【メッセージ】その水をあなたに

2022年7月3日

(サムエル下23:8-17, マタイ10:40-42)

しかし、ダビデはこれを飲もうとせず、注いで主に献げ、こう言った。「主よ、このようなことをすべきではありませんでした。これは命を懸けて行った者たちの血そのものです。」ダビデはその水を飲もうとしなかった。(サムエル下23:16-17)
 
◆ダビデの三勇士
 
イスラエルで最も敬愛される、初期の王ダビデ。キリストはそのダビデの子孫から現れるという信仰ができたように、ダビデはイスラエルの救いの象徴でした。そのダビデ王は、自身若いときから、戦術の天才でした。連戦連勝、策略も見事で、日本なら義経を思わせるような天才だったと思います。しかしそれは、単独で成功したのではないことでしょう。ダビデには、優れた指揮官や兵士がたくさんいました。ダビデの生涯を記述するその最後になって、30人の勇士たちを称えたかったかのように並べます。そして、特にその中でも優れた三人の勇士について、その武勇伝を語りました。
 
そもそもペリシテ人というのは、ダビデの頃、イスラエルを悩ます最強の敵であり、何かとぶつかる敵でした。現在の「パレスチナ」の元の語であることは有名です。でもまた、このダビデとの戦いの後、戦いの相手としては旧約聖書に登場しなくなります。つまり、ダビデの時代の頃、このペリシテ人たちとの宿命の対決は、終止符を打ったとされるようなのです。
 
この後事件が起こるのですが、そこで「レファイムの谷」(13)にいるペリシテ人と戦っていた、と記されています。これが、同じサムエル記下5章の記事のことだとすると、年老いたダビデについて書いていた記者からすれば、ずいぶんと昔の話です。時すでに、イスラエルの初代の王サウルと、その息子ヨナタンはペリシテ人との戦いで戦死しています。ダビデはユダの王となり、エルサレムに入ります。そしてこの戦いに勝利したことで、ほぼペリシテ人を制圧することになります。このときダビデは、40歳前後ではなかったかと推測されます。古代において、男の最も輝く時代だと見なされていた時期であろうと思われます。
 
いま、その三勇士について詳しくご説明することは控えます。私もそこに書いてある程度のことしか知りません。ただ名前だけ挙げておくと、まず、タフクモニ人イシュバアル。次に、アホア人ドドの子エルアザル。それから、ハラリ人アゲの子シャンマ。それぞれ、戦いにおいてMVPの働きをした、強者たちでした。
 
三勇士をそれぞれに紹介した後、記者は、あるひとつの事件を描きます。
 
「洞穴」(13)といい、次に「要害」(14)と呼んでいるように、ダビデは明らかに、敵から身を隠しています。ダビデ自身は、「アドラムの洞穴」にいました。これが「エラの谷」にあるのだとすると、40kmほどエルサレムから離れている場所だということになります。情況は、完全に逃げていた、と見てよいようです。
 
他方、「ペリシテ人の本隊はベツレヘムにいた」(14)といいます。ベツレヘムはクリスマス物語で有名ですが、エルサレムから南へ10kmもないくらいの近さにあります。ペリシテ人は、ベツレヘムに本隊を置き、なおかつレファイムの谷に兵営を構えていました。そこは、エルサレムとベツレヘムと三角形をつくるような地で、エルサレム攻略はもう目の前でした。
 
ダビデは、都たるエルサレムに戻れないばかりか、危機的状況の中で、ただ隠れていることしかできなかったように思われます。
 
◆水事件
 
ダビデは「アドラムの洞穴」(13)に隠れていました。そこに、三勇士が、ダビデを訪ねます。ダビデは自由に外に出られません。
 
15:ダビデが、「誰かベツレヘムの門にある水溜めの水を飲ませてくれる者はいないか」と強く望んだ
 
それも、無理からぬことだったと思われます。どこに敵がいるか分かりません。迂闊に外に出ようものなら、たちまち餌食となりかねないのです。この地で水が容易に得られるのでもない様子ですから、水を所望したのです。あるいは、もしかするとただ、懐かしいエルサレムの水があったらなあと呟いたようなものだったのかもしれません。ダビデは心身共に疲れていたように見受けられます。これは強い願いには聞こえたでしょうが、強い命令だったのかどうかは分かりません。誰かいないか。このような、命令とまではいかなくても、呼びかけられる言葉は、信仰生活の中で、私たちも向けられているように思うのですが、いまはそちらに立ち入ることは控えましょう。
 
このダビデの呼びかけに応じたのが、この三勇士だった、ということになります。ただ戦いに強かったというのではなく、まさに真の意味での「勇士」であった、ということを表すエピソードがここにあります。
 
16:その三人の勇士はペリシテ人の陣営を突破し、ベツレヘムの門にある水溜めから水を汲み、ダビデのもとに持ち帰った。
 
片道マラソンコースほどもあるような道のりを行って、帰ってきたことが、いとも簡単に描かれています。半日がかりだったのではないかと思われます。いったい、その間ダビデの渇きはどうなったのでしょうか。普通に考えて、ダビデは近くから水を得ることに成功していたと思われます。そのため、とは言えないでしょうが、実際、この命懸けの水を、ダビデは飲まなかったのです。
 
16:しかし、ダビデはこれを飲もうとせず、注いで主に献げ、
17:こう言った。「主よ、このようなことをすべきではありませんでした。これは命を懸けて行った者たちの血そのものです。」ダビデはその水を飲もうとしなかった。
 
ダビデが、この必死の水の調達を、具体的にどのように心で捉えたのか、私には断定できません。ただ「このようなことをすべきではなかった」というのが、水を血になぞらえたことに関係しているのは確かでしょう。その水は、勇士たちの命そのものだったから、その命を王のわがままで自由に取り扱っていいはずがない、と気づかされたのかもしれません。ダビデは、王として相応しくないことを命じてしまったと思ったのでしょうか。だとすると、このダビデの気づきは、王の政治が何であるかについて、私たちに暗示する働きをも持っていると言えるでしょう。つまり、これが神の国ならばどうなのか、ということです。神の国は、その住人の命を粗末に扱うことは、きっとないのだ、と教えられるような気がします。
 
◆もったいない
 
でも私だったら、それを棄てたことのほうに、どうも違和感を覚えて仕方がありません。だって、もったいないではありませんか。王が喉が渇いて飲みたいと言ったために、命懸けでマラソンをしてきて運んできた水を、やっと持ち帰って王に献げたら、目の前でジャーと流し棄てられたのです。いったい自分は何のためにペリシテの陣営を討ち破る危険を冒してきたのか、と私だったら狂ったように嘆くと思うのです。
 
せっかくくれたものをありがたく頂戴する、それがひととの健全なコミュニケーションである、と考える社会に私たちは生きています。けれども、私は思い当たるフシがありました。息子が初任給で、私にベルトを買って送ってきたのです。父親が必ず使うもの、それを想定して、選んだに違いありません。けれども私は、それをどうしても使うことができなかったのです。さすがに食べ物や珈琲豆などは賞味します。しかし、身に着けるものや道具として使うものについては、私はなかなか使う勇気がありません。使えないのです。
 
うれしくないのではないのです。うれしすぎるのです。だからこそ、使ってそのベルトがぼろぼろになってしまうことが、耐えられないのです。これは、歪んだ感性なのかもしれません。そう、贈った息子からすれば、どうして使ってくれないの、と思うのかもしれません。使わないのならば、送る必要がなかったのではないか、気に入らなかったのだろうか、などと、すっきりしない気持ちに陥る可能性があるわけです。むしろそれが普通であるかもしれません。
 
私もダビデどころではないのかもしれません。ひとの心、真心というものを受け止めるということは、その「物」に囚われないことであると、理屈では分かっています。それでも、私はまだ「物」に、やはり囚われているようです。
 
そんなことを考えながら、もう一度このテクストを読んでおりましたら、突如知らされたことがありました。このテクストは、ダビデが主役であるようには書かれていないことに気づいたのです。このエピソードの主役は、三勇士なのです。先の部分から始まって、ダビデの勇士たちの紹介があり、中でもとくに三勇士が称えられている場面なのです。
 
王が主役なのではありません。三勇士です。その三勇士は、王に献げる水のために命を懸けた仕事をしたことのために称えられているのです。だからダビデも、「注いで主に献げ」(16)たと記されているわけです。三勇士は、命を懸けて、神に献げる働きをしたと捉えてはいけないでしょうか。自分のことなど顧みず、ひたすら王のため、あるいは神のために行動したのです。
 
◆利他
 
己れのためではなく、ひとのためを思って行為すること。これを近年、「利他」という言葉で表現することが多くなりました。この言葉を「利他主義」として捉えるならば、この語は、恐らく造語だということが分かります。19世紀半ばに、オーギュスト・コントがフランス語で用いたのが最初ではないか、とされています。
 
それより古くからある語「利己主義」に対する概念を挙げるために、科学哲学あるいは実証哲学のパイオニアであったコントが用いた、と考えられています。「利己主義」ならば分かります。自分の利益を第一にして考えることをいいます。これは私たちの感覚としては、どうしても悪口に聞こえます。「わがまま」のことだと考えられます。それは、自分のことだけを考えて、他の人のことを一切気にしないということを意味します。
 
それに対立する概念ですから、「利他主義」は、ひとのことだけを考えて、あるいはそれが偽善的だと言うのなら、ひとのことを第一に考えて行動することを言うのでしょう。
 
美学という専門分野をとりながら、様々ユニークな観点を現在提供している、伊藤亜紗という人がいます。この人が編集して、五人の論客により「利他」をテーマにした新書が、2021年に出版されています。『「利他」とは何か』は、この問題の結論を出そうとするものではありませんが、本書は大いに役立つ問いかけが出されているものと見ています。問うことが、実は大切な営みであると私は考えていますし、そのためのきっかけとして、優れた意見が集まっています。
 
とくにこの本は、時期的に、コロナ禍を踏まえての提言です。私たちは、他者と共に生きているという事実を、この2年半にわたり、痛いほどに実感しているのではないでしょうか。他者からの感染を恐れると共に、自分が他者に感染させるということを、より恐れたと思うのです。自分にとっては死に至る病ではないかもしれないが、他者にとっては致命的であるかもしれません。私たちは、自分の行動がこの先どのような影響を与えるのか、まだ予測がつかない中にいます。どうなるか、分からない。でも、何かしなければならない。その中で、「自分だけが」の意識から、他者のことを考える視点が与えられていることは、ひとつの希望であるのかもしれません。
 
◆冷たい水
 
己が命を顧みず、王のために水を汲んできた三勇士について、ここまで考えてきました。同じ水を提供するにしても、そこまで深刻でない場面が、新約聖書で、地味に描かれています。マタイによる福音書の10章から、イエスの教えを、次に聞いてみましょう。  
40:「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。
41:預言者を預言者だということで受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者だということで受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42:よく言っておく。私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
 
弟子たちを受け容れる者は、イエスを受け容れるのと同じで、それはまた、父なる神を受け容れることにもなるのだ、とイエスは告げます。また、弟子たちは、預言者あるいは正しい者として、人々に受け容れられて然るべきだ、としているようにも見えます。これは、十二弟子を派遣する流れの中で述べられていることですから、基本的に、弟子たちはイエスの言葉を伝えに出た立場であり、マタイも読者に対して、その立場で受け止めるように意図しているのだろうと思われます。
 
しかし、イエスのことを伝える者に対して、冷たい水を一杯でも飲ませるような対応をした者に祝福があるというところをも、大いに気にしてみたいと思うのです。私などは、自分にイエスのことを伝えてくれた人に対して、「冷たい水を一杯でも」与えていないかもしれない、と気づかされるのです。
 
何気ない友人からの手紙から、それは始まりました。三浦綾子さんの本がよかったよ、というだけのフレーズで、私もその本を読んでみたのです。信仰のことなど、殆ど書いてない小説でした。が、ただひとつだけ、タイトルの言葉の現れる詩編が開かれるシーンがありました。それをきっかけに、私は、福岡からもってきていた国際ギデオン協会の聖書を開いたのです。その聖書を私に配ったのは、あるカトリック信仰をもつ同級生でした。もちろん、その聖書を製作したギデオン協会も、私の救いへと導く道具立てをしてくれたことになります。けれども、私はこの人たちに、何の水をも提供することは、いまなおありませんでした。「冷たい水を一杯でも」差し上げていないのです。
 
この部分のギリシア語での言葉には「ミクロ」という語が入っています。カップ一杯のミクロを飲ませた、という表現ですが、そこには確かに「冷たい」という語が加えられています。――なんともお感じになりませんか。これは驚異的なことだと私はあるとき気づかされました。いったいどうやって、「冷たい」水を用意するのでしょうか。冷蔵庫があるのが当たり前の私たちは、この点に気づきにくくなってしまっていますが、確かにこれは「冷たい」水だというのです。
 
たとえば、素焼きの容器に水を保管すると、水分が表面にじわりと滲み出るような動きをすることができます。そこから水か蒸発するとき、周囲から熱を奪う、いわゆる「気化熱」の作用が生じます。これにより、その容器は、外気よりもいくらか温度が下がります。湿度が低ければよけいに下がるということを、乾球と湿球の温度差から湿度を計るという、中学の理科で学ぶ原理として私たちは知っています。
 
それは自分の生活のために用意された、とっておきの水だったはずです。それを、イエスの話を伝えた人に提供するというのは、貴重な年代物のウィスキーを、見も知らぬ訪問客に出すようなものです。決して「冷たい水を一杯でも」の訳がイメージさせるような、どうでもよいようなものではなかったはずです。それなりの犠牲を払うことだったのではないかと思うのです。
 
◆体育の授業の思い出
 
話は変わりますが、妻が、看護学校時代、忘れられない出来事を経験したといいます。それは、体育の授業でした。50人が全員で体操をします。ラジオ体操のようなものだったか、と本人は述懐しています。その後、体育教師は、全体を半分に分けました。そして、半数が体操をし、他の半数は、その体操を見るように、と指示します。それを交互に行った後、教師は問いかけました。
 
「1回目と、2回目とで、自分が体操をしているときの気持ちは、何か変わりましたか」
 
そこから何か教訓を導き出して説教をした、ということではありませんでした。けれども妻にとり、それは、忘れられない大きな出来事となりました。この問いかけに、胸を刺されたのです。
 
多くの人と同様、彼女も、見られている後のほうが、緊張しました。自分に見ている視線があります。見られていることを意識します。そうすると、ちゃんと手を伸ばし、ジャンプも高く、というように、自分の体操演技を意識せざるをえません。違いは明らかでした。最初のとき、つまりじっと見られているのではないときには、ある意味でいい加減にやっていたことを思い知らされました。
 
これから、看護師となる若者たちです。その仕事は、誰かが見ているから、誰かに見られているから行う、というものではないはずです。誰も見ていないから手を抜いてよい、そんなものではないはずです。ひとに見られていようといまいと、看護師の職務はつねに同じでなければなりません。
 
それは、たとえ意識がないように見える患者に対しても、同様です。体は動かなくても、聴覚は働いている、というケースがあることは常識です。そんな患者に手を触れながら、語りかけ、起きている人と同じように対するということは、看護のイロハです。それを、実感を伴って教えられた、彼女はそう受け止めました。それで、いまなお忘れられないのだ、というのです。
 
教会で少々よいお話を聞いたとしても、この授業の出来事は、その人生に大きな意味と真実を与えることとなりました。それに比べて、教会で型どおり、「神はいつもあなたのことを見ています」などという説教を聞いても、それを語る人にその真実味がなければ、何ら意味あるものとしては伝わってきません。また、全身で痛感する聴き方をしていなければ、良い説教があっても、馬耳東風となって消えていくばかりでしょう。
 
教会に来ているから、来ていないから、そんな人間の分け方は、ないのです。自ら意識しなくても、神の声を聞いて真摯に生きている人はたくさんいるし、それに敬服しつつ、学ぶことはいくらでもあります。それは、いわゆる「ヒューマニズム」のことを言っているのではありません。私たちは、いつの間にか、どこかで高慢な思いを懐いていなかったでしょうか。それが自分をごまかし、騙すこと、つまり「自己欺瞞」に陥っていなかったでしょうか。献げるということは、自分の夢や欲望を実現するために、他者や、時には神をも利用するようなこととは対局にあるのです。
 
私たちは、本当に心を神に献げるという思いで、主日の礼拝を行っていたでしょうか。自分を神に献げること、それなしには、献身はありません。それは「冷たい一杯の水」を献げることでよいのです。いえ、その「冷たい水」のためには、十分な備えと、それをひとのために用いるという心が含まれていたということを、私たちは先ほど学びました。このことを心底感じ、全身を貫くような畏れとおののきに包まれたとき、私たちは、それがどんなに小さな出来事であったとしても、「献身」をしたことになると信じます。
 
◆献身と罪
 
献身の話は、たくさん聞きました。多くの牧師や伝道者の体験談を聞くことができたのは、幸いでした。神の召しの声を聞いてしまった後、ずいぶんな葛藤に悩まされた人が多くいました。それは無理です、と逃げ惑うようにしながらも、ついに観念して神の前に跪くというような経験もありました。まさかと思っていると、次々と目の前に不思議な業を見せられて、神の前にひれ伏した人もいました。
 
自分のような者が、と神に言葉を返すのは、モーセはもちろんのこと、大預言者イザヤやエレミヤも同じでした。新約時代の伝道者にも、そうした出来事があったように思います。聖書の中には、神に呼ばれて、大きな役割を与えられた人が幾人も描かれています。しかし、自ら能力を身につけたいとか、王になりたいとか、そんな野望をもって立ち上がった人については、聖書は悉く、それが偽物であることを糾弾しています。
 
「敬虔なクリスチャン」というステレオタイプの言葉に、私たちは少しこそばゆいような気持ちで、喜んでいなかったでしょうか。「とても私はそんな……」などと手を前に出しながらも、言われてうれしく思っていなかったでしょうか。あるいは、神の前に自分はこんなに、と格好つけて、いかにも謙遜な態度を教会の中でとることが日常になっていなかったでしょうか。教会ではにこにこと笑顔を絶やさず、日曜日に帰宅したが最後、不平不満ばかり漏らしていたり、酷い場合には家族に八つ当たりさえしていたり、そんなことは全くなかったでしょうか。
 
少しばかり、マタイによる福音書6章の中の、よく知られたところを思い出してみましょう。
 
1:見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。
 
5:また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
 
16:断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
 
私はだんだん恥ずかしくなってきました。教会の中で、いい顔をしようとしていたのは、まさにこういうことではなかったか、と思わされるからです。皆さんは、そういうことに、気づかされることは、ありませんでしたか。あるいは今日、気づかされませんでしたか。そして私は、ここで心を刺され、自分の中に罪を認めた人のほうが、健全だと、実は思っています。
 
◆今日できる献げもの
 
神の前で「ありのままのあなたでいい」というメッセージが、近年流行しているそうです。ある意味で嘘ではありませんが、それは余りに特殊な情況です。「ありのままで救われる」ということはありません。私たちは、自分の愚かさ、さらに言えば自分の罪を痛感し、それに打ちひしがれることなしには、神の救いを心の中で知ることはありません。「それはあなたです」(サムエル下12:7)と指さされて、ダビデはナタンに向けて、「私は主に罪を犯しました」(12:13)と項垂れました。ナタンは即座に「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない」(12:13)と告げたのです。罪を認めたダビデだからこそ、赦されたのです。
 
今日お開きした、三勇士たちの話の続きには、三勇士に続く勇者が何人か挙げられ、その後活躍の記録はないものの、30人の勇士に数えられた者たちの名前が、一人ひとり挙げられています。その最後にある名前を、ご覧下さい。「ヘト人ウリヤ」(23:39)で締められているのです。ダビデがこの場面で罪を犯したのは、まさにこのウリヤを騙して殺害し、その妻バト・シェバを自分のものにしたことでした。サムエル記は、徹底して、このダビデの罪を見逃すことがありません。その上で、ダビデを神が愛したことを記述するのです。
 
他者の、ではありません。自分の罪を知らずして、救いの喜びを与えられることはありません。また、その経験のない人は、救いを語ることはできません。「ありのままで救われる」ことはないのです。けれども、私たちは「ありのままで」よいと言われる場面があります。それは、「ありのままで暮らす」ということです。私たちの日常は、極めて「ありのままに」営まれていきます。それは、誰か他者がいて、他者に見られる中で、他者に何かできることはないか、と、主を見上げつつ生活する日常です。それが、キリスト者の日常だと思います。義務からでもなく、報酬狙いでもなく、ただ神を見上げて、神と心通わせながら、他者との関係やつながりを覚えつつ、「ありのままに」生活するのです。
 
大袈裟に、何かを献げなければならない、と肩に力を入れる必要はありません。私たちが献げるのは、大それたものではありません。少しばかり自分が心をこめたものを、誰かのために使ってもらう、といったくらいのもので差し支えありません。なぜなら、大きな献げものは、すでにイエス・キリストにおいて、完成しているからです。血を流し、命を献げたイエス・キリストの姿を思います。
 
「神のために」何かをしようなどと、思い上がる必要はありません。その思い上がりが、人類の傲慢な歴史を刻んできたのです。そうではなくて、自分にできる、小さな献げものを、今日は見つけて戴きたいと願います。イエス・キリストにより与えられた大きな大きな恵みと比べる必要はありません。誰か他者のために、言い換えれば隣り人のために、ささやかな、自分にできる、しかし少しばかり心をこめた、「冷たい水」を、献げることは、できないでしょうか。誰も見ていなくても、神はそれを、目を細めて、見ていてくださると私は信じています。



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