聞くに堪えない

2022年5月8日

隠退牧師たる加藤常昭氏へのインタビューが、NHKラジオR2で2週にわたって放送された。私の場合は録音させてもらったが、6月半ばまで、ウェブサイトで聞くことができるので、関心をもたれた方は、直接アクセスできる。加藤氏は哲学を学んだ方でもあり、その話は、明快で、筋が通っている。評価はいろいろあるかもしれないが、今日の日本の教会の説教に多大な影響を与えた人の声を、一度受け止めるとよろしいかと思う。それは、この人の言うとおりにせよ、というものではない。だが、聖書の言葉に命を懸けてきた人、学びを究めようと努め、語り続けてきた人の言葉のもつ力に、触れてみて戴きたいという思いからである。
 
戦時中のことから、説教者として立てられていくときのこと、今までの歩みなど、多くの思いをそこから聴くことができるが、今日はその中で、戦後に教会を出て行った点を取り上げてみたい。
 
苦しい戦時中の信仰については、何も知らない人がいとも簡単に決めつけるような言い方をしてほしくない、と加藤氏は言っていたが、本当にその通りだろうと思う。当事者の困難さを想像することができずに、安全なところから裁くように批評することほど、高慢な態度はないとも言えるからである。加藤少年は、代々木教会の熊谷政喜牧師を通して神と出会い、信仰を与えられる。その牧師の妻はアメリカ人であったことから、苦しい葛藤に追い込まれもする。
 
戦争が終わった。この熊谷牧師と妻は、『日常米会話』を出し(放送では大ベストセラーの『日米會話手帳』だと加藤氏は言っているが、これは記憶違い)、外務省に協力する仕事にも携わるなど、多忙になったようである。
 
そのとき、すでに大学院生であったという加藤青年は、この熊谷牧師の説教に厳しい判断を下す。「説教の手を抜いた」「説教がつまらなくなった」「聞いていられなくなった」というのだ。また、「説教とは、信徒にとっては命の糧であるが、これが尽きた」「聞くとますます信仰の心が萎えていき、苦しくなる」とまで言う。
 
一言で言うと、「聞くに堪えない」のだと、加藤青年は牧師に直に告げた。そして「教会を出ます」と、吉祥寺教会に移ったのだという。そこで、やがて竹森満佐一牧師の説教に出会い、魂を打たれることになる。説教は、説明をすることではない。それでは病人は癒やせない。しかも、癒すのはイエスだけである。そのイエスを紹介すること、活けるキリストを紹介すること、そのようなことを教えられる。竹森満佐一牧師は、教授をも務める学者であったが、まことに祈っていることが分かるし、生きた神と向かい合って生きているのがよく伝わってきたのだという。
 
聖書の言葉について、いまはウェブサイトでも少し調べれば、知識は簡単に手に入る。多くの実際の説教原稿も公開されている。それらを参考にしてはならない、などと言うつもりはない。だが、それはあくまで参考である。何かの説明のために役立つことはあるだろう。一定の根拠を示してくれることもある。それらを用いて、言葉を並べれば、いかにも説教のような形をした作文をつくることは、可能である。ちょっと聞くと、よい説教のように聞こえるような作文を仕立てることは、簡単にできる。また、教会で育ったような人の場合、かつて子ども時代に刷り込まれたような教会学校のお話であれば、なおさらである。その人自身に如何に問題があったとしても、そういうお話を作文にして読み上げるのを聞くと、実に整った子どものためのお話のように聞こえるから、不思議である。
 
だが、そこにあるのは、教案誌にあるような無難な聖書の説明であり、聖書の背景の分かりきった知識であり、そしてどこかで聞いたような、お決まりの教訓である。「生きた神と向かい合って生きている」というような姿勢が伝わってくるはずがない。恐らくその場合、「生きた神と出会った経験がない」から、そうなるのであろうと私は推察する。とても、癒しをもたらしたり、命を与えたりするイエスが立ち現れるような言葉にはなれない。
 
かつて、熊谷牧師の説教で活けるキリストと出会い、感動の中で信仰を与えられ、迫害にも耐える歩みさえできた加藤少年であったが、それほどの牧師の説教でも、何かの拍子にその説教がさびつくことがあったのだった。どんなにかつて優れた牧師であったとしても、「聞くに堪えない」話をするようになる危険性があるのである。況んや、一度もそんな命を与える要素を持ち合わせていない語り手から、いったい何が生まれるというのだろう。そういうものに満足して礼拝気分を楽しんでいる信徒は、いったい説教から何を聞いているのだろう。教会は社交場ではないのだ。
 
そうではない。渇いた信徒がいる。1週間にわたり、この世の価値観や人間関係にまみれて、それぞれの仕事(学業を含む)をしている。心が折れ、肉体的に危険を伴うことをも経て、心身共にへとへとになり、それでも礼拝に足を運ぶ。クリスチャンの義務だから当然、だなどとこれを理解するなど、もってのほかである。ずたずたな心身を抱えて、教会の礼拝に来る。なぜか。もちろん、神を称えるためである。だが、そこで、次の1週間を生きるために立ち上がる力を求めているからこそ、来るのである。キリストを信頼して、命の水を求めて教会に来る人がいる。私はそれが当たり前だと思う。この人を立ち上がらせる力は、神からくる。神の言葉として、注がれる。1週間、握りしめて生き延びていくための命の言葉を、求めてはいけないとでも、誰かが言うことができるのだろうか。
 
罪を犯した牧師から授けられた洗礼に、意味があるのだろうか。そういう議論がある。大抵は、洗礼そのものは神からの恵みであり、意味があるという理解がなされている。同様に、語る者がでたらめでも、語られた神の言葉そのものには、ひとを生かす力はあるだろう。説教自体は聞いていられなくても、飛び出した聖書の言葉が、ひとに命を与えることは、ありうるとすべきである。神は真実なのである。
 
だが、それでも、そのような「説教」もどきは、やはり「聞くに堪えない」のである。



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