【メッセージ】命ある香りを

2022年5月1日

(雅歌1:12-14, コリント二2:14-16)

恋しい方はミルラの匂い袋
わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。(雅歌1:13)
 
◆香り
 
調香師と言うのですか、香りについてのプロの方、驚きますね。国家資格ではないそうですが、香りひとつでビジネスが成功するかどうかという場合もあり、大きな責任が伴うだけあってか、その繊細な嗅覚は、すばらしいものだと思います。
 
ポンコツな私の鼻だと、秋の街角で、「あ、芳香剤のにおいだ」などと口に出します。キンモクセイの香りの本物を差しおいて、芳香剤を主役にしてはいけません。「ぬいぐるみのように可愛い」と言うのと同じようなものなのでしょう。
 
春になると世界は花開き、一挙にカラフルになります。そういえば子どもたちの着る服の色も、無彩色が多かった冬から、パステルカラーやビビッドなものも含め、色とりどりになるのも、季節感を与えてくれます。辺りは美しい花の色に包まれますが、それと共に、花の香りも漂ってきます。春先には、菜の花が鮮やかですが、私はその香りが少し苦手です。パンジーは香りがないと言う人もいますが、私はその甘い香りが好きです。最近ブームのミモザはどうでしょう。優しい香りがしますね。初夏になると、バラが咲きます。芳香剤のローズのような強さはありませんが、近寄ると爽やかな香りを感じます。あまり近づきすぎると、棘で怪我をしそうですが。
 
人工的な香りのほうが、どうやら世の中には満ちているようです。ショッピングモールによくあるのが、インド雑貨の店。独特の香りが店の外にぷんぷん漂いますから、否が応でも気がつきます。やはりあれは「お香」というのでしょうか。いかにも聖なる世界に誘うような、強く魂を揺さぶるような香りは、なかなか強烈です。
 
日本に香りを愛でる文化が伝わったのは、仏教と共に、という理解でよいのでしょうか。平安貴族の間では、香での遊び(薫物合・たきものあわせ)もあったようです。清少納言の『枕草子』の中にも幾度も登場し、たとえば「心ときめきするもの……よき薫物たきてひとり伏したる」(26段)といった具合です。これに続いて、良い香りのついた着物を着るときにもドキドキする、というようなことを綴っています。日常的に、香りがそうとう高い文化的要素であったようで、「香道」と呼ばれるこの芸の道は、茶道・華道と並ぶ、日本の三大伝統文化(三道)のひとつにも数えられることがあります。尤も、書道がそこに入るという捉え方もあるようですので、その道の方にどうぞ詳しくお聞き下さい。
 
◆雅歌
 
旧約聖書に滑り込みで入ったような書のひとつが、この「雅歌」です。これを聖典と認めるかどうか、決めるときに非常にもめたと言われています。いえ、その後もこの書の扱いについては、賛否両論意見が飛び交い、議論が続いたという話もあります。もしかすると、いまなおそうであるかもしれません。
 
男女の恋の歌です。ユダヤ文学としては、その手のものの中でも美しく親しまれたものであったということなのかもしれません。舞台で演じることができるようなものだったとしても、現代のように、脚本化されているわけではありません。つまり、入れ替わり立ち替わり別の立場の人物たちが言葉を発しているように見えるのですが、誰がどのように話す言葉であるのかは、解釈に基づくということです。たんに一人ずつの男女が言葉を交わしているのではないわけです。
 
しかも、その内容はかなりどぎつい面があり、婚礼の祝歌だとしてもなかなか色濃いものだと見えます。従って、これが聖書なのかどうか、ということが論議されることになるわけです。「神」という言葉や、神を直接感じさせるような叙述が全くないので、なおさらです。旧約聖書のエステル記も、同様に「神」の語が見えませんが、こちらはユダヤ民族の成立にとり重要な要素が隠れており、民族愛とある種の信仰をそこに見ることは不可能ではありません。しかし雅歌のほうは、信仰を読み取るのも難しそうな作品なのです。
 
もはやそれは、この恋愛ドラマを、神と人との関係の象徴と見たとしか考えられません。ユダヤ教の側でそのように捉えたのであれば、キリスト教の側では、どうやらキリストと教会との関係と見たようにも思われます。
 
それにしても、設定といい、表現といい、ロマンチックなものに満ちており、時になまめかしい気配さえ漂わせます。今日引くことにした箇所は、こうなっています。
 
1:12 王様を宴の座にいざなうほど/わたしのナルドは香りました。
1:13 恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。
1:14 恋しい方は香り高いコフェルの花房/エン・ゲディのぶどう畑に咲いています。
 
いくつも香るものが登場します。もちろん私はよく知りません。調べたことをしばらく喋ってもよいのですが、ただの又聞きですので、後で必要なところだけを取り上げることにしましょう。まずは、理屈抜きで、この場面を感じておいてください。とにかくここには、豊かな「香り」が描かれています。細かなことはさておき、芳しい香りを、私たちは感じる想像をしてみましょう。さあ、少しばかり時間をおいてから、次の話題に移りましょう――。
 
◆パウロにとっての香り
 
続いて、コリント人への手紙の第二をお開きしました。著者がパウロであることは疑われていないと思います。キリスト教世界で最大の伝道者であり、パウロなしにはいまのキリスト教はありえなかったと考えられます。宛先はギリシアのコリントにパウロが生んだ教会でしたが、大都会コリントの人々は、パウロが思うようには、聖書の伝統には従ってくれませんでした。パウロとしては、ずいぶんと手を焼いたことだろうと思います。
 
パウロといえば、新約聖書の中の多くの部分を占める、いわゆる「手紙」の書き手であり、新約聖書の思想の多くを根拠づけることになった人でもあります。そのとき、些か抽象的な議論は、時に生活上のものに喩えるなどして、伝えるのに工夫を凝らしているとは言えますが、よく見ていくと、自然現象には殆ど言及していません。
 
イエスは、空の鳥や野の花、また蒔いた種の芽生えなど、自然をその教えの中にたくさん盛り込む方でした。空模様にも目を向けています。しかしパウロは、ほとんどそうした自然現象には関心がありません。精神的な事柄についてはたいへん詳しいのですが、感覚的なものには殆ど関わらないかのようなのです。
 
ところが、今日開いた箇所は、例外的な部分であるとも見られます。ごくわずかなものではありますが、「香り」が強調されているのです。お読みしましょう。
 
2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
 
どうしてパウロはここに香りという感覚的なものを、珍しく用いたのでしょうか。恐らく、「勝利の行進」に焦点が当たっていたのだと考えられています。勝利の凱旋のときに、現実にどうやら香を焚いて、場を飾るということがあったらしいのです。聖書協会共同訳のスタディ版には、そのような解説がありました。もちろんそれは、ローマ軍の凱旋の行進です。ローマ帝国の大都市であるコリントの人々なら、この情景が頭に簡単に浮かぶはず。キリストの勝利に伴うということは、あのローマ軍の凱旋のようなものだと思わせたらよいのではないか、と考えたのでしょう。そういえばその場には、香が焚かれていた、ああ、この香というもので、コリントの人々に、キリストにある勝利を伝えればよい、というように考えたのではないでしょうか。
 
ここに、救われる者と、滅びる者とが対比されています。それは多分、凱旋行進において、勝利のローマ将軍は馬か馬車かに乗り、ヒーローとなるのに対して、戦争捕虜は縛られて引き回された、ということを踏まえているのではないかと思います。捕虜は群衆にとりよい見せしめとなり、群衆は溜飲が下がることだったでしょうが、それ以上に、捕縛された者たちは、この後、処刑されるか、闘技場で猛獣の餌食になるか、とにかく死が待ち受けているわけです。彼らは滅びる者であり、同じ香りを、死に至るものとして嗅ぐことになるでしょう。勝利の将軍は、名誉なものとして嗅ぐことになるでしょう。
 
信じる者は、やがて神の国で、このような勝利の行進に、命に至る香りの中を歩むことができるのだ。私はこの行進を夢見て、君たちを導いているのだ。君たちはこの勝利の側に連なり、あの香りの中を誇らしく歩むようでありたくないか。パウロは問いかけているように見えます。
 
◆イエスを胸に
 
さて、受難週から復活祭を経て、私たちは、イエスの十字架と復活に思いを馳せてきました。キリスト教を信ずる者にとり、これらなしには、信仰も希望も、何もありません。ただの物語でしかないのなら、私たちは命懸けになれるはずがありません。お話で終わりはしないのです。それは、命を与える力がありません。イエス・キリストに対しては、私たちはただならぬ、特別な思いを懐いているはずです。
 
新約聖書を記した人々は、イエスを、神に献げられたものに重ねて理解しました。献げ物は、古くからイスラエルでは、「宥めの香り」として動物たちを犠牲として献げています。そうした生け贄を献げるときには、同時に香を焚くということをしました。こうした例は、旧約聖書にはもう数え切れないほどあります。敢えて引用するものを選ぶこともできないほど、ごく当たり前なことです。だから、イエスの弟子たちは、そのような献げ物のような意義を、イエスの死に見ることが、簡単にできたのだと思います。
 
イエスの死には、香りが伴っていた。しかしそれは滅びるための香りではなかった。命に至る香りだった。復活があった。このように理解するとき、私たちは思い出します。あのナルドの香油をイエスに注いだ女性のことを。ヨハネはこれをマリアだとしていますが、他の福音書でそう決めているわけではありません。
 
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)
 
はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。(マルコ14:9)
 
イエスは香料に包まれます。それはナルドの香油という、非常に高価な香油でした。大変強い香りをもっており、その香りは簡単には消えないそうです。ところが、今日の雅歌、覚えておいでですね。
 
1:12 王様を宴の座にいざなうほど/わたしのナルドは香りました。
 
同じナルドの香りに包まれて、この雅歌の中に、イエスの姿を見かけたような気がします。その理解は乱暴かもしれませんが、もう少しその方向でもう一度雅歌を顧みることにします。
 
1:13 恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。
 
この「ミルラ」と訳されているものですが、ミルラノキ属の樹木から分泌される、ゴムのようなものだということです。香を焚くときに用いられていたらしいのですが、殺菌や鎮静薬などの利用があるそうです。エジプトのミイラづくりにおける防腐剤の役割も果たしており、言葉としても関係がある可能性があります。
 
もったいぶった言い方をしましたが、これは聖書で他に「没薬」と訳されているものです。新約聖書で、いわゆるクリスマスの記事として、東方の博士たちが、幼子イエスに献げるために持参したもののひとつが、この没薬でした(マタイ2:11)。マルコによると、十字架の上のイエスに飲ませようとしたぶどう酒の中に没薬が混ぜられていた(マルコ15:23)とも言います。さらに、イエスを埋葬するときに、ユダヤ人の埋葬の習慣として、ニコデモが没薬を混ぜた香料を添えています(ヨハネ19:39)。驚くべきことに、それぞれ別々の福音書でありながら、イエスの誕生と十字架と死と、それぞれの場面にこの没薬が登場しているわけです。
 
そのミルラに喩えられた恋人が、「わたしの乳房のあいだで夜を過ごします」ときたのです。文字通りに読むことのほかに、私はズキンとくるものがありました。乳房は私にはありませんが、それはひとの胸の部分です。胸にあるのは心臓かもしれませんが、私たちはその鼓動の中に、心を覚えます。
 
イエスを心の内に。この狭く汚れた心の中に、イエスが来てくださいます。この暗い夜の中を、共に過ごしてくださいます。そんなふうにズキンとさせてくれる雅歌に、もっと親しんでみるのも、よいとは思いませんか。
 
◆知ること
 
再びパウロに戻ります。ところで、パウロの描いた「香り」が、戦勝の凱旋におけるものであろうと先程ご紹介しましたが、この「香り」には、もうひとつ別のイメージがあったことに、お気づきの方もいらしたと思います。今度はそこに注目しましょう。
 
2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
 
「命に至らせる香り」は、まさにキリストにおいて、命に至るはずです。「キリストを知る知識」は、単に「キリストの知識」と言ってもよいかと思いますが、この「知識」は、当然「聞き知っているよ」という意味ではありません。私はそれを、「キリスト経験をすること」のように言ってみたいと考えています。キリストと当事者として出会い、キリストと対話し、交わりが与えられ、キリストとのつながりが生まれた上で、キリストと一定の関係、即ち信頼関係ができること、それが「キリスト経験をすること」であるように思われるのです。
 
それが香るのです。私たちを通して香ることになります。先日、ある方の証詞を聞きました。聖書の言葉をまず読み、自分のことを語り、はっきりと生き生きと、神と出会ったこと、その人生に神が共にいてくださったことを話していました。人生のターニングポイントでは、また聖書の言葉が与えられてそれに従ったことが伝わってきました。最後までそのように進み、短く祈って、証詞を終えました。ずっと、笑顔でした。
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私は、霊に響くものを覚えました。分かるのです。同じキリストに出会い、キリストの命に生かされている人の語ることが。この人は間違いなくキリストと出会ったのだということ、キリストと共にあるということは、その話から、明確なのです。しばらく、そういうもののない人の話を聞かされていたので、私は目が覚めるような思いがしました。目が覚める、そう、目覚めさせられたのです。これが霊の働きだ、これが福音なのだ、と。まさに、それがキリストの知識の香りにほかなりません。
 
◆感覚の大切さ
 
パウロの心に浮かんでいたのが、この凱旋行進であったとすると、そこに香りが重なってきたという情景を、私たちは思い描くことができました。そこには、歓声も上がっていたことでしょう。もともと視覚的に凱旋の姿を見ている人々に、歓声という聴覚的要素が加わります。そして、焚かれた香り。ここに、視覚・聴覚・嗅覚がつながって感覚されることになったと言えます。
 
最近時折、「共感覚」という言葉を聞きます。聞こえた音に色を感じる、と話す人がいます。この味は赤い味だね、と言う人がいます。なんだか不思議なもので、五感と呼ばれる人間のそれぞれの感覚が、通常のつながりをもてないはずのところで、結びついているというのです。ただ私たちは、表現の上で、「黄色い声」という言葉や「うるさい色合い」のような表現で、通じ合うことがありますから、あながち特殊能力というほどのものではないのかもしれませんが、それでも、確かに感覚しているとすれば、どういうことなのか、興味が湧きます。
 
それとは別に、「共通感覚」という言葉もあります。これは、歴史の古い言葉で、それぞれ別々の感覚と称されるものを根源的にまとめ統括する能力が想定されたときに、それを「共通感覚」と呼ぶものとして想定されたのです。古代ギリシアの哲学においてすでに指摘されており、哲学史の焦点たるカント哲学においては、「統覚」と見なされるものに近いものだという理解も可能です。カントはそれを「我思う」のことだとしましたが、哲学者により様々に受け取られました。
 
特に、その「共通感覚」という言葉をタイトルにした本を18世紀に著したトマス・ペインは、これによりアメリカの独立を基礎づけたことになりました。そのタイトルは『コモン・センス』。人々の「常識」あるいは「良識」に、王政から民主制へ移そうとする判断を問うたのです。まさに「常識」と訳すべき言葉ではありますが、よく見ると「共通感覚」という語の結びつきからできています。
 
「常識」、それは人々の間に、共通に感覚される、何か根源的なものであると捉えられていました。「共通感覚」こそ、人々に共通に理解されるもの、人と人とをつなぐためのヒントであるように、ハンナ・アーレントは、師のハイデガーを批判する中で強調したのだ、そのように100分de名著「ハイデッガー」の最終回で説明されていました。そこには、私たち自身が関わっていないはずがありません。私たちの、それぞれの「私」が当事者として関わり、それぞれの「私」が共通に、神のもとに生かされているということを前提としてつながっている、そこに信徒の交わりがあり、教会が成り立ちます。
 
このとき、その「私」はまず「罪」の中にあるというところから出発するのが、キリスト教というものです。自分の罪を意識できないところに、キリスト教信仰はありません。が、今日はそこを追究することは差し控えます。もう少しだけ、あの「感覚」を大切にしてみたいと思います。
 
それは、今日同時に取り上げた、雅歌の言葉に漂うものです。そこには、豊かな香りがありました。短い三つの節の中に、香りや匂いが充満していました。描かれている情景は、どこかなまめかしいものだと言えます。乳房に言及するだけでエロティックだとするのは意識過剰かもしれませんが、心にイエスを迎えるという福音を覚えることがそこにあってもよい、と先ほど申しました。いままたそれを感覚で捉えるならば、ここにあるのは触覚です。肌に触れるように、キリストを感じることが、おありでしょうか。抽象的な議論の中に、神はいなければならないことはありません。見て、聞いて、嗅ぎ、触れるところに神がいてもよいはずです。ここにある「ぶどう畑」を味覚に数えるのは恣意的であるかもしれませんが、命のパンであるキリストを食べることについては、福音書がどれも告げていることでしたから、これで五感が揃うことにもなります。
 
キリストは、私たちのすべての感覚の中で出会うことができるお方であり、それらの感覚を統合する根底的な部分をも示しうる「常識」として、私たちを導くお方であったのです。
 
◆勝利と命
 
今日は、私たちの感覚すべてにおいて、神を認めること、キリストを感じるところに、私たちの信仰の思いを連れていくことができたら、と願いながらのお話を致しました。勝利の凱旋は、生き生きとあなたの中で見えたでしょうか、聞こえたでしょうか、香っていたでしょうか。それは「命から命に至らせる香り」だとパウロは言いました。その最後に「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」(16)とありましたが、「務め」という語が元の文にあるのではなく、「これら」というような代名詞ですから、あまり「務め」という語にこだわらず、死へともたらすような真似をするのか、命へと至る道を生き、また伝えるのか、自分への責任めいた問いかけを大切に胸に懐きたいと思います。
 
キリストの凱旋の行進については、「黙示録」の終わりのところを見るとよいかもしれません。それを遠巻きに眺めるのではなくて、その行進に加わるように招かれていると受け止めましょう。雅歌によると、その将軍たるキリストに、私たちはべっとりと肌を寄せて寄り添うことが許されているように思えました。私たちが実感する五感のすべてを用いて、キリストを体験するように招かれている、それが福音に呼ばれた者の受ける恵みです。それは単に感覚であるだけではなく、根源的な感覚としての、キリスト者の常識という形で、キリストに選ばれた一人ひとりに与えられていたのでした。私たちの胸の内に、このキリストが来て下さいます。そのためには、私たちは自分の罪を覚えましょう。罪の詰まったその心の中にこそ、罪を消すためにキリストが来てくださることに気づかされるはずです。
 
私が言葉足らずに告げていることが、ずんずんと分かる方が、この中にもいらっしゃると思います。霊は分かるのです。古来、この幸せを、無数のキリスト者が味わってきたのであり、霊に感じる方には、キリストがいてくださいますから、間違いなく響き渡るのです。
 
あいにく、まだそのことがよく分からないという方、ご心配には及びません。今日、あなたはもうそこに招かれているのです。イエスの声を聞きたいと願うならば、声ばかりでなく、五感の中でどこからでも、イエスは近づいてきて、あなたに感じるように訪れてくるでしょう。自分の中の罪に悩む人もいらっしゃるだろうと思います。それも障害にはなりません。キリストが、それを解決してくださいます。そのために来たのだ、というお方です。あの十字架の上から、復活へと続く道の中で、それを成し遂げてくださいます。
 
さあ、風薫る5月です。キリストの香りを、感じますか。自分の中には、なかなか感じませんね。自分を通してキリストの香りを放つなんて、とんでもないとお考えかもしれません。けれども、自分の体臭というものは人間、感じないものですから、もしかして自分がキリストの香りを放っているということにも、自分だけがどうしても気づくことができないでいるのかもしれません。また、それでよいのです。自分は偉い、と思いこんだ瞬間、キリストは遠く離れてしまうかもしれませんから。
 
命の香りは、花壇の花の香りよりも、もっと芳しいことでしょう。春の香りを感じたら、それが、あなたの救いをかみしめる経験となることを、心から願っています。



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