説教は命を与える

2022年6月7日

教会や宣教について、やたら「困難な時代」というフレーズを持ち出すと、説教になるというのは、思い違いである。その中で「信じていきましょう」「神に委ねて歩きましょう」としか結論が出なかったら、昭和期の教会学校である。もちろん、それが間違っていると言うつもりはない。
 
その間がないのだ。せいぜい、与えられた聖書箇所の説明を加えて、尤もらしい励ましで終わると、説教になるような気がするらしい。取り上げた聖書箇所を丁寧に辿り、説明する。一つひとつ「……とあります」と読んで、少しばかりコメントを付ける。教会生活がある程度長くなれば、誰でも知り尽くしているようなことをひたすら繰り返して、時間を稼ぐ。以前出会った、失礼だがどこにも褒めるところのない説教者が話すときが、そうだった。
 
そもそも、本当に今が「困難な時代」なのかどうかも疑問がある。「いやな事件ばかり聞きますなあ」とでも挨拶しておけば、「そうですなあ」と井戸端会議が始められるのかもしれないが、日本においてだけ見ても、キリシタンが次々と捕らえられた殺された時代より、どれだけ安心できるか知れない。太平洋戦争中に石を投げられたり、憲兵に連れて行かれたりするよりは、どれだけ幸せか知れない。いったい、何がどう困難なのか。コロナ禍なのか。それは教会に限ったことではないし、むしろ教会のように潰れずに済むところは恵まれているとさえ言える。教会員が増えず減少することか。確かにそれは問題だ。
 
思うに、困難を覚えているのは、話す者自身なのではないのか。それは無意識の中でのことなのかもしれないが、自分の夢が叶ったうれしさと共に、実は自分には務める資格がないことを潜在的に感じているからこそ、口を開けば「困難な時代」となるのかもしれない。そういう心理なら、私にも理解できる。あまりにも脈絡に合わない突然のフレーズや、考えられないような前提を当然のことのように持ち出すあたりに、話す人の隠した心理が滲み出ているものである。それが分かりやすい人は、実際いる。
 
ところが、現実に会衆の中には、確かに困難を抱えている人がいる。困難なのは「時代」などではなくて、いまここにいる「私」なのだ。それぞれの持ち場馳せ場での役割、家族の問題、そしてキリスト者としての使命感など、具体的な重荷を抱えているのが当然である。
 
なるほど、礼拝は神を崇める行為である。自分の幸福を求めて集まるというのは、お門違いであるかもしれない。だが、礼拝は、神の言葉が語られ、出来事となる場でもある。神の言葉は、ひとを生かす。聞く耳のある者はそれを聞き、命の言葉として受け止める。霊の働きであろうが、それは活ける水となって、その人から流れ出ることを主は知らせている。どんな言葉を戴けるのか、その期待が、説教に求められて然るべきではないだろうか。それは聖書の言葉そのものとしても及ぶかもしれない。また、その聖書の言葉が、説教者が語り強調することによって、はっきりした意味を伴ってぶつかってくるかもしれない。ああそうか、たしかに、と、いままで気づかなかった聖書の言葉の力が、全身を貫くということを、求めて悪いはずがない。
 
さしあたりこれからの1週間だけでいい。生きる力を与える神の言葉が与えられるか、説き明かされるか。それがあれば、生きていける。世の危険や困難の中を、主の言葉に支えられて歩むことができる。
 
だが、その説き明かしがない。いかにも、の教訓的な結論をとりあえず言うと尤もらしくはなるが、どうしてそれができるのか、どのようにすればよいのか、何の示唆もない、抽象的な話だと、「ああ、そりゃそうでしょうね。それで?」となる。そういう疑問を差し挟まない善良な聴衆は、実は聞く側で勝手に、その間を埋めている。想像力を働かせる役割を果たしているという意味では、その「説教」は、なかなかの優れものであると言えるかもしれない。
 
しかし間を埋められないのは、多分に、話す側にそんな経験がないからだ。自分に経験があったら、聞く者の心に共感を呼ぶ、「あるある」につながる話が、出てこないわけがない。自分の中に、神の言葉が命となった体験がないと、残念ながら、ひとを生かす語りはできない。京都に行ったことのない人が、京都論を雄弁に語っても、共感を得るだろうか。野球をしたこともないのに、野球技術を評論できるだろうか。
 
それに対して、ある人は、先週ある礼拝説教を受けた。その説教により、1週間が支えられた。
 
その人は、小さな医院の師長を務めている。常日頃、自分は「仕える師長」だというモットーで勤務している。それが、キリストから与えられた使命だと受け止めている。しかし、コロナ禍が2年半と続いている。ずっと所属教会からも祈ってもらうこともなく、却って医療関係者の心をくじくような批判を浴びるような中で、何の命ももたない「説教」を与えられ続けて、辟易していた。
 
それが、ある教会の礼拝説教を受けたとき、魂が生き返ったのだという。それは、ありきたりの結論とは違うものだった。「さあ、と言わんばかりに聖書の言葉を伝えたり、堂々と証しをしたりすることが必要ではないのです。ただあなたは……」その先の結論が、SPY×FAMILYのアーニャの「ワクワク、ワクワク」と同じようだったという。「そうか、そうなんだ」と喜んだのは、自分が本来もっていた「仕える」ということとぴったり重なるものであったという。新しい検査などの担当でその週は緊張感が強かったのだが、その「御言葉を握りしめる」ことで、神に守られ支えられ、そして楽しみながら、主が共にいますという歩みを与えられたというのである。
 
その説教者は、ご本人は否定なさるが、私が日本での最高レベルの説教をする方だと尊敬している。その師長の今の所属教会に、この方が来て、本物の説教を聞かせたならば、何かが変わるかもしれないと信じたい。しかし、その師長は言った。いくら宝物が目の前に現れても、その価値が分からない人には、何にも分からないものだ、と(聖書にもそうした諺がありましたっけ)。まず基本的に大事なことは、そうした命ある説教を、求めるのか、それとも、命など関係なく、説教などただの形式で飾り、あるいはお勤めだとしか認識しておらず、ただ時折集まって仲良くしている倶楽部活動を、求めるのか、どちらを望むか、ということなのであろう。「御言葉を握りしめる」という表現すら、意味不明で、関心ももたないような人であれば、残念ながら後者に分類されよう。
 
いずれにしても、神の言葉は、ひとを生かし、命を与える。それは本当だ。実際、こうして体験している人が、いるのであるから。皆さまが、神の恵みの言葉に生かされて、日々歩んでいられますように、と祈っています。



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