コロナ禍における教会と国家について

2022年4月8日

「まんぼう」などと、どこか見下したような呼び方をし始めると、恐らく何かがおかしくなっていく。「まん延防止等重点措置」のことである。新型コロナウイルスの感染が広がってきた頃にも、「コロ助」などとバカにした言い方をしていたツイートがあったが、まともなことを言ってはおらず、嘘でまかせばかりばらまいていた。デマのばらまきは、その後法的に処罰されるようになっていった。
 
新規感染者数が減少傾向にあったために、おもに経済的事情を鑑みて「まん延防止等重点措置」は外されたのであるが、そうなると、もう大丈夫とばかりに、緩んでしまう。福岡でも、マスクを外しての会話が目立つようになってきた。もちろん、とんでもないことである。
 
案の定、感染者は増えてきている。いや、それは日により一進一退という時もあるが、とにかく減らない。特に小さな子どもを介しての感染が目立つ。小さな子は症状が悪化しないと言ってよい。その子に接する親にも感染する。しかしそうした若い世代の親もまた、重症化しない。しかも、症状も喉の軽い痛みという程度で殆ど生活に支障が出ないものだから、中にはこれを「放置だ」と怒る声もある。感染隔離という措置を、保健医療などの悪意ある仕打ちのように宣伝することは慎んで戴きたい。公的にそれが発言されると、益々感染予防を無視する動きになりかねない。そうなると、ますます保健も医療も窮地に陥る。ただでさえ、限界状況で2年間活動している従事者をこれ以上迫害すると、本当に医療や保健福祉に関する機関が活動を止めてしまいかねない。
 
さて、教会でも、緩んでいるところが多いようだ。もうそれは、人間の集まるところだから、私としてもあまり立派な対応を期待しているわけではないのだが、あまりにも二枚舌であるとなると、信頼を失うことになると危惧する。
 
たとえば、政府とは一線を画して、政治に安易に同調しない、という宣言をするような教会やグループがある。何にしても政府に反対、というような感じがしないでもないが、そうした教会が、政府が「緊急事態宣言」を出したところ、簡単に「礼拝をやめる」といった発表をしたのには驚いた。
 
それは命を守るためだ、という弁解もあるだろう。「礼拝をやめる」のは間違っていると私は思うが、集まらないのは確かに命を守るという目的に合っていた。そのためリモート礼拝あるいはオンライン礼拝などと呼ばれるスタイルができていった。
 
ところが今回のこの「まん延防止等重点措置」の解除が出ると、そうした教会が、オンラインを基本とする姿勢から、教会に来ることもどうぞ構いませんよ、という態度に次々と変わっていく。かつての「緊急事態宣言」の時の日本全国の新規感染者よりも、福岡県だけでの新規感染者のほうが何倍も多い状態であるにも拘わらず。
 
もちろん、ワクチン接種などの背景はある。しかし死者数も、かの時の全国レベルに、一県だけであると言ってもよいような情況であるとなると、考えものであろう。つまり「緊急事態宣言」<「まん延防止等重点措置」解除 の関係が成り立っているのである。
 
こうなると、命が大切だから、という先の弁解は成立しなくなる。経済的要因を先行させていることは間違いない。もちろん、それは経済的に困窮している人々のためには、大切なことであろう。けれども、その政府の宣言に、教会が簡単に従っているのはどうしてだろうか。お上が言うから安心、とでもいうのか。教会は、集まっても集まらなくても、世間の経済に寄与することは殆ど違わないのだから、経済的に誰かを助ける、などという理由はまともには言えないだろう。
 
政府の言うことに逐一牙を剥いていた教会の猛者が、政府の言うままに人の集まりを「解除に基づいて」などと言って再開している。
 
こうした措置は、地域的な違いもあるから、私は何も画一的に良し悪しを定めようとしているのではない。そこは適切にお聞き戴きたい。政治に対して何かと反対の姿勢を述べることで正義を貫いていた教会が、政治にただおとなしく従うだけで、自ら考えようとすることを棄てているように見えて仕方がないのである。妙な言い方だが、政府がどう言おうと、命を重視するから私たちはこうする、それでよいのではないか。政治の発令に寄り添って、自ら考えること、さらに言えば、自ら祈ることすら放棄していることが問題だと言いたいのである。それは、安全な情況では自由に批判をしてカッコいいように見える者が、いざ危険な空気になるとくるりと背を向けて実に従順に権力に従う、ということが、これまでの歴史の中でも頻繁にあったからである。そうした点をハイデガーの思想の中に見出したいとする2022年4月の100分de名著は、味わい知るに値する。
 
しかし中には、国家政府のために祈り従うべきだ、ということを信仰の宣言に告白しているような団体もある。新約聖書の精神に従うなら、それは適切な姿勢である。見張りの役目を果たす必要があるとした上で、上に立つ者のために祈ることは大切なことであろう。その団体の教会がやたらと国家政府を非難ばかりしていたとすれば論外だが、これこそが信仰だ、としているのならば、それはそれでよいのである。プロテスタントでは、殆ど殉教というものが起こっていない(朝岡勝氏による)というから、案外これまで、尻尾を振ってきたのかもしれないし、かといってそれが一概に悪いと言い立てるようなつもりも私にはない。
 
いずれにしても、保健や医療に従事している人々のために祈りを全くしてこなかった教会は、やはりそうした立場の人々の事情について関心が薄く、思い込みも激しいようであるから、他人を批判する前に、まず自らがどうであるのか、もっと目を覚まして見つめるようにしたほうがよいのではないか、と思う。



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