祈りと説教

2022年5月18日

ほかの人のために祈ることを、「執り成し」という。京都の教会にいたときは、私もずいぶん若かったから、お年寄りの教会での祈りを、しみじみ聞いていた。Nさんというおばあちゃんがいて、もう礼拝にもあまり出てくることができませんでしたから、牧師がそのNさんをよく訪ねていたので、礼拝説教の中でも触れることがあった。
 
祈りの課題を、もはやなかなか覚えていられない。そこで考えたNさんは、紙に書くことにした。ここまでは、誰でもありうることである。だがその紙を、散逸しないようにか、巻物のように巻き付けるものにしたというのだ。課題が増えればまた書き足せばよい。巻物を開きながら、神よ、と祈る。この祈りに、私も支えられていたのだ。
 
巻物というのは、決して突飛ではない。ユダヤ教のラビが読む正式の旧約聖書は、巻物である。クムランなどで発見されている二千年前の聖書も、巻物である。羊皮紙だかパピルスだか知らないが、「書」というのは、巻物であるのが常識だった。
 
だから、Nさんの祈りの書は、理に適っている。
 
Sさんは、足が立たない。車椅子であるが、自分のをもってきても狭い教会で利用しづらいため、教会の車椅子に座るだけのようなものだった。キリスト教関係の老人施設で暮らしており、牧師が礼拝の前に車で迎えに行く。教会は、民家を改造したものだったので、Sさんがそのトイレを利用するというのは難しかった。Sさんは、日曜日は水分を朝から採らないように努めていた。この方の祈りは、凄まじかった。信仰というのはこういうことだろう、と誰もが感じた。とにかく、信仰の人だった。まだ子どもの頃だったか、もう命は長くないと医者に言われたが、生き延びた。すでに七十を越えていたが、そのことが、人間の言うことは信じられないが、神は信じられるという確信を与えた。歯がなく、話す言葉はもぐもぐとしていたが、その祈りの迫力は、心して「アーメン」と、聞く方も背筋を伸ばして言わねばならないものだった。とにかく、信仰と祈りということで、この人にまさる人を、私は見たことがない。
 
歌うような祈りをする人がいた。流暢に、よくぞ次から次へと祈りの言葉が出てくるものと思われた。京都の教会では、礼拝の中の祈りは、示された人が自由に何人か祈りをリレーしていくものだったが、その人が立ち上がると、これは長くなる、と誰もが思っていただろう。何分続くか分からない。あれやこれやと聖書から引いてきて、巧みで立派な、芸術のようなものでさえあった。奉仕もよくしてくださり、人当たりも優しく、朗らかだった。
 
だから、私が京都から福岡に来た後、この人が、牧師を追放する先頭に立ったということが、どうにも悔しく思われる。律法的な厳しさを持ち合わせていたのだ。牧師は何も、後ろ指を指されるようなことをしたわけではない。教会規則に触れるようなことでもない。だが、「牧師たるものは」と激しく糾弾し、信徒たちを巻き込んだために、牧師は、もう対抗する気にもなれなくなったのだ。遠い福岡の私に、牧師がその経緯を電話してきたことで、私も初めてそれを知った。私はそのとき、牧師の牧師とでもいうのか、牧師が何かを吐き出せるような相手が必要なのだということを、しみじみ感じた。
 
別の家を借りて、夫婦で小さな教会を始めた。私たちは京都に行くとき、何度かそこを訪ねた。私たちが信仰を培った説教は、やや丸みを帯びてはいたが、やはりほっとするものを覚えた。妻の両親のために、ずっと祈り、またトラクトを届け続けてくださったことは、感謝してもし尽くせない。妻にとり、その牧師夫人は、頼れる強い姉のような存在であり続けた。
 
ひとのために祈る。美しい言葉、その語り方など、立派な祈りが、すべてではない。この場合、公祷といって、礼拝など公の場で、代表して声を出して祈るというものである。あるいはまた、祈祷会とか祈り会とか言って、週の中程の午前ないし夜に、少ない人数で共に祈るというプログラムがある場合がある。そこでも、順番に祈ったり、同時に声を挙げて祈ったりすることがある。こちらは、だいぶプライベートな内容になることもある。互いの祈りの課題を知り、またその故に、相手のために祈ることができるようにもなる。
 
ではひとりのときにはどうか。まとまった一定の時間を祈るというのが理想的なのかもしれない。私は普通、プライベートにはそのようにはしていない。だが、ただどんなことをしていても、どんな場面でも、神を見上げる。誰かのことが頭に浮かんだら、その瞬間に神を呼ぶ。一日の中でまとまった時間をとっていないのが申し訳ないが、それでも、事ある毎に、主の名を呼ぶのだとすれば、それもまた祈りとしての形だろうと、自分では思っている。つまり、いまこうして文章を綴りながらでも、祈っている。主に心を注ぐということは、いつでもどこでもできるのである。
 
もちろん、黙想のように、少し時間をかけて神からの言葉を待ち、あるいは与えられた言葉を転がすようなこともある。それもまた祈りと呼んでよいのかどうか、それは自分では決めていない。
 
紙に書き出していないから、つい誰それのための祈りを忘れているようなことも、ないわけではないが、教会から届く祈りの課題は、とにかくそれを見たときに、祈っている。だが、そこには、2年以上も、医療従事者や保健職員のための祈りの課題は挙がってこない。教会が寂れてきているのは、当然であると思っている。
 
Nさんの祈りは、巻物に書いていると言った。お年寄りが、新しいことをなかなか覚えられない性質上、たぶんこれは、すばらしいアイディアだと言えるだろう。しかし、礼拝での公祷のために、原稿を必ず書いて読む人が、福岡にくると非常に多いことを私は知って、驚いた。なるほど、公祷であるために、言葉に詰まったり、変なことを言ったりするのはよくない、と考えるのだろう。だから、そうした場での祈りのために原稿を書くことも、またひとつだと認めるのには、私は吝かではない。
 
では、礼拝説教はどうだろう。これも、いま最高齢レベルの説教者が現役の頃には、原稿を書いた後、全部暗記して語ると決めている牧師もいたことは確かである。いまはなかなかそうはいかないだろう。だが、説教後の祈りもまた、原稿をただ読み上げる人がいて、それでいいのか、とツッコみたくなる。私の乏しい説教経験からしても、さすがに原稿はつくるが、祈りの原稿はつくったことがない。その原稿というのも、文章としてきっちりと書いてしまうものの、実際に話すときには、読み上げはしない。語る言葉は生きているはずである。会衆の顔を見る。そこには、霊の流れがある。言葉では簡単に説明できないが、言葉の説明を加えるべきだと感じたり、このエピソードは言わずもがなだと判断したりしながら、その場で、説教という霊の場を築いていく。会衆と共に、自分もまた知恵と力を与えられる恵みがそこにできる。
 
学者牧師の場合には、原稿読み上げもあるようだ。日頃、言葉に責任をもつ立場で仕事をしているから、ちょっとした言葉の選び方で、妙な責任を負わせられる危険がある、と考えるのかもしれない。それならば、論文を書くかのように吟味した原稿を、ただ読んでおくに限る。失言をする心配がないからだ。ただ、その読み上げる言葉に、どんな力があるのか疑わしいし、またその場の霊の存在を蔑ろにしているということで、私は、それは命を注ぐ説教にはなりにくいだろうと考えている。どう思われるだろうか。
 
原稿を書くのは、よいことだと思う。私は原稿を予め実際に読んでみていた。かかる時間も分かる。また、声に出してみることにより、その言葉を聞く人がどういうふうに捉えるだろうかという点を考えられると思った。だから、たとえば何らかのトラブルで、壇上で説教原稿の最後の紙が見当たらないような事態に陥ったとしても、自分が何をどのような気持ちで書いたかくらいは覚えているわけだから、そんなトラブルはおくびにも出さず、霊の教えるままに、語り終えることができるだろうと思う。そもそも、壇に上がる前に、原稿の紙を確認しないというようなことは、ありえないことだが。
 
まさかとは思うが、原稿の紙が最後ない、などと十秒以上も探した挙句、どこかにいきました、とへらへら笑い、会衆の笑いを求めた後、それでは終わります、などと突然説教をやめるというようなことがあったら、それはもう、説教への冒涜以外の何ものでもないだろう。同じ説教を午後の礼拝でするときに、朝の失敗をまたわざわざ説明して笑いをとるようなことでもしでかそうものなら、万死に値すると言えるだろう。そして、こういう語り手を笑って許す教会がもしもあったとしたら、とても真面目に神を信じているだなどと言えないことは明らかであろう。
 
作文をただ棒読みする説教で、多少の演技はしても魂がこめられていない場合は、自分が何を書いたかなど、覚えていないことがありえよう。そして、自分で神の声を聞いていたのでなく、ウェブサイトで拾ってきた言葉をつぎはぎするような原稿をこしらえて、それを尤もらしく読み上げることが説教だと勘違いしているようなことが、現代では起こりうるのではないかと私は恐れている。それで形にはなるし、ぼうっと聞いていると、尤もらしく聞こえるからだ。でも、注意深く聞くと、その聖書の箇所がそんなことを言ってもいないのに、それと関係なく、教会でよくありがちな結論をもってくると、よい話を聞いたような気になるので、ちゃんと聞かなければならない。全く筋が通らない説教は、その人が神から聞いたものではない、と私は思う。そういう日常を放置する教会であったら、それはもう死んでいるに違いない。
 
祈りは、時にヤコブのように、神との格闘にもなり得よう。とにかく神とサシで語る場である。説教は、神の言葉を語るものである。それは命の言葉だと聖書は告げる。祈りも説教も、命懸けのものである。説教を大切にしない教会ごっこは、もうたくさんである。



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