コロナ禍の中の教会

2022年7月5日

コロナ禍に陥って、2年半。キリスト教会は、一般に苦労している、と思う。最初は、ほぼ法的に、集会ができなくなった。韓国での教会のクラスターが、抗えない雰囲気をつくったのも事実だが、概ねそれを受け容れ、その代わり、リモートでの礼拝参加という方法をつくりだした。高齢者や貧困家庭などを排除することにもなったが、なんらかの形でつながりをつくろうと努めたことであろう。
 
その後、緊急事態宣言そのものが解除されると、集会は再開されたり、また自粛したりと、「波」により変遷があった。ワクチン接種が浸透していったために、いま事態は大きく変わっている。あの最初の緊急事態宣言の頃の60〜100倍もの、一日あたりの新規感染者が現れているにも関わらず、どんどん集会をしようとか、マスクを外そうとかいう情報ばかりが拡がっている。
 
ともかくここで、キリスト教会の現状である。私は広い見地からのデータをもっているわけではない。ごく身近なところの実例しか知らないので、一般化するつもりはないことを、予めお断りしておく。
 
福岡の教会では、このコロナ禍の間に、やっと1人いただけであったため、きっとどこも苦労しているのだろうと思っていたら、違った。ある東京の教会では、このコロナ禍の間に、10人以上の受洗者が与えられているというのだ。ただ、牧師は、やはり懸念していたのだという。礼拝出席者を、特定のルールで選抜して、会堂が決して密にならないように配慮しながら、残りはリモート配信という形で、今日まで礼拝を続けているが、教会員が増えることは期待できないし、逆に減っていくことを心配した、というのである。尤もである。だが、それが違ったのだ。
 
子どもたちのケアも、担当者がたいへんあつく行っていた。配付物にしても、会計に関して、よく心づくしをし、役員会が教会全般のことをよく見通していたのだ。これを、牧師が礼拝説教の中の一部で語ったのである。それは、自分が不信仰であった、という告白であった。
 
だが、私はそこに見ていた。この牧師が何もしなかったはずはない。その上で、役員や教会員の働きの努力を称えたこと、またその働きについて十分牧師自身が知り、祈っていたことがひしひしと伝わってきたのだ。いまも、zoomの出席者については、事後チェックして、礼拝に参加した一人ひとりの名を覚えていく務めを果たしているという。先般は70人を数えていた。会堂出席も、出席のルールを定めない方式に変えているので、以前より少し多めに人が集まっている模様だが、それでも新規感染者が殆ど常に一番多い東京である、リモートを保っている人も多いということなのだろう。
 
福岡のほうでは配信のクォリティが劣悪である。画像の質は小さな画面では十分なのだろうが、大きな画面ではぼけぼけである。音声が殆ど聞こえないことを、何度か訴えているけれども、全く改善しようともしない。尤も、その「説教」の内容は、申し訳ないが、最近お話ししている通り、聞いても何の命も感じられないものであるため、聞こえないからと言って、何の損失も覚えはしないが、あれでは聞きたい人も現れまい。こうした基本姿勢は、ほかにも様々な悪影響を露呈しているらしい。
 
それに対して、東京の音声は、配信は、実にクリアな映像と音声で伝わってくる。やや小さいと気づいたら、直ちに調節する配慮もあるし、報告のときには週報を映しだしてくれる。違和感なく、礼拝に参加できる気持ちでいられて、心地よい。しかも、この説教は一流である。聖書から、命のことばが流れてくる。自分の至らなさを教えられ、そして救い主の素晴らしさを味わわせてもらえる。今週も歩いていこう、という前向きな気持ちになれる福音を、もたらすという意味でも、まさにそれはよい知らせなのである。
 
あの説教者が、自分は不信仰だった、と口にした。コロナ禍で教会が細くなっていくことを懸念していたのだ、と。私は、「不信仰だ」というような言葉は、めったなことで言うものではない、と思っている。軽々しく「私は不信仰で……」などという謙遜が、謙遜傲慢である場合が多いと感じるからだ。だが、ここで口にしたことには、意味があったと感じた。子どもたちのケアなど、陰で努力していたスタッフへのリスペクトが混じっていたのと、それ以上にまた、神に栄光を帰したことを強く感じたのだ。
 
自分が何かしたから教会が生きて働いたのではない、これは神の業である。その「信仰」が、はっきりと伝わってきたのである。この日は、教会が「立つ」というメッセージがあった。まさに教会は、立っているのだ。主に在って、主によって、立っているのだ。人間的な思いによって形を取り繕おうとするのではなく、また人間の知恵でなんとか切り抜けていこうなどと模索するのではなく、神のことばが毎週語られていることによって、神が立たせているのだ。信徒の一人ひとりを守り支えるのも事実だが、命のことばは、確かに教会を立てあげるのである。
 
教会という名を掲げながら、誰も説教要旨ひとつ読もうとしないような、説教に関心のない、人間臭い集まりでしかないようなところではなく、神のことばが語られ、神のことばを信頼し、神のことばによって立っているような教会が、現にあるのだということは、私にとり、希望であった。感謝に堪えない。



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