大学と問い

2022年5月26日

私は不良高校生だった。社会悪をしていたという意味ではなく、勉強に不誠実だった、という意味だ。しかし、優等高校生も世の中にはたくさんいる。ストイックに受験勉強に向かい、目的を達成して、花の大学生活が始まった人も多いだろう。
 
そこへ待っている魔の手がコミカルに表現されたのが、「四畳半神話大系」で、いま福岡ではそのアニメが放映されている。再放送らしいが、私は初めて見たので、新鮮に喜んでいる。実にクリエイティブな映像が展開するが、これは、京大(とは名言しないがどう見てもそれ)に入った「私」が、入ったサークルにより夢見たキャンパスライフとは程遠い人生を歩むということを、毎回一から繰り返すものである。つまり、幾度も入学しては、別のサークルに入る。しかし、どこにでも同じキャラクターが登場し、恰もスターシステムのように物語がハチャメチャにできていくのだ。
 
いや、こんなことはどうでもいい。大学に入ったというところに戻ろう。いまどきの大学は、実にシビアだ。学生がたいそう管理されている。出欠の厳しさは、当然と言えば当然だが、昔の「代返」などといった事態が決して起こらないようにできている。それでも、ある大学では、私語をしたりスマホをいじったりという学生もいるらしいが、かなり粗悪な存在のように、大学関係者は指摘する。昔はどうだっただろう。私の乏しい経験からすると、私語なるものは存在しなかった。当時スマホはなかった。出席管理は、さほど厳しくなかった。試験ができていれば単位くらいはくれたものだった。出席をまともにつけていたのは、語学くらいのものだったと思う。
 
いやいや、不良自慢をしている場合ではない。大学生が、入ってえらく苦労しているという話がある。そう、高校時代と同じように、ストイックになんでも完璧にこなそうとすると、そうなるはずである。高校の授業は、大学入試という目的があったら、その目標に向けて一筋にやるように設定できる。だが、大学では、単位を取るのが目的であってもよいし、そういう講義がいくらもある。自分の専門ではないが、採らなければならないということだ。そこでエネルギーを使い果たしていると、身がもたないだろう。
 
もちろん、入学さえしてしまえばあとはどうでもいい、というような考え方を推奨しているわけではない。アメリカのちゃんとした大学だと、来週までにこれこれの本を何冊か読んでおいてレポートせよ、というような、無理難題をぶつけられるのが当たり前だ、といった話も聞いたことがある。大学を卒業するのは至難の業だ、と言わんばかりである。近年の日本の大学は、その傾向も帯びてきたように見えないこともない。だったら、入るときも苦労、入ったあとも苦労ということで、まことに良質な学者を育てるに相応しい環境となっていく。ある意味で受験勉強よりも身を削るような毎日ともなりかねない。
 
学部や学科により、大学の講義などは、様々な違いをもつ。画一的に、どうのこうのと言えるわけがない。だから、ある部門の人には、こうした呟きは、てんで見当違いだというように見える場合もあろうし、ある部門の人には、確かにそうだと思える部分もあるであろう。
 
たとえば、理系と文系とでぼんやり分けると、理系の勉強は、さしあたり一定の解答に行き着く道筋を多く弁えることが肝要であろう。高校までの勉強は、必ず決まった答えがあって、その答えをどう導く技術を身につけるか、が必要な勉強というものだった。理系の学習では、如何にユニークな発見や研究を狙うとはいっても、大学生としてスタートしたときには、最低限必要な技術を身につけなければならない。数学を、ある意味で高校と同じように学んでいかなくてはならないであろう。
 
ところが、文系ではどうだろうか。語学は、ある程度正解もある世界ではあるが、それでも、正解が一通りであるかというと、そうは断言できにくくなる。一応の常識や理論というものはあるが、理系に比べると、一つの正解を求めるという感覚が、薄れていくのではないだろうか。
 
では、文系にとり大切なセンスは何だろうか。これは私が実際に大学で最初に学んだことである。それは、「問う」ことである。講義としては、ハイデガーにまつわる話ではあったが、「問う」こと、そこにこそ注目すべきものがある、ということだった。初めての夏の試験でもその点が訊かれたので、ただ罫線の入った試験用紙の表裏いっぱいに、「問う」ということの意味を、拙い理解のままにではあるが、書き殴ったことを覚えている。
 
逆に言えば、文系の知識として、これこれはこうなのである、と一意的に解答が出ていたとしたら、むしろがっかりである。偽物臭いと思う。そして、もしもそういう世界になったら、危険極まりないものだと考える。世界の価値観が、ひとつに決められてしまうことになるからだ。これがどういう恐ろしい国家をつくってきたか、また今もつくっているか、それを見渡せば想像できるだろうと思う。
 
こうなると、信仰においても、まさにそうだということが分かる。恐ろしいカルト宗教には共通な特徴があって、教団が、ひとつの解釈やひとつの意味づけだけしか許さないのである。独自の経典や言葉をつくつたところは言うまでもない。その言葉の前に皆同じ顔になれ、同じ頭になれ、ということを強要する。それに従うものだけがもてはやされ、従わないものは追放されたり、罰を受けたり、殺されたりする。
 
キリスト教のように、聖書というテクストがありながらも、恐ろしい集団は、決まって、ひとつの意味をしか認めない。だが、聖書に書いてあることの意味は決まっているのではないか、と疑問をお持ちの方もいるだろう。イエスの言ったことはひとつであって、決まっているのでは、という具合だ。そうだろうか。福音書のイエスの言葉は、あまりに謎めいていないだろうか。
 
たしかに、このイエスの言葉はこういう意味である、という解説はよく見る。少しでも分かりやすくするために、断定的な説明を施すほうが、読者は迷いがないということになる。だが、本当にそうだろうか。イエスという方の言葉は、そんな薄っぺらいものだというのだろうか。よく福音書を読んでいくと、イエスは人々にさかんに質問をぶつけていることが分かる。つまり、イエスはしばしば、人相手に問うているのだ。そしてそれに対して人が何か答えたとしても、それが正解、というような反応をまず殆ど見せていない。確かに、素朴な信仰を褒めることは多々ある。だが、その信仰を褒めた後、その人がどう生きるかは、その後の課題となったというように見える。そこからどう生きるのか、をさらに問うことはあっても、よくできました、もう十分です、というような結末をあまり見せてはいないと思うのだ。答えが出ているかのようでありながら、実はさらなる問いをぶつけているというのが、適切な捉え方ではないだろうか。
 
もしも何かを断定しているだけ、のように見えるところが多数あろうとも、私は、その意味が唯一のこの意味しかない、というようには言えないような気がしてならない。なぜなら、意味がこれしかないというのであれば、もはや礼拝説教は、考える必要がなくなるはずだからだ。その決まった答えを説明すればよい。すべての牧師は、決定解釈リストの文章を拾い出して、テーゼ通り読み上げればよいのだ。だが、そんなふうにはなっていないのではないか。
 
いや、待てよ。自分では神体験がないものだから、ウェブサイトからコピペで説教的作文をつくるという人も、中にはいるかもしれない。教会学校で子どもたちに語ることは決して軽くはないが、比較的単純化されるのが通例だから、そういう分かりやすい結論だけ出しておけば、途中のつながりなどどうでもよいような態度で、作文を作れば、形にはなるのである。だがそこには、問うものは何もない。命がないことは明白である。
 
聖書の中から、実際イエスは問い続けている。私たちは神に祈り、神の言葉を日に日に受ける。その都度、「これでいいのだ」で終わるようなことはない。「それで、おまえはどうするのだ」という問いかけが繰り返される。それが終わらない以上、それ故に私は生きている、ということなのだろうとさえ思う。聖書のこの意味はこうだ、と一意的に結論づけてしまおうものなら、「本当にそうか?」という問いが向けられてくる。それでよいではないだろうか。
 
大学の文系に分類されている分野でも、これに近いものがあると思う。もしも、一定の結論が出ていたのであれば、もはや誰も、文学を問わないし、経済を問うこともない。結論が出てしまっているのだから、それはただ訓練学習の材料にはなっても、問う対象ではなくなってしまうのである。数学だったら、何々の解き方は決まっていて、学習訓練して身につける必要があるが、その解き方を改めて問い直すということは、基本的になされないであろう。三角形の面積の公式はこれでよいのか、と問い直すことは、誰もしないであろう(何か別の目的のためにそれを問う可能性はもちろんある)。
 
高校までの勉強には、「解答」がある。だが、大学からは、「答え」のない世界に、もう足を踏み込んでいることになる。「答え」が出ないと苛々する必要はないどころか、それは極めて当然のことだと前提しよう。特に、答えが出ない、定まらないというものこそが、人文学というものである。それを弁え、あくまでも問い続けるところに、人文学の存在意義がある、とさえ言えるのである。だからこそ、人文学が歴史をつくり、他方また、歴史から人文学が生まれている。これを無視して、経済効率や科学技術のみが価値があるものであり、文系学部を軽視しているような世相がもしも本当であるとしたら、人類の未来は悲観的なものでしかないだろう。特に、信仰がありますと自称する人々が、その波に乗ってしまったら、転がり落ちる道を加速することになるだろう。
 
信仰が与えられ、人文学を学ぶ立場に置かれている学生には、重大な使命がある。私は、そのように捉えている。



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