読点

2022年5月10日

文章を書くのが上手でない人の特徴の一つは、読点が打てない点にある。小中学生の作文を見ると、言いたいことが整っており、スムーズに伝わってくるときには、概して自然な読点が打たれている。だが、風呂上がりにジャージを穿くように、足がひっかかりもっかかりとなるような印象で読む文章は、読点の打ち方がおかしいという場合が多い。頻繁に不自然にブレーキランプが点く車の後ろを走るとドキドキすることがあるが、読点は、走行中の、適切なブレーキランプに喩えることもできそうな気がする。
 
もちろん、自分だって、他人から見れば、ずいぶんと読みづらい読点だな、と思われているかもしれない。自分では標準だろうと思っていても、読む人からすれば、奇妙だと感じるようなことは、覚悟しておく必要があるだろう。それほどに、読点の打ち方には、実は定まったルールがあるとは言えない、と考えられる。ルールが分かりづらいからか、中には、読点をひとつも打たない主義のような生徒もいる。案外、多い。
 
思いつくままに、私の捉え方を並べてみる。これは、文章読解においても参考になるヒントでもあるから、国語の学習をしている生徒さんにも注目してもらえたらいいと思う。
 
・音読するときに、一息入れて然るべきところに、打つ。
・前後の内容に、何らかの距離感が感じられるときに、打つ。
・その次に、よく見てほしいことを置くときに、打つ。
・逆に、その前に、よく見てほしいことを置くときに、打つ。
・視認性の問題から、一目で意味を受け取りやすいように配慮して、打つ。
・助詞を省略したために、打つ。
 
大きな観点としては「誤読を避けるために、打つ」というのが、必要な構え方であろうか。そこが読点なしでつながっていると、意味を誤って読み取られてしまう場合があるのだ。このことを、書いた本人が認識できるかどうか、それが重要なのである。となると、やはり本来の言葉の能力やセンスというものが、ものをいうのだろうか。
 
たとえば、主語をどうしても文の最初にもってこなければならない、と信じている人がいる。その後で言いたいことを挟むように次々と並べていくと、一文が長くなる。すると、その主語に対応する述語が、遙か彼方の文末に置かれることになる。読みづらい文になること請け合いであるが、主語述語のねじれも生じやすい。さらに、そこに読点の打ち方の拙さが入ると、主語に対応する述語が、本来のものとは別のものに見える可能性が高くなり、文意が届かなくなる。二度も三度も読み返して、ようやく、意味を解するというのでは、読者を疲弊させるばかりである。
 
そんな文章は読まなければいい、ということになりそうだが、あいにく、どうしても読まねばならないという場合もあるから、苦労する。命の言葉を伝える人に、普通の国語能力を求めてはいけないのだろうか。どうしても能力がないにしても、せめて読み返して推敲するくらいの手間は惜しまないでほしい。明らかに読み返しもしていないということがはっきり分かる文章を、命の言葉だと提示することは、信頼をなくす近道となってしまう。尤も、命の言葉をもたない人が書く場合は、それ以前の問題ではあるが。
 
もう一つ、特記しておきたいことがある。先程の誤解ということの具体例に過ぎないが、修飾語と被修飾語とが遠く離れないように配慮し、どうしても離れる場合には、その離れることを予告するために、読点を打つ。これは、小学校の低学年でも指導する、国語の基本である。書いた文章を、人生に大切なものとしてひとに読んでもらう職業の方で、こうしたことができていない人は、小学生の文章教室のテキストを、ぜひ買い求めて学んで戴きたい。自分の書く文章に、ひとの命が懸かっているという自覚が、もしもあるのならば。



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