英語のためにも日本語を

2022年4月24日

英語の劣等生が、とやかく言うことではないが、誰かのアドバイスになればと思い、綴ってみる。大学入学の英語は、英語のテクニックだけを身につけようとしても、解けないということである。それより、すぐれた評論やエッセイをたくさん読むことだ。日本語の。
 
大学入試の文章は、一般の評論の英文が用いられると考えてよい。すなわち、日本語の文章の読解に匹敵する内容だということだ。日本語の場合もそうだが、もしも特定の語彙が身についていないとしても、筋道から推測はできるし、またそうやって読むべきものである。筆者の言いたいことは、筆者の論理の中にちゃんと現れてくる。指示語が何を指すかも、当然分かるはずだからこそ、代名詞が使われているはずである。
 
確かに文学的文章だと、それ以上の想像力も必要になるが、評論的であると、論理が理解でき、場合によっては知識があれば、推測も交えて読み解いていくことが可能だと言えるであろう。
 
だから、日頃から文章を、論理の流れの中に読解していく訓練ができているかどうか、がものをいう。また、何事にも好奇心をもって臨み、多くの事柄について一定の知識を得ておくことが望ましい。世界の知に対して窓を閉ざしておきながら、英語の文章問題に答えようとするのは、世間知らずでいきなりビジネスの最前線に出るようなものなのだ。
 
世界史を学べば、現在のニュース報道にどう結びつくか、またその背景にどんな歴史があるのか、考えてみるようにすればいい。流行の文化があれば、その国の歴史や文化的背景と重ねてみたらいい。時代的な文化の変遷を、政治や生活や、あるいは宗教の姿から、自分なりに説明してみたらいい。そのためには、倫理や政治経済の知識も動員すればよいし、言語の条件も加味して考えようとしてみればいい。
 
自分の立場や感情だけから、これはダメだ、あれはけしからん、などとほざく老人がいるが、若い世代は、そんな凝り固まった思考とは無縁である。自由に、どこにでも立ってみようと思い、様々な考え方を追体験するとよい。その中で、自分の拠って立つところや、自分の感情に気づくとよいのであって、その自分の考えを根拠づけるものについて、思索を深めていけばよい。
 
こうしたスキルは、理屈では身につかない。ウェブサイトでもよいが、じっくりと活字に仕上げるために熟慮した、書物の著者との対話が必要になる。それが自分の思考の畑となり、肥やしとなる。できるなら、十分読者の理解を助ける配慮の行き届いた筆者の本が望ましいし、自分の思い込みで論を進めるというよりは、冷静に様々な情況を考慮しながら論理的に説いてくれる筆者の本に出会えるとよい。やはり、読みづらい書き手というのはあるもので、たとえばいま私はよく『現代思想』誌を読んでいるが、よい書き手と、配慮のない書き手と、様々なタイプがあることがよく分かる。学校の先生に相談して、高校生は、難しい問題やタイムリーな議論、またその論拠となっている古典的な評論などについて、配慮ある書き方をする著者の本を、薦めてもらうとよいのではないか。
 
もちろん、これは英語のためには限定されない。学ぶ意味を体得し、大学での知の世界に備えるために、高校生たちは、ものの考え方や思想を自分の中で養うように心がけるとよいだろうと思う。いかにも中学生の生活世界の場面だけを描く高校入試とは、訳が違うのだ。尤も、名の知れた私立高校の入試の英文は、大学入試で出されてもおかしくないような評論文が出るケースもあるから、英語の基本のできた中学生は、ここに記したような世界に目を向けてみるとよいかもしれない。単語の練習と文法を知ったことで満足するものではない、と知っているならば、どうぞ背伸びをしてみるとよいと思う。
 
いずれにしても、自分の考えていることをひとに伝えるというのは難しいものだ。それはまず、ひとの考えていることを、なんとなく空気から読むのではなくて、きちんと書いてあることから的確に読み取ることが必要であろう。だからこそ私もまた、教会の説教要旨を読むのであり、それを書いた人のことを判断するのである。まるで文になっていない文を、難解なパズルを解く思いで、毎回殆ど絶望した気持ちで読まなければならないのではあるが。



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