刹那主義の見直し

2022年6月15日

  今さえよければ   今倖せなら   歌詞にもあるこうしたフレーズの考え方は、しばしば「刹那主義」と呼ばれる。「刹那」は仏教用語であり、最小の時間単位とも言われる。一秒の何十分の一か知れないほどの、まさに瞬間であるが、これに「主義」が付くと、いまこの瞬間だけの感情に身を任せ、過去も未来も何も気にしない、という生き方の姿勢を意味することになる。
 
そんな、後先も考えないような生き方など、よろしいはずがない。刹那主義の考えをもつような若者に対して、大人は、たいていそう言うだろう。これから先、どうするつもりだ。そんな退廃的な人生など送るべきではない。たぶん、私もそのような意見である。教育の端くれに関わっている以上、今だけしか見えないような考え方を、簡単に肯定するわけにはゆかない。
 
だが、今ここで、生きるか死ぬかという情況にある人に対しては、もっと先のことを考えろ、などと悠長なことを言ってはいられない。
 
哲学科の学生として下宿暮らしをしていた私のところに、時折創価学会の2人組の女性が訪ねてきた。私もまだすれていなかったので、無碍に扱いはしなかったが、集会に誘われても、さすがに行く気にはなれなかった。だが何回も何回も来て、一度だけでも来てほしいと懇願され、正に一度だけ、出向いたことがある。
 
まだ若い部類だが、権威のありそうな男性と話をした。彼が私に訊いたことは、やはり何か心に刺さったからこそ、いまだに覚えているのだろうと思う。「いま崖から自殺しようとしている人が目の前にいる。哲学に、何ができるのか」というようなことを、言われたのだ。それを創価学会の教えができるかどうか、はまた別問題ではあると思ったが、今この瞬間、必要なことのために何ができるか、それは確かにひとつの重要な観点であることを教えられた。
 
だからと言って、そのように「今」逼迫した情況を考慮する必要性が、そのまま「刹那主義」を意味するものとも思えない。これは、生きるか死ぬかという情況を想定しているものではない。未来があることを前提にしながらも、それでもなお、今だけを重視するのである。
 
こうなると、やはりそれではいけない、ということになる。今だけという価値観しかなければ、ただ何かに流されていくだけになるだろう。ひとは、何か目標に向かって生きることが望ましい。そうでなくても、何かしら目的があるからこそ、ひとは今を生きていくことができるのだ。給料をもらうために、今日働く。大学に入るために、今日勉強する。何にしても、「〜のため」という意識があればこそ、今を生きることができるのだ。
 
――さて、本当にそうだろうか。私たちは、つねに問い直さなければならない。目的をもち、それのために今を生きる。確かに結構なことだろう。だが、それは普遍的なルールとなりうるのだろうか。
 
何かしら、正しそうに見える目的が、一旦定められたとしたら、それを実現するための行為は、すべて正しいものと認めなければならなくなる。こうした論理は、ソクラテスの対話ばりの勢いであるが、その目的が善であるのならば、それを達成するための手段もまた、善であるのではないのかね、と問われたら、肯くしかない。
 
詐欺師は、ここのところをよく突いてくる。儲けたいという目的を相手に植え付けてさえしまえば、その目的のためにはこうすればよい、とつけこんでくる。だが、事はそれくらいでは収まらない。私たちは、歴史と経験からも学ばなければならない。この構造が、戦争を正当化する論理ともなりうるからだ。国家に何々が必要である。それを妨げるものは悪である。国家のために、敵を殺すことは善である。もちろん、それほど単純なことではない。正に巧みに、その論理をつないでくる。確かにそうだよな、と思わせるところをつないで、こちらを承諾させれば、後は芋づる式に畳みかけ、何をも正義というふうに納得せざるをえないように引き入れてしまうのだ。
 
極めて抽象的なものの言い方をしているが、どうかお考え戴きたい。この「目的設定により手段を正義とする」という方法は、政治にしろ宗教にしろ、様々な人間的活動の中で、密かに用いられているのである。しかも時に、用いている本人さえ、そのことを意識していない。こうなると、まるで悪魔が操っているような現象だということになってしまう。
 
刹那主義は、この目的連関の鎖を破壊する可能性をもつ。もちろん、ひとが一生、刹那だけを求めて生きるということは、事実上不可能である。しかし、この目的連関の必然の鎖に引き入れられそうになっていることに気づいたら、その時だけ、目的と手段との関係を一度断ち切るだけの威力をもった、この刹那的な考え方を、伝家の宝刀のように抜くとよいこともあるのではないか、と私は強く思っている。
 
一応、注意を喚起しておく。これは政治の仕組みがそうであって、それに反対する教会の意見が正しい、と思いがちな、教会関係者にこそ、警告しているということである。聖書は、私の見るところによると、この目的連関の筋道を極力破壊しようとしている。「〜のために」何かをするということを命じているというよりは、もっと端的に、つまりは刹那的に、「ただ〜せよ」と迫るのが、聖書の主軸ではないだろうか。教会が「神のために」と高らかに宣言してやってきたことは、とてもけしからんことだらけだということを、歴史から痛感しなければならない。そしてそのことへの反省や、聖書的用語を用いるならば悔い改めを、避けようとする体質を改めなければならない。
 
聖書を適切に説く者は、すべては「神から」くるのだと言っているはずである。「神のために」と言えば正義になるのではない。むしろ、それは危険である。



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