挨拶

2022年6月1日

(6月から、聖書協会共同訳を標準にします)
 
   ささやかな平和
 
 マンション生活の特徴の一つに、やたらご近所さんと顔を合わせるというのがある。
 たしかに深い交わりは少ないかもしれないが、いつも見る顔と頻繁に会い、あげくは狭いエレベーターで二人きりになるということもしばしばである。
「こんにちは」「しつれいします」
 その場だけのつきあいではあるが、あいさつは欠かせない。子どもの中には、あまり知らない人と口をきくものではない、と考えている子もいるようで、むすっとしている子もいるが、大人たちは、概して言葉を交わす傾向にある。
 どうして、あいさつをするのだろうか。
 もしあいさつをしないでいるとする。私たちは、いわば、相手が自分に対して何を考えているか分からない状態で、出会うことになる。街ですれちがう人々と同様である。しかし、その人とエレベーターに一緒に乗らなければならない。――どこか、不気味ではないだろうか。
「こんにちは」「あついですね」
 大した意味はなくてもよい。私たちは、会話をすることで、いくらかでも心を公開する。相手の言葉を受け容れていますよ、という信号を送る。いわば、「私はあなたに敵意をもつ者ではありませんよ」と、安全宣言をしているのである。相手が返答してくれたことによって、私たちは、「何を考えているか訳の分からない奴」という不安から、解放されるであろう。
 私も、あいさつを受けることで、その安心を得る。私が先にあいさつをすることで、相手に安心を届けることができる。
「おはようございます」「いってらっしゃい」
 私は、こうして今日も、ささやかな平和運動に参加している。
 
 
生徒に募集した「あいさつ」をテーマにした作文を、かつて私も書いてみたのだった。もうだいぶ前の話である。たとえ応募入賞はしないだろうなあ、と思いつつも、自分の考えていることをどのように作文に表すか、生徒に指導するためにも、実践してみたのを思い出した。
 
小学生のとき、私は挨拶が下手だった。まだ覚えているが、六年生のとき、K先生が、私とA君とを比べて、私が「冷たい」というように評したのだ。廊下ですれ違っても、挨拶も何もしないからだという。なにもそれで落ち込んだわけではない。私はそれくらい、感情が希薄だったのだろう。だが、それが心に残り、以後私は、意識をして挨拶をするようになった。
 
確かに、しない人がいる。マンション生活をしている中で、いわば定点観測をしているものだと見なして言うと、年々、しない人が増えているような気がする。若い者が、照れくさいのかしないのはまだ分からなくもないが、子どももそうだし、お年寄りもそうだ。子どもは、知らない人と挨拶してはいけない、と教えられている可能性もあるから、一概には言えないが、そうすると益々、将来挨拶をしない人間を増やしていくような気もする。
 
こちらから若い人とその友人がいるとこに「こんにちは」などと言うと、後ろから「知ってる人?」と友人のほうが尋ねる声が聞こえることもある。マンションというのは、確かに、知らない人も数多い訳だが、同じ敷地で暮らすと分かっている相手は、基本的に「知らない人」の範疇には入らないというのが、以前からの常識であったと思う。しかし、いまや知っているのでなければ挨拶をしない、というのが若い人たちの常識なのだろうか。
 
昔気質の人は、愛想良く挨拶もしてくれる。気持ちがいい。若くても、気持ちよく挨拶をする女性がいて、実に清々しい。昔だったら、「息子の嫁に」などという言葉が出てくるところだろうか(いまは不適切な表現であることは承知である)。他方、お年寄りが完全スルーしてくると、もしかすると認知症を患っているのだろうか、と心配にもなる。
 
壮年タイプでも、時に、こちらに目をやるが、そのままに通り過ぎるということがある。それが、いかにも他人を見下したような態度に見えるということに、気づかないのだろうかと思う。こうした人が、営業で愛想良くぺこぺこしているのだとすると、人間、自分の利益のためには如何様にも演技ができるのだということが、社会的な真理であるものだと納得できるものである。
 
だが、私もまた、挨拶されても完全無視していることがあるのだろう、と気づかされる。全世界の王である神が、私のために自ら痛みを受け、常に愛の絆を以て導いているというのに、素知らぬ顔で通り過ぎ、思い出しもしないような日々を送っているのではないだろうか。
 
神への挨拶、それが祈りのひとつの重要な位置づけであるように思う。何もかしこまって、1時間もぶつぶつ称え続けるのが祈りだとは限らない。「こんにちは」という会釈でもよいではないか。神を認め、神に頭を下げ、笑顔で応える。あなたとの間に平和があることを願っています。しっかりと神の方を向いて、挨拶をすることが、どんなに大切なことであるか、改めて思い知らされる。尤も、神はつねに私を見つめているから、始終挨拶をしていなければならないというのは、かなりの緊張である。こちらは、「ほぼつねに」くらいでもいいですか。



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