがない判断を示すはずである。
 
つまり、特殊な体験がある者は、そうしたタイプの「救い」が分かるのは当然だが、かといって、そうでないタイプの「救い」を認めない、というふうに決めつけて戴きたくはないのである。概ね、どのようなタイプの「救い」も理解できる、というふうになるのではないか、と捉えたいのである。それを証拠立てるのが、新約聖書最大の伝道者パウロである。パウロの「救い」の体験は、これ以上ないほどに劇的である。だが、その後の伝道の様子を見る限り、自分と同じように劇的な救いの体験が必要だ、と言っているようには見えない。聖霊が下って信じるというのはあっても、「救い」の様式を限定しているのではないような気がしてならない。
 
問題は、牧会の立場に就く者、「説教」をすることを生業とする者である。
 
京都に行った経験のない人が、本で読んだだけの知識で、京都案内が自分はできる、と買って出たとして、この人に京都案内をしてほしいと思うだろうか。自分は「京都学」を学びました、と資格めいたものを見せられたとしても、この人が京都を理解していると、果たして思えるだろうか。終いには、京都には、京都に住まない人間のほうが、より真実を見通すことができるものだ、などと言い始めるかもしれないが、そうだと肯けるだろうか。
 
「聖書は、救いは無条件に与えられると書いてあります。誰でも皆、救われているのです」というようなメッセージを語る人が、時々いる。「礼拝に多く出席するとか、教会で奉仕するとかすることで救われるのではありません」などと言われると、確かにそれはそうだというふうに、聖書をそれなりに知っている人は肯くだろう。続いて「神の救いはすべての人に及びます」などと言われると、それも「ある意味」で聖書に書かれてある故に、なるほどと思うかもしれない。しかし、「救いは無条件に与えられます」となると、心ある人は、聞き方にブレーキをかけるであろう。だったら、自分たちはなんで信仰生活を送っているんだ、という疑問が、まず起こるだろう。また、それがキリスト教をそもそも破壊しかねない命題だということに、気づくかもしれない。だが他方、そう聞くと、キリスト教はなんて寛大なのだろう、と、益々自負心の増す人が、いるかもしれない。
 
すべてそうだと決めつけるわけではない。人は、語る声や調子、態度により、様々な心理を含み持つから、文字面だけですべてが決まるのではないからだ。ただ、傾向的に言って確かだと思われることは、意見として述べてもよいかと思う。誰でも皆、無条件に救われる、ということをやたら繰り返す人がいたら、その人は、明確な「救い」の体験をもたない人である可能性が高い。逆に、その体験があったら、恐らくそのような言い方をつねにすることはない、と推測されるからだ。恰も体験のない自分を正当化し、自分に言い聞かせるように、体験など関係なく誰でも救われるのだ、と、いまひとつ落ち着かない形で、繰り返すのが心理というものであろう。
 
繰り返すが、決めつけているのではない。実例を含む形での、観察から考察していることである。そして、こう語る自分自身を擁護するつもりもなく、基本的に、事柄そのものとしてご考慮戴きたいと願っているものである。
 
「救い」の「証詞」は無数にある。「召命」の「証詞」も無数にある。だが、福音を語ることで、そうした「証詞」をもつ人々が真心から献げた血と汗で得た金銭を、無条件でもらう立場に就くためには、神の国の経験があってこそ語って戴きたい、と思っている。京都に住んでいた私ですら、京都を知っている、などと威張るつもりは全くない。京都はこうなんですよ、と偉そうに決めつけるようなことはできないと分かっている。だが、少なくとも京都での実体験は、事実としてお話しすることはできるのである。



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