【メッセージ】あなたの生活に神がはたらく

2022年5月29日

(民数記11:24-30)

あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。(民数記11:29)
 
◆モーセ   モーセは有名です。そう言おうと思いましたら、思い直しました。あの「十戒」という映画をご覧になった方のほうが、いまや珍しいと言えるような時代になってしまったからです。海が割れるシーンや、十戒が与えられるシーンは、人々に先入観を与えてしまったかもしれません。映画はどうしても、特定の映像を見せるが故に、スペクタクルの効果を与えることを求めて制作されますから、案外、映画なしに聖書を読むほうがよいのでは、と思うこともあります。
 
いろいろあって、イスラエル民族は、エジプトで存続していました。イスラエル人のヨセフが、エジプトの国を救ったからだと聖書は記しています。しかし年月が過ぎて、イスラエル人はエジプト王国で、しだいに外国人として、虐げられるようになります。王家に拾われたイスラエルの血を引くモーセが、民族をエジプトから脱出させるリーダーとなりました。その出発の辺りで、追いかけるエジプト軍を海に呑ませる奇蹟を起こし、民族はそこから故郷である、カナンの地と呼ばれるイスラエルを目指して旅をすることになります。
 
この旅が、シナイ半島を渡りイスラエルの地に入るのに、なんと40年もかかった、というのが旧約聖書の語る物語です。その細かな意味については、またどこかで分かち合いましょう。ただ「荒れ野の40年」という言葉は、当時西ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーの演説により、超有名ですので、もしもご存じのない方がいらしたら、ぜひどこかで触れてください。東西ドイツ分裂からの40年を、このモーセとイスラエルの民の旅になぞらえて語った、歴史に残る名演説です。
 
旧約聖書の重要な最初の五つの書の、2番目が、出エジプト記です。エジプトを脱出するときのこの物語と、恐らく後のイスラエルの律法となったであろういくらかのことが、そこに載せられています。五つの書の4番目が、今日お開きした民数記です。イスラエルの民の人数をひたすら数える叙述が多いこともあって、そう呼ばれますが、適宜物語があり、この荒れ野の旅を、いよいよカナンの地に入る直前まで、記録しています。
 
今日の場面は、全体の旅からいうと、やっとエジプトを脱出して2年目となった辺りからつながってきます。シナイの荒れ野を、男だけで60万という人数が移動し始めます。しかし、移動の中でこれだけの人数を賄うだけの食料が不足し、民は不平をモーセにぶつけます。すでにあの有名な「マナ」が天から降っており、飢えることはなかったのですが、エジプトなら肉でも何でも腹一杯食べられた、と文句を言うのです。
 
モーセは落ち込みます。主はモーセに言います。それなら肉を、鼻から出てくるほど浴びせてやろうじゃないか、と、なんだか怖い人のように。モーセは、そんなことがあるのかと驚きますが、「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(11:23)と宣言します。これは、うずらが腐るほど空から落ちてくることにより、直ちに実現しますが、とにかくモーセがこの言葉を、民の中に告げ知らせるところから、お読み戴いた箇所の場面が始まります。
 
◆宿営での出来事
 
主の言葉をモーセだけが当面聞くことができ、それを民に伝えます。近代においてこうしたことをすると、うさんくさい宗教ということになりましょう。もちろんモーセも一種の怪しさを秘めてはいますが、いまはあまり穿った疑いを向けることは差し控えましょう。まずモーセは、「民の長老の中から七十人を集め」ました。長老は老人という意味ではないでしょうが、いっぱしの大人です。人々の世話もできるような、なかなかの権威者が想定されます。単純化すると「偉い人」と呼ばれるような人でよいかと思います。

中東では、7という数字に神秘性を感じていたと思います。月の満ち欠けに7という数字が関わるのが理由でしょうか。70人もその流れです。「偉い人」は、ここではたとえば「議員」や「大臣」のようなイメージにつながっていくかもしれません。「幕屋の周りに立」つ長老たち。なかなかの壮観な風景です。
 
幕屋はイスラエルの民の神事に関わることで、この民族大移動の中での中枢部だと言えます。そこに集まるということは、重要な公務を意味するはずです。そこに要人を集めたのです。モーセはその公的な任務に就いた人々に、自分に与えられた霊の一部を取って授けたのだといいます。神秘的な、あるいは象徴的な言葉遣いなので、私たちの感覚からするとよく分かりません。何らかの神の権威が、モーセへの独占状態ではなくなるように、したかったのです。
 
そう言えば、出エジプト記18章に、モーセの舅エトロが訪ねてきた記事がありました。モーセが、朝から晩まで人々の相談につきあっているのを見て、エトロは、そんなことをやっていると身がもたないと驚きます。民の中にリーダー組織を階層状につくり、モーセは特別大きな事件についてのみ、携わったらよいという知恵を与えました。
 
それと似たような発想によって、モーセ一人で60万とも言われる民を賄うのではなく、ここでいうなら、70人の優れた人物を、各地でのリーダーとして立てることの必要性を感じたのではないか、と想像します。このとき、このリーダーたちも、モーセと変わらない対応ができ、権威があるとしなければなりません。そこで、「モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授け」たのです。教会において「長老」という呼び名をもつところがありますが、それは職務の名を表します。ここでも、恐らくそういうことなのだろうと思います。
 
神秘的な、あるいは象徴的な言葉遣いなので、私たちの感覚からするとよく分からないのですが、いまの私たち教会でも、新しい牧師を迎えるときには「按手礼」といって、教会の代表者たちがその人物に手を当てて祈るということをします。これもまた、霊を分け与えるという表現の、ひとつの形だと思うのですが、如何でしょうか。
 
これにより集まった公務員たちは、預言状態になります。このことについては、後に詳しく触れますので、いまはあまり深入りせず、モーセと同じように神の言葉、神の思いを告げることができるようになった、という意味で通り過ぎることにします。但し、長く続くことがなかったという記述があります。モーセの代弁をするには、力不足であったということだったのでしょうか。
 
しかし事はこれで終わりません。「宿営に残っていた人が二人あった」のです。ご丁寧に、二人の名前までがきちんと記録されています。エルダドとメダドだそうです。二人は、「長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった」のでした。経緯は分かりませんが、二人は優秀なリーダーとして名が挙げられていたにも拘わらず、任務に就くためにモーセが招集した場には言っていなかった、ということになりましょうか。
 
大したことではないのですが、この記述の場合、モーセは何人を招集していたのでしょうか。70人の中に、エルダドとメダドの二人は数えられていたのでしょうか。それとも、幕屋のところに出向いたのが70人で、モーセが本来招集していたのは、その二人を合わせて72人だったのでしょうか。もし72人であったのなら、「6人×12部族」の数字と一致します。
 
エルダドとメダドの二人の上にも霊が留まり、預言状態になった、と民数記は書いています。二人は、「宿営に残っていた」といいます。はて、「宿営」とは何なのでしょうか。分かったような顔して使っていたかもしれませんが、これは軍隊の用語で、軍の外に出て宿泊することをいいます。ここで「軍」というのがどういうあり方かは明確ではありませんが、幕屋の周辺で警備その他に就くことなのかもしれません。幕屋はイスラエルの民の神事に関わることで、この民族大移動の中での中枢部だと言えます。そこに集まるということは、やはり重要な公務を意味すると言えるでしょう。
 
◆預言状態
 
ではここで、「預言状態」に目を向けてみることにします。「預言」はもちろん「予言」ではありません。聖書を読み始めて、最初にひっかかる言葉のひとつです。未来のことを言い当てるのではなく、「神の言葉を預かる」という意味だと、通常解説されています。僭越な言い方ですが、「神に成り代わって、神の心を語る」とでも言いましょうか。
 
そんなことができるのか。ええ、だから時折「偽預言者」も聖書には登場します。今後の世界でも現れるように書いてありますから、気をつけなければなりません。「預言状態」は、その神の言葉を語るかのようになっている状態のことですから、極端に言うと、何かに取り憑かれたような様子、日本では昔「狐憑き」と呼ばれていたものでイメージすることも、可能ではないかとすら思われます。明治頃の新興宗教にも、そうした例がありますし、その前の「ええじゃないか」運動も、そうした現象だったのではないか、とも見られています。
 
一種の「トランス状態」といま呼ばれるようなものを、想像してもよいのかもしれません。古い文献の中の言葉ですから、どういうものか、私たちは想像するしかないのです。まさかとは思いますが、麻薬で「ラリっている」様子もそれだと言われると、肯くしかないかもしれません。
 
しかし聖書の記事においては、その「ラリっている」ということなのかと思わせるような記述もあります。サムエル記上にある二つの記事の、一つだけご紹介します。
 
10:10 ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。
10:11 以前からサウルを知っていた者はだれでも、彼が預言者と一緒になって預言するのを見て、互いに言った。「キシュの息子に何が起こったのだ。サウルもまた預言者の仲間か。」
10:12 そこにいた一人がそれを受けて言った。「この人たちの父は一体誰だろう。」こうしてそれは、「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざになった。
 
サウルはイスラエルの初代の王で、次がダビデです。モーセとは千年単位で時が厭きますが、聖書の編集から考えると、それほどの時を必要としないと考えられますので、同じ思想の流れの中で記されていると推測できます。旧約聖書の「預言状態」は、おそらくこうした様子を想定しているのではないかと思います。いや、実はもっと酷い状態の描写も、あるにはあるのですが。
 
もうひとつは、新約聖書の記事です。これが、過越の祭から50日目に行われる「五旬節」、ギリシア語の言葉で「ペンテコステ」の出来事です。本来麦などの収穫祭であったわけですが、教会にとっては大きな別の意味をもつようになりました。過越の祭のときにイエスが処刑されました。イエスの死と復活から7週間を経て、神が約束した「聖霊」が、弟子たちのところに大々的に降り注ぐという、不思議な出来事がありました。使徒言行録から引用します。
 
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 
これを「預言状態」と呼んで差し支えないと思います。このときから、弟子たちは、それまでのどこか怯えたような生き方を改め、新しく堂々とイエスを証言し、イエスの教えを伝えるように変化したとされています。つまり、教会らしい活動を始めたということで、このときを「教会の誕生日」と喩えることができると考える人もいます。ただ、この様子を目撃した人の中には、悪口を言う人もいました。
 
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
 
それほどに、この「預言状態」は、センセーショナルなものでした。この出来事については、来週お話しすることに致します。
 
◆教会の言葉
 
それにしてもこのとき、酔っているように聞こえたのであれば、理性的にものが言えていないに違いありません。それでいて、それらはどこそこの国の言葉だ、と認識されているのですから、全くの意味不明ということでもなさそうです。何か言っているということは認められるが、何を言っているか分からない、意味を解せない、そういうふうであったのだろうと想像します。
 
この出来事は、「教会の誕生日」とも見られている、と申しました。私たちはいま、教会にいる、と自覚しています。建物ではありません。同じ信仰を継承していると思う者たちのつながりの中で、信じている者のつながり、あるいはいっそ信じている者たちそのものを、教会と呼んでいることになります。すると、かの出来事が、いまに受け継がれているかどうか、問い直す必要があるのではないでしょうか。あの出来事は、過去の一度きりのものなのか。だとしてもまた、その本質がいまに引き継がれているのか。本当なら、いまに続くものがなければならないと思うのですが、さあ、どうでしょう。
 
霊的な興奮に過ぎないものとして「預言状態」を捉えるならば、いま私たちの多くはそのようにしていない、とも言えます。しかしキリスト教会の中には、そのような霊の激しい働きを示すところもあります。霊のなせるままに、自由にいろいろなことを語ったり、大きな声で盛んに祈りを続けたりする礼拝も、あるのです。これは「預言状態」を継承していると見ることもできると思うのです。
 
しかし、それがどうしても必要であるいうわけではないように思います。ならば、「預言状態」は、いまはすっかりおとなしくなってしまっているのでしょうか。
 
もしも「訳の分からない言葉」というものが「預言状態」のひとつの特徴だとすると、私は、十分どの教会も、その「訳の分からない言葉」を発していると思っています。まさか、とお思いですか。いえ、何らかの言葉だということは分かっても、何を言っているかその意味が分からないのが、それだと先程捉えたのでしたね。だとすると、確かに世の中の人たちには通じない言葉を、私たちは平気で使っているのです。
 
聖書の言葉は、たいていは、世の中に伝わらないように思います。「クリスマス」こそポピュラーですが、教会が想定する意味はなかなか教会の外には伝わりません。来週の「ペンテコステ」などは、皆目見当が付かない言葉でしょう。「預言者」は予言とは違うのですか、と見られるのが普通です。
 
教会用語としては、以前からよく指摘されているのが、「兄弟姉妹」。教会の外から来た人が、教会にはずいぶんと兄弟関係が多いと驚いた、などという話は、もはやギャグにもならなくなりました。これは新約聖書の中に書いてあることからも分かりますが、キリストの弟子たちは、人肉を食べているとの噂が立っていたようです。ヨハネによる福音書では、イエスのそうした言葉を、なんてひどい言葉なんだ、と人々があきれかえる場面もありました。
 
もちろん、こうしたことは、いまの教会の人たちもよく自覚しています。でも、その程度であることが多いのです。「教会の常識は、社会の非常識」などと指摘する人もいるくらい、トンデモな考えがまかり通っているのですが、いまそれをあげつらうつもりはありません。特定の人をわざわざ非難するようなことにもなりかねませんから。逆に、あまりに社会的に常識的に振舞う教会は、ただの仲良し倶楽部と化している場合もあり、どちらがどうと評価するのは難しい面があるのも確かです。
 
教会組織が、よかれと思って、社会へ向けて何かを発信しても、むしろ気味悪がられて引かれるということは、数え切れないくらいあるのだと考えています。あるいは、よくそんなことが言えるものか、と批判される場合もあるでしょう。自分はよいことをしているし、よいことを言っているつもりで、実は非常に不愉快に聞こえる、という可能性があることに、教会の者は気づいているでしょうか。
 
◆ヨシュア
 
今日の聖書の話の中に、ヨシュアという名前の人物が登場しています。エルダドとメダドが、幕屋に出向くことなく、宿営で勝手に預言状態になっているときでした。
 
11:28 若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。
 
ヨシュアは、なにかとモーセの傍にいて、付き従っていました。「従者」という呼び方自体が、ヨシュアの立場をよく表しています。このことがよかったのか、それとも元々才能があったのか、モーセの死後、イスラエル民族を率いて約束の地に入るために、このヨシュアがリーダーとなります。そのヨシュアが、ここでモーセに苦言を呈しているのです。
 
預言状態の二人は、幕屋に、いわば出勤せずにいたわけです。それで、自分の住まいにいたようなままで、勝手に預言状態になっていたということで、ヨシュアは、規律が守れないと憤ったようなものでした。私はそのようにこの様子を思い描きました。
 
ヨシュアの指摘は尤もだと思いませんか。長老たちを招集したのに、二人が休んでいた。招集した長老たちは、モーセが霊を与えたけれども、いまひとつの様子だった。ところが招集にやってこなかった二人が、勝手に預言状態になっている。これは統率上、拙いケースです。規則に従った者よりも、反抗した者がよりよい結果を出している、会社組織だと、これを安易に褒めるわけにはゆかないでしょう。
 
ところが、これに対してモーセが、第一の弟子のようなヨシュアを諫めます。
 
11:29 モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
 
記憶する限り、ヨシュアがこのように叱責されたことは、思い当たりません。従者と呼ばれているように、常にモーセの傍にいて、助手のように活躍し、忠実なしもべとしての役割を十分果たしてきたヨシュアにして、ここでは叱責の対象となっていたのです。それを「ねたむ」という言葉まで持ち出して批判するのですが、先程触れたように、ヨシュアはヨシュアで、決して悪い判断ではなかったわけです。
 
モーセの思いを想像してみましょう。神の霊を受けて相応しく働く者の手助けがほしかったので、72人だと推測される長老という地位あるメンバーを集めたが、モーセが期待するような霊的な働きができそうな人物がひとりも現れなかった。ところがその招集に姿を現さず家に残っていた二人が、モーセの期待するような霊的な働きができそうだと分かった。それをヨシュアが理解せず、邪魔な者たちだと排除しようとしたので、ヨシュアを叱責した。こんなふうでは、如何でしょうか。組織の立場よりも、実績を重んじたわけです。ヨシュアは正論をぶつけ、どこかモーセに媚びたつもりでしたが、どうやらモーセの真意を理解し損ねていたようです。
 
◆誰もが預言者になればいい
 
モーセはこのとき「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」と言いました。「民すべて」とは聞き捨てなりません。主の霊を全員が受けてほしいというのは、少々短絡的な叫びだったかもしれませんが、もしかすると、案外こういうところに、神の思いがこめられているのではないか、とも感じられます。
 
すでに申し上げましたが、預言者とは、「神の言葉を預かる」、あるいは「神に成り代わって、神の心を語る」人物のことをいいます。他方、ここでいう「預言状態」とは、精神的に少しヤバい状態かもしれない、という見方もしました。これは由々しき理解です。神の言葉を告げる者が、中毒患者のような危ない精神状態だというふうに捉えられかねないからです。
 
そこで皆さんが思い起こすのは、新約聖書のパウロの手紙の言葉であるかもしれません。時代が異なりますから単純に比較はできませんが、少なくとも日本語訳は同じ「預言」という言葉を使っています。コリント人への手紙の第一には、このような記述があります。
 
14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
14:3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
14:4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
 
この、預言と異言とについては、この問題に触れるだけでも、一時間で済むかどうか難しいような内容です。従って、いまそれをゆっくり検討しようとは思いません。ご了承ください。
 
異言は、一般的に、ひとには伝わらない不思議な言葉です。何かしら興奮状態でわけの分からない言葉を口にするという現象だとすると、いまでもこれを強調する教団が、ないわけではありません。次週共にお読みするペンテコステの時にも、集まった人々が、聖霊を受けていろいろな国の言葉で話し始めます。この現象が、いまも起こるのだ、と主張するわけです。パウロの時にも、どうやらそのようなことが起こっていたらしく、コリント書でこのように扱われているわけですが、異言は人間に対して話すのではなく、神に向けて話しているのだ、と言っています。しかし預言は、人に向けて分かるように話すのだ、という対比がなされています。異言は自分をよくするのに役立つけれども、預言はむしろ他のひとを助けることができる、とも言っています。
 
14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
 
モーセの場合の出来事が、このパウロの説明するものと同じだという保証はどこにもありませんが、「預言状態」に、もう少し理性的なものを多く含ませて読んでみるならば、モーセの求めていたものを想像することもできようにかと思います。モーセ自身は神と語り合い、その神の言葉を人々に伝える役割を担っていました。そのモーセのように、神の考えを人々に説明することのできる人物を、民の中に期待したのではないでしょうか。それが、呼び集めた優秀なメンバーからは現れず、宿営になぜか残っていた二人が、期待に添えそうだと分かったのです。
 
我こそは、と集まった人々にではなく、いわば家の中で出てこなかった二人の中に、合格者がいたことになります。モーセは、それでよいと見たのでした。我こそは、の中にではないにしろ、地味なところに、期待できる人物がいたということが分かりました。
 
◆あなたのふだんの場所で
 
神の霊を受けて神の思いを語る人。説教者が求められています。誰か、神の宣教のために牧師になってほしい。これは日本の教会の切実な願いです。しかし、少し古いデータになりますが、2014年の調査によると、プロテスタント系で、常駐の牧師がいない教会が、6つのうち1つはあるとされています。その後は確実に割合が増えていることでしょう。いわゆる神学校という牧師養成所においても、学生数の減少は目を覆うばかりで、そうなると、希望者が重宝がられることになり、学生の質の劣化は否めません。もうその質の低下は、四半世紀前から歴然としていましたが、その後も加速度的に下がっていると私は感じています。
 
牧師の年齢は、2015年のある調査で、平均年齢67.8歳。70歳以上がその半分ほどであり、さて、その7年後、平均年齢は下がっていることが期待できるのでしょうか(以上『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる』いのちのことば社)。
 
モーセが幕屋に呼び集めた長老というのは、必ずしも高齢者という意味ではないと想定しました。教会において「長老」という呼び名をもつところがありますが、それは先に触れたように、職務の名を表します。逆に言えば、ここでモーセが集めた長老は、一定の職務に就く人々であったわけです。モーセは、恐らく宗教的に信頼のおける役職をもつ人々の中から、霊的な職務が可能なメンバーを探した、だが期待外れだった、そういう情況がここに描かれているものと理解可能だと思います。幕屋というのが、後の神殿であり、私たちでいう教会堂であると考えると、ますますこれは、教団の牧師たち72人に招集をかけた、というようなものだと見ることは、あながち的外れではないものと思われます。
 
ところが、その殆どは、モーセの求める仕事が任される情況ではありませんでした。質の低下どころか、元々質が悪かったということになるでしょうか。しかし、中に2人だけ、見所がある者がいたのです。わざわざエルダド、メダドという名前まで遺すほどに、役立つ2人を発見しました。それは、呼び集めた幕屋にいたのではなく、宿営に、残っていました。この2人が、霊的な力、すなわち信仰や才覚において優れていたのだとすると、教会のようなところにではなく、家に普通に住んでいたというように捉えては如何でしょうか。つまり、在野ということであり、生活の場にいた、というふうに見つめてみましょう。
 
2人は、教会でだけいい顔をしていて、自宅に戻れば愛のない態度をとっていた、というような生活とは無縁だったに違いありません。何も、聖人君子であれとは申しません。さしたる目立つところがなくても、いざ接すると、この人には何かがある、と感じさせるような人って、いませんか。一緒にいると、ほっとする。何か信頼して打ち明けることができる、任せることができる。任せて安心していられる。そんな人が、なにげない生活の場にいるとすると、ステキではありませんか。
 
それに対して、肩書きは立派だが、どこか信頼が寄せられない。口先では尤もらしいよいことを言うが、中身が伴わない。どうにも自己宣伝はうまいが、よくよく聞いていると嘘を言ったり、肝腎なことを隠したりしているようだ。そういう人に出会う経験を、私たちはずいぶんたくさんしてきたのではないでしょうか。
 
だから、どんな肩書きや地位、あるいは教会でのなんとか委員会のリーダー、あるいは牧師と呼ばれている人、そうしたものには一切囚われず、ふだんのあなたの信仰生活に、神の目が注がれていると知るべきです。モーセですら、宿営というふだんの生活の場所の中に、霊的な力をもつ人を見出したのです。その活動を、ヨシュアのように止めろなどとは考えなかったのです。まして神は、ふだんの居場所で、誠実に聖書に親しみ、十字架のイエスのことを忘れず、常に感謝の心をもって生活しているあなたを、喜んで受け容れてくださることでしょう。まさに、モーセに与えられた、あるいはそれ以上の、神の霊を与えてくださることでしょう。
 
着飾ったり、人目につくところで良い人間を演じたりたりしないで、ただ神の前に生かされているからこそ、あなたのその姿勢は「続く」のです。人前でつくった態度は、長続きしません。いつか光に照らされて暴露されることを恐れていなければなりません。あなたは堂々と、いつも主が共にいることを喜んで、小さな行いや小さな言葉遣いの中に、イエスを感じつつ、言葉と行いを献げていくとよいのです。あなたに与えられた霊が、それを無理なく続けさせてくださるはずです。真摯に、誠実に、イエスへのあなたの信頼を胸に、日々を歩んでまいりましょう。そこに霊が、主が共にいてくださいますから。



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