【メッセージ】裏切り者

2022年3月27日

(マルコ14:18-21)

弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。(マルコ14:19)
 
◆食事の意味
 
愛についての先週の話で、「エロース」を、価値ある高いものに向けて魂が求めてやまない働きとしてご説明しました。ソクラテスが、つまりはプラトンが、そのような理想を求めたということでした。
 
コンクールで受賞した詩人の祝いの席でそのような対話があったという思い出話、それがプラトンの『饗宴』の設定でした。祝いの席はめでたいものです。旧約聖書にも多々描かれています。旧約聖書では、殊に創世記や出エジプト記では何かあるごとに宴会や食事の席が設けられており、生き生きと当時の人々の交わりが描かれているように見えます。
 
共に食すというのは、どこの文化でも、仲間意識のために大切なものでした。だからまた、出エジプト記には、エジプト人がヘブライ人とは食事を共にしないというような説明がありました。福音書でも、イエスが貧しい者や社会的に軽蔑されていたような人々と共に食事をしたということが、驚きの眼差しで見られていたように描かれています。
 
神の国では、祝福された者たちが、神を前にして祝宴の席に着く。これが、新約聖書に潜んでいる大切なイメージです。これを私たちは片時も忘れてはいけません。
 
旧約聖書でも、婚礼の宴が一週間にわたり続くようなことが描かれています。毎日よくぞ続くものだと感心しますが、これが古代ローマの祝宴となると、こんな噂がありました。宴会でもう食べられなくなると失礼なことになるため、食べたものをわざと吐いて、そしてまた食べ続けるようにしていた、それほどにローマ文化は退廃していたのだ、という説明です。
 
どうやらそれは、後のキリスト教サイドから、ローマ文化の悪口を言いたくてつくりだしたフェイクのようでもあるのですが、全くそういうことがなかったかというと、それもまた難しいでしょう。当時はテーブルに椅子というスタイルではなく、横になって食すというのが、イスラエルでも常識のようでしたし、ローマもそうだったでしょう。祝宴の儀礼もいろいろあったと思いますし、数時間にわたり寝そべっているというのがスタイルであったのでしょう。
 
食は文化です。互いに非難し合うのではなく、理解の眼差しをもちたいと願います。ただ、いま確認しているのは、共に食すということが、人の平和な交わりであったということです。私たちも、同じ釜の飯を食うこと、同じ杯で飲むこと、そんなふうに互いのつながりを大切にしてきました。
 
◆過越
 
今日耳と心を傾けたい聖書箇所は、いわゆる最後の晩餐の場面です。仲間としての食事の、最後の機会となる、愛おしい場面です。
 
どうかすると、人生最後の食事は何を食べたいか、と質問する遊びが見られ、「最後の晩餐」などと称しているようです。必ずしもおふざけだけではないとすると、ずいぶんと呑気で平和なものだと思います。
 
この席は、結構な準備を伴って設けられました。それは「過越の食事」(12)だと呼ばれています。イスラエルの民にとり第一級に重要な食事の席です。イエスはお開きした直前には、水瓶を運ぶ男に尋ねれば分かると二人の弟子に言い、過越の食事をする部屋を案内してもらえると不思議なことを言いました。いろいろ触れるとよいようなポイントが盛りだくさんなのですが、関心をもたれた方は調べてみるとよろしいでしょう。そもそも「過越の食事」なのか、「小羊を屠る日」(12)なのかといったことから、果たして水瓶を男が運んでいるとはどうなのか、といったことまで、ツッコミどころがたくさんあるのです。そもそもお誂え向きのこの不思議な準備は、なんとも気持ちの悪いものではないでしょうか。
 
過越の食事と呼ぶその「過越」は、イスラエル民族が、奴隷状態であったエジプトの国から、モーセを主導者として、約束のイスラエルの地に向かって出ていく時のことを記念する祭りです。詩編にもよく描かれますが、これは民族にとりルーツとなるような歴史なのであって、極めて大切に扱われた記録でありました。そしていまなおユダヤ人たちにより、この食事は毎年春に行われて受け継がれています。
 
当時は、近代絵画に見られような、椅子とテーブルということはなく、体を横たえて手づかみで食べていたと考えられています。歓談もあったでしょうか。イエスの言葉は、冷たい風を現場にもたらしただろうと思います。突如、こんなことを言いました。
 
14:18 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
 
有名なユダの裏切りの場面ですが、仲間としての交わりを確かめ合うようなこの食事の席で、いきなり「裏切り」とは、水を浴びさせられるようなものではなかったでしょうか。
 
◆裏切り者
 
イエスは、「一人」とだけ言いました。名前は出しません。しかし福音書の記者は、明らかにユダのことだということを、この直前にも描いています。ルカは、実に初登場の時すでに、「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」(6:16)と紹介しています。読者は、ユダのことだともう明らかにされたかのような思いでここを読んでいることになります。が、弟子たちにすれば、青天の霹靂だったのです。
 
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
 
裏切るとは誰だろう。それを弟子たちが知ってはいませんでした。知っていたら、「まさかわたしのことでは」などと言うはずがありません。弟子たちは、そうとうに鈍いようです。
 
よく知られていることですが、この「裏切る」という語は、「引き渡す」という意味をももっています。聖書にもよく用いられ、その文により、「裏切る」と訳したり「引き渡す」と訳したりして、日本語としてその都度しっくりくる方を選んで訳しています。でも、確かに原語では同じ語なのです。
 
「裏切って・引き渡す」というのは、それなりに一連の出来事としてつながっていると理解することも可能ですから、そのどちらかでしか訳せないということはないかもしれませんが、聖書ではどちらかに決めて訳出しなければなりません。私たちは、その背後に同じ語が控えているのだということを、ちょっと意識してみるとよいと思います。そして、時に聖書で結果的に使われていないほうの言葉で、改めてその文を読んでみるという試みもよろしいのではないかと思います。何か、新たな発見が与えられるかもしれません。
 
イエスを裏切ろうとしている者が、この中にいる。ユダにしてみれば、そのイエスの言葉が自分のことを指しているということが、分からないはずがないような気がします。でも、どうだったでしょうか。私たちは、しらばっくれることがたいそう多く、自分でも本当にやっていないように自分に思い込ませることさえしています。こういうのを自己欺瞞と呼んでもよいと思いませんか。
 
◆反出生主義
 
このときイエスを、人間として見るならば、自分の死を覚悟しているような言い方をしているように見えます。そんなことがあるだろうか、と疑う人もいますが、私はなんら不思議ではないと考えます。どだい、神のレベルでの世界観は、人のレベルでの常識とは違うのです。それは、二次元の住人が、三次元の住人による侵入を受けたら、突然何かが現れたり消えたりする、実に奇妙な現象を経験するだろうという想像で、少しだけ説明できるのではないかという気がします。ただ、それよりも私たちの目を惹くのは、その裏切り者に対する、次の言葉ではないでしょうか。
 
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
 
そんな奴は生まれてこないほうがよかった。キリスト教に救いを求めてきた人、理想を感じてきた人にとり、ショックな言葉です。誰だって、神に愛されて生まれてきたのだよ。あなたはそこにいるだけで尊い価値があると神が認めているよ。そんなメッセージを、キリスト者は人に伝えてきました。そう、聖書は確かにそのような言っていると思うのです。でも、ここでは、おまえなんか生まれてこないほうかよかった、と突き放しています。明らかに、誰もが神に愛されているなどというメッセージを、踏みにじるようなきつい言葉です。しかも、パウロや弟子たちの口からではなく、まさにイエスの口からそれが出されていることです。
 
初期の教会は、よほどこのユダに嫌悪感を抱いていたために、こんな悪口めいたことをつい書いてしまったのでしょうか。イエスの言葉につい編集してしまったのでしょうか。その可能性もあります。でもそうすると、聖書を信仰するということにひびが入るかもしれません。私たちはこれをイエスの言葉だとはもう信じないことになってしまいます。私たちは、自分にとり心地よいこと、納得できることだけをありがたく信じるが、説明できないことは、実はイエスの言葉ではない、と分別することになります。それでよいのでしょうか。だったら私たちは、私たちの理性や感情を信じているに過ぎないのではないでしょうか。
 
近年、「反出生主義」と呼ばれる考えがよく知られるようになってきました。まさに、生まれてこなかったほうがよかった、という思想です。もちろん古代から宗教的な思想の中にもそうした意味の考えはありましたが、ショーペンハウアーあたりから、思想家の中で確たる位置を占めるようになってきました。単なる厭世観ではなく、子どもを生み出すことの否定へとつながっていくことになります。私もかつてはそう思っていました。
 
シオランや森岡正博など、それについて分かりやすく語っている人もいますし、小説が好きな方は、川上未映子の『夏物語』が、じっくり考えさせてくれます。
 
けれども、それに引きずられて、私たちの針路を見失うことのないようにしたいと思います。ユダは苦しまなけれはならなかったのです。どれほどの苦しみをユダが覚えたのかは、その後のユダの運命を思うと、私は自分のことのように胸が痛みます。皆さんは痛みませんか。ユダは他人事ですか? 
 
◆まさかわたしでは
 
そこで、もう一度「まさかわたしでは」の場面に戻りたいと思います。イエスが、ある者が「わたしを裏切ろうとしている」と言ったとき、弟子たちはどうしていたでしょうか。
 
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
 
弟子たちは、自分のことなのか、と考えるプロセスを経たのです。自分は関係がない、とスルーしたのではないのです。確かに「まさか」というように、自分のことだと捉えたとは言えないまでも、「もしや」という一瞬の思考を辿ったのです。裏切るという、予想だにしない不義理に、自分が関わる可能性を、少しでも考えたわけです。
 
自分は決してそんなことはありません、と胸を張って言える者はひとりもいなかった。ここに着目しましょう。ということは、もちろんこの私自身、可能性があるではありませんか。他人事になど、なれないではありませんか。誰もが、イエスを裏切る可能性が開かれていたことになります。私はそう考えています。それとも、それでもなお、自分は大丈夫だ、と自信満々でいられますか?
 
自分は振り込め詐欺になど引っかからない。そう自信をもつ人こそが、一番危ないと言われます。私も、金銭ではありませんが、引っかかったことがあります。ほんの少しの心の間隙を突いて、狙う者は忍び込んできます。九回は引っかからなかったとしても、十回めは、心が持っていかれる可能性が、きっとあるのです。
 
人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。(箴言21:2)
 
人間が、自分では正しいとしか見えないようなことでも、果たしてそうなのか、聖書は懐疑的です。「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記17:6)のような記述は、明らかに、人間的な判断はよろしくない、独善的なものだということを含んでいます。
 
神からの恵みは、そういうところには現れません。恵みは、値しないところにもたらされる神からの贈り物です。人間の思い込みから正しさを豪語するのでは、聖書の恵みを受けることはないはずです。自分は正しい、と言い張るところでは、イエスに出会うことはできません。
 
人が正義の権化だと自称する、あるいは誰かを祀り上げる、それはとても怖いことです。世の中を見るとき、そう思わないでしょうか。とすれば、私たちは、私は、自分をそのようにしてはいけないわけです。
 
◆裏切りの背後にあるもの
 
イエスを裏切るなど、「まさかわたしのことでは」とのクッションをもつことができたならば、もうひとつ踏み込んでみます。自分は「まさか日々裏切っていないか」、問いたいと思います。
 
サウルに命を狙われていたダビデは、家族と共に、こともあろうに宿敵ペリシテの地で、ガトの王アキシュの許に身を寄せました。ダビデと兵は、各地の町を襲い戦利品を王に納めますが、アキシュに、どこの町を襲ったのかと尋ねられると、イスラエルの都市の名を偽って告げます。これでアキシュは、ダビデが完全にイスラエルを裏切ったのだろうと信用したのでした。ダビデはこうして、イスラエルを方便としてではあっても、裏切ったと信じさせました。私はなんだか、手放しでは喜べません。ダビデを導く摂理ではあったのでしょうが、拍手喝采は心理的にできません。
 
裏切ることは、けしからんことです。人を騙すことであり、関係を崩す、倫理的に許されないことです。裏切ることは、確かに「悪」です。でも、どこまでも完全に「悪」そのものなのでしょうか。
 
私はふと思いました。この「裏切り」という言葉を使うとき、その前提に何があるのか。何を背景とした場面で、「裏切り者」と叫ぶのか。それは、その人を「信頼していた」という事実が必ずある、ということです。最初から信頼していない人が自分に何かをしてきたときに、「裏切り者」と呼ばわることはありません。ケンカ相手が自分に意地悪をしたときに、相手に「裏切り者」と言うことはないのです。
 
「裏切り者」と口にするのときは、「これまで信じていたのに、裏切った」という構図があるはずです。元々信頼していた相手に対してこそ、「裏切り者」という言葉を突きつけることができます。
 
イエスは、ユダを信頼していたのではないでしょうか。
 
ユダとの出会いは確かには記述されていません。しかし確かに十二弟子のひとりにカウントされています。ヨハネによる福音書では、ユダが会計担当であったような言い方がなされています。
 
ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。(ヨハネ13:29)
 
金を預かるのは、集団の中でも信頼の厚い人でなけれはならないでしょう。他の弟子たちの間からも信頼の声が寄せられていた様子が、ユダへの好意的な理解から伺えます。
 
そのユダに対して、イエスが「生まれなかった方が、その者のためによかった」という厳しい言葉を放ったからには、ユダ以下の働きしかできない私のような者はどうなのでしょう。だのに、イエスは私を愛していると臨んでくださる。そんなイエスが私を信頼していない、ということはありえないと考えるよりほかありません。
 
人は時に、自分を信じる、と言いたくなります。特に近年、流行り歌の中には「自分を信じる」というようなフレーズが散見します。チアソングとでもいうのでしょうか。自分を、あるいは他人を励ます言葉としては、もっと自分を信じて立ち上がれ、進め、といった形が普通になりつつあるのです。
 
けれども聖書は、自分が自分を信じることについては懐疑的です。私は私自身を常に裏切り続けているような気がします。私の期待に応えることもなく、私の信頼に逆らい、私の望むような姿ではないし、好ましい行為もできません。私の期待を一番裏切っているのは、間違いなくこの私です。
 
そんな私を、イエスは蹴散らしてはいない。「生まれなかった方がよかった」との結論をぶつけてくることはありません。なんともありがたいことではありませんか。その信頼に適う者になれないでいるのを心苦しく思い、日々落ち込むばかりですが、それでもなお、この信頼にすがって、今日をなんとか生き続けることができています。
 
◆信頼すること
 
1955年の中学2年生の国語の教科書に掲載されていらい、いまなお学ばれている小説をご存知でしょうか。太宰治の『走れメロス』です。お聞きの方の殆どがご存知ということになろうかと思います。親友を王に対する人質として妹の婚礼に向かい、約束の時に戻り急ぐ中で疲れ果て、葛藤に悩むという話です。太宰は聖書をよく知っていました。友の信頼の姿を描くときに、聖書の中の人と神との関係が、ちらりと心に浮かばなかったでしょうか。
 
しょせん、人と人との関係における信頼の姿です。ただ、教育現場ではこれを信頼の価値や美談のように受け取るように用いられている場合が多いかもしれません。義務教育において、国語は言葉や論理というよりも、実のところ道徳であると見る人もいます。よき臣民をつくるためには、利用価値のある物語であったのかもしれません。
 
ただ、気になって仕方がないのは、戻って来なければ殺すという権力を用いた暴君ディオニスの最後の言葉と、群衆の態度です。
 
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
 
いつの間にか善人のように振る舞っていますが、この王こそ、メロスを理不尽に死刑にすると決め、それからその友セリヌンティウスを代わりに殺そうとしたのは、ディオニス王その人だったはずです。人を信ずることができず、孤独を覚えていたと最初のほうで告白させてはいますか、仲間にしろなどと言う立場ではないでしょう。さらに不思議なことに、群衆は、メロスたちにではなく、「王様万歳」としか言っていません。
 
ルカによる福音書では特に、「群衆」という言葉に、否定的な意味を含めていると言われます。つまり私たちがよくいう「烏合の衆」のように、集団で勝手なことは言うくせに、自分ひとりで何か考えて判断しようとはしない者、「愚衆」とでも呼びたいような存在を意味しているのではないか、というように読めるというのです。太宰は聖書をよく読んでいましたから、文学者としても、福音書の中の群衆の姿に、好ましくないものを読み取っていたかもしれません。
 
権力者の身勝手のような点については、旧約聖書のダニエル書には次のような箇所があります(6章)。王以外のものに祈り願う者は獅子の餌食にするという法律を出させておきながら、獅子の穴に放り込まれることになったダニエルを嘆き、ダニエルが神に救われると、自分の責任はものともせず、その法律を出すように仕向けた者たちとその家族を獅子の穴に投げ込ませたのが、間違いなくそのダレイオス王だったという話。『走れメロス』のもやもやとするラストシーンに、ダニエル書をふと思い起こしました。
 
◆おめでたく受け取る
 
聖書協会共同訳という、新しい聖書があります。普及度はどうでしょうか。苦戦しているのではないかという気がしますが、これは従来の訳を部分的に修正したというばかりでなく、大幅に理解を変えたというところがいくつかあります。これまでの教会での説教をひっくり返してしまうほどの大きなものもあります。それが、「イエス・キリストへの信仰」という、よく聞くようなフレーズです。これを「イエス・キリストの真実」と変えました。従来は、私たち人間が、神を信仰することを意味していましたが、同じ箇所が、イエス・キリストがもつ真実というような意味を示すようになりました。
 
属格といいますが、所有格のように、日本語の「の」をつけることに相当するような語形がここにあります。しかしそれは「の」と完全に同じではないために、解釈の余地は確かにあったのです。「車の運搬」という言葉だけでは、「車が運搬すること」であるのか「車を運搬すること」なのか、区別がつかない、とご説明すると、少し雰囲気がお分かりになれますでしょうか。さらに具合の悪いことに、「信仰」と訳した言葉には、「真実」のような意味もあるのです。あるいはこれは「信実」と訳す人もいますし、この語そのものは他の箇所では「信頼」とも訳されています。
 
この問題そのものは、いまはこれ以上触れることはできません。ただ、私たち人間が、なんとか神を信じるぞ、と息巻くのとは反対に、イエス・キリストのほうが私たちを信頼している、という読み方もありうるということを、気にかけてみようかと思います。それは、私たちが今日ここまで読んできた読み方と、方向性が重なる部分があるように見えます。
 
振り返ります。「まさかわたしのことでは」という気づきは、自分の信仰に自信たっぷりの人からは出てこないはずのものです。むしろ、「まさかわたしのことでは」と思うほどに自分を絶対視しない見方をする人は、そもそも人間に、あるいは自分自身に、完全な信頼を寄せてはいないのです。それでもその人が何かを信じているとすれば、それは神を信じることであろうかと思います。
 
自分は日々裏切っているような存在ではないか。これを弁えたいと考えます。しかしだからこそ、神は私のことを信頼してくださるという道を今日は求めてみました。ユダをすら信頼していたからこそ、そこに「裏切る」という言葉をもちかけざるをえなくなったのではないか、と。
 
それは、聖書を筆記した人も気づいていなかったかもしれません。つまり、ユダに対する憎しみのようなものがあって、それ故に福音書の中にしきりにユダが「裏切った」と繰り返すと理解することも可能だからです。でも、「裏切った」のは、「信頼していた」という前提があって初めて言える言葉であると、私は今日考えてみました。
 
ユダにイエスは「生まれなかった方が、その者のためによかった」と厳しい言葉をぶつけましたが、あいにく私はイエスからそんな言葉は投げられていません。ユダでさえ信頼されていたのなら、この私をイエスが信頼していないはずはない、とするのは、ユダに対して高慢に構えているように見えるかもしれませんが、聖書はその読者に、命を与えるためのものです。ユダの処遇は、神に委ねます。ただこのことで、私はどんなに神から信頼されているかに気づいて、涙が止まりません。こんな私でも、とありがたく思うほかありません。
 
少しばかり屈折した構造のように受け止められるかもしれません。でもさしあたり、私に与えられた恵みとして、皆さんと分かち合えたら、と思いました。神の思いをひとは知り尽くすことはできません。でもだからこそ、神はそのように愛してくださっているのだということを、私はまた信頼していくことが許されているのだ、とおめでたく受け取っていたいのです。
 
その信頼がある限り、私は神を裏切ることはないのだ、と受け止めます。生まれてきて、よかったのです。



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