偽物について

2022年5月2日

キリスト教のいわゆる「福音派」が、あまりにも純朴に「聖書は誤りなき神の言葉」であると主張することについて、抵抗を覚える人がいる。そんなはずはないじゃないか、と。歴史的に、あるいは論理的に、時には人道的に、聖書が真理だけを述べているということについて抵抗を覚えるのであろう。
 
哲学者カントもそうであった。当時は、聖書を批判的に口にすることは、社会的に生きていけないような環境にあったから、それなりに言葉を選んでいるが、それでもカントははっきりと口に出して言う方であった。狂信的であってはならない、特に、当局がそう強要してはならない、道徳的にこそ聖書は読むべきである、などと。そのため、当局とかなり険悪な関係に陥ることもあったという。18世紀末のことである。
 
他方その「福音派」においても、たんに「狂信的」に、文字通りの「正しさ」を想定しているかというと、必ずしもそうではない。プロテスタントは、少しでも解釈が違うと別の派に分かれてしまうことが多いから、実に様々な聖書の理解、福音理解というものがある。「福音派」を十把一絡げに非難することは、発言する者の感情を満足はさせるかもしれないが、残念ながらすべてを画一化する姿勢は褒められたものではなく、必ずしもすべての「福音派」に当てはまるわけではないであろう。
 
こうした議論や争いの、どれかに殊更に参与するというつもりは、私にはない。ただ、とても平和な、そして揶揄的に聞こえるかもしれないが、こうした悪口の応酬めいたものは、お坊ちゃん・お嬢ちゃん的な感情の発露としての世界であるように、私には見えることがある。
 
私は、大学生のときに、自分には愛がないことを痛感し、あるきっかけで聖書を初めてまともに読んだ。そのとき、自分が徹底的に間違っていたということを思い知らされるところから、神との出会いに導かれた。「誰かひとりでも愛せるように」と泣いて祈ったことから、その歩みは始まった。まずは自分なりに聖書を読んだ。それはそれで、特に間違った読み方はしていなかったと今にして思える。FEBC(キリスト教放送局)の聖書講座に申し込んだ。素直にそれに従っていったが、肯けるものだった。つまり、自分が神と出会ったその体験との齟齬は感じられなかった。
 
次は、教会を訪ねることを考えた。下宿から近くにあることが分かった。ただ、そこに実際に行くには勇気が必要だった。一度そこに足を踏み入れると、もう別世界に属してしまうような気がして、ためらいを覚えたのである。だが、背中を押す神がいた。
 
教会の人は歓迎してくれた。だが、自分の見ていた聖書とは、ずいぶん違う教えがそこにあった。FEBCの学びも続けていたが、それとも違った。今なら、これは違う、とはっきり言えるだろうが、とにかく初心者である。自分の判断で決めてしまうことは、神の導きを無にするような気がした。そこに行くようになったのも、何か意味があるのだろうと理解し、そこで教会生活を続けた。
 
結果、1年後に私は、明確にそれが聖書とは違うという確信が与えられ、また行動するための詩編の言葉が与えられて、そこを飛び出すことになる。激しい呪いの言葉をぶつけられた。悪魔と罵られ、脅された。だが、そのとき私は独りではなかった。後に妻になる女性とそこで出会い、信仰の一致を知ることで、行動を共にしたのである。おかしいなと感じながらも、神が時を与えるまで、そこに居続けることには、確かに意味があり、必要があったのであると、振り返ればしみじみ分かるのであった。だから、そこにいた1年間は、尊い経験となったことは確かである。
 
自分で探して求めたのではなく、きっかけというのは、外から転がり込んでくるものである。人からもらったあるチケットの中に、ある教会が事務局になっていたために、そこの礼拝を訪ねてみた。語られる説教は、自分の出会った福音と、何も違わなかった。私は受洗することになる。
 
飛び出した教会は、どこが違っていたのか。それを調べることも、しばらく続けた。偽物を知ることは、本物を知ることにもなる。対比が物事の理解を助けることは、文章読解の基本でもある。すると、キリスト教世界には、正統派と自負する側が「異端」と呼ぶグループが、様々あることが分かった。確かに、それらのグループの教義は、私が聖書から感じたものとはだいぶ異質なものだと思った。
 
さて、ここからである。下宿に宗教勧誘に来る人の言っていることも、分かるようになった。宗教についてよく分からない人だったら、引き込まれていく可能性があったと思う。だがそれなりの知識と実践があると、簡単には乗せられない(但しそうした人を狙うグループもあるので油断はならない)だろう。以前から、創価学会もその頃は盛んだったし、断り切れずに一度その集まりに連れて行かれたこともあった。哲学では人を救えないでしょう、と突きつけてきたが、だから彼らの狭い救済観に入ればよいとは思えなかった。そのときも、守られていたのだと今にして思う。
 
エホバの証人も来たが、その活動や教義については調べていたので、それに乗っかることはなかった。彼らに対しては、「クリスチャンです」と答えるのはむしろ恰好の標的になる。聖書を穴の開くほど読んでおり、独特の理論によって論理的に攻めてくるので、中途半端に聖書を読んでいると、逆に流されていく可能性が高まるのだ。幸い私も議論をしようとは思わなかったため、彼らも、聖書を読みませんか、と話す程度だったが、判で押したように彼らは彼らにたたき込まれた教義を淡々と口にする様子は観察された。
 
モルモン教は、二人組の白人男性が大学の周辺をよく自転車で回っているのを見た程度だった。接触はしなかったが、彼らの教義というものについては、それなりに調べて学んだ。どこが違うのか、をよく知ることは、大切である。聖書という権威を掲げるものの、実のところ聖書でないものに根拠を置くということに、人間は陥りやすいものだと感じた。それは、特定の教祖の話に限らない。近代的には、人間は自分を信じるようになってきているし、たとえば自分の感情を根柢に置いて、それに則って聖書を解釈する、というような場合も多々あるように思われる。
 
最も恐ろしいのが、統一協会であった。京都の大学には、原理研究会というものがあちこちあって、これが統一協会の組織であることも、関心がなければ世間では分からないことだった。今ではこの団体の組織は様々に名を変えていろいろな角度から政治的経済的にも手を回し、活動をしてはいるが、当時マスコミにも騒がれることがあったため、いくぶん資料も手に入れやすくなっていた。壺売りや合同結婚式などを覚えておいでの方もいるだろう。芸能人が広告塔になったので、ワイドショーのおいしい素材だったのだ。
 
洗脳と呼んでよいであろう事態に、私の親戚関係の人も陥っていて心配だったし、かつての花売りはその頃四つ葉のキーホルダーなどに姿を変え、よく訪ねてきた。四条烏丸にビデオセンターがあり、アンケートを装ってそこに勧誘するのが、洗脳の第一歩となっていた。そのアンケートを実際に受けたこともある。一番酷いのが、原理研究会の学生が下宿を訪ねてきたことである。危ないことだが、当時私も頭にきていたので、一晩議論したことがある。その理論は説得力はなく、ただとにかくこうなのだ式に、思い込んだことがすべての真理だと言い張るばかりで、京大生もその程度のものにはまってしまうのだ、ということを身に染みて知った。
 
キリスト教系でないが、やはりマスコミにも注目されて名が知られていた、他の新興宗教の活動にも接触したことが多々ある。彼らが公的に発言していることを含め、直にどういう話し方をするかなども知ることで、人間が宗教に絡み取られていくとどうなるか、知る機会となった。
 
さて、めでたく(?)キリスト教会で育まれていくようになったわけだが、キリスト教会の中でも、どこからかずれていく人間を、幾人も見ることとなる。それまでにこやかに、穏やかに福音を話すような人が、何かの拍子に、とんでもない人間に変わってしまうことも、何度見てきたか知れない。確かにキリストを知っていたことは間違いがなく、聖書を恵み深く説くことが最初できていた人が、ある時を境に全く変わってしまうと、いう危険もあるのである。互いに祈り合うことの大切さを突きつけられる気がした。
 
そんなことから、たとえば証詞ひとつとっても、この人がどういう神との出会い方をしたのか、それと自分との共通地盤はあるのかどうか、そんなことがピンと感じられるようになった。京都に住んでいる者にとって、京都の話をする人が、本当に京都を知っているか、単なる知識だけで知ったような話をしているのか、それを聞けばすぐに分かるものである。それと同様に、キリストを知る人かどうかは、話を聞けば分かるのである。
 
中には、最初から箸にも棒にもかからない人が奇妙なことに牧師になってしまうことがある。キリストとの強い出会いの有無は、必ずしも教会にいる人全員に強要されるべきではないと思うが、牧師などの立場になった者が、救いの証しもなければ、召命にももちろん聖書の言葉など関係がなく、ただ社会から逃げてきただけというような人であったとしたら、本人ばかりでなく、その人を呼んだ教会にとっても、不幸である。自己顕示欲が強いためか、あるいは自己愛が強いためか、自分の正しさを思い込んでいるために、一見頼もしい牧師のように見えることさえある。劇場のイドラとまでは言わないが、ひとたび権威を覚えると、ますます周囲も好意的に受け取って、まさかこの人が偽物であるとは認めないままに、教会が、取り返しのつかない道を、坂を転がるように突き進んでしまうのである。
 
そういう人の語る「説教」は、先般お知らせしたように、聞く側が勝手に「良い」説教のように補って聞いてしまうので、その拙さが気づかれないことがある。だからこそ、私たちは目を覚ましていなければならないのである。日本語として欠陥だらけの説教要旨しか書けない国語力の欠陥は論外であるが、どこをとっても命などなく、誰かを救う要素もないような文章が週報に載っているのに、人々が気づこうともしないとか、気づいても大したことはないと見過ごすとかすると、危険である。教会員が、説教を聞くことに関心がなく、説教を吟味するような気もないとなると、事態は必ず悪い方向に進む。神は真実であるから、そうした過ちを放置されないのである。
 
しかしながら、個人的にわざわざたくさんの偽物に出会うことには、リスクが伴う。誰にでもお勧めするものではない。ただ、偽物を殆ど知らない人は、偽物を見抜くことは難しいかもしれない。よく、本物を知る人には偽物が分かる、と言われるが、それは、本物を知る上で、偽物も知っているからだ。
 
疑うよりは、信じて騙されるほうがいい、などという言葉もあるが、大切な「信頼」は、無知からの無責任なお人好しとは違う。無邪気にひとを傷つけ続けていると、そもそもの「信頼」をなくすことになる。赦してはいても、信頼できなくなるということは確かに起こりうる。
 
それはそれとして、完全な信頼を必要とするのは、神に対してである。神は、信頼できると口に出せるのは、なんと幸いなことなのだろうと思う。近代以降、そういうことを口が裂けても言えない、「自称クリスチャン」が大量生産されているような気がする。その神への信頼を、共に手を携えて保つことができるパートナーがいるということは、何にも増して幸いなことであることを実感する。「同志」とも呼べるような歩みがそこにある。「誰かひとりでも愛せるように」と最初に神に祈った私の祈りは、私が見事に愛することができたかどうか、などという意味ではない別の形で、叶えられているものだと教えられている。神の恵みとは、なんと深いものなのだろう。



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