理論と実践と地域猫

2022年3月27日

地域猫という問題に関心をもつようになった。猫を保護し、公園などに住まわせるということについては、近隣住民の理解が必要である。猫が来て土地を汚したり、うるさかったりすると、やはり近くの人には迷惑である。
 
だからといって、無闇に殺すようなことはできなくなっているから、地域で猫を保護するということは、近くの人々に申し訳ないことでもあるのだ。
 
「殺処分」という言葉を私は好まない。野生の動物が「処分」されなければならない謂れはないからだ。だが野良猫は捕らえられ、引き取り手がないとなると、殺すことになる。福岡の天神でも、引き取りませんか、と猫を見せている団体があったが、とてもそれでは賄えないほどに、犬や猫が捕獲されている。
 
人は、犬や猫の命を無闇に奪うことについては、良心が痛むものである。虫に対してはそうは思わないのに、犬や猫は、心通うペットとしての位置づけをしているようである。その命を護る、それは理論としては正しいかもしれない。感情だけでなく、何か論理的にでも、命を安易に奪うことが禁じられるとの思想は成り立ちうるであろう。
 
殺される多くは、実は子猫である。猫を殺さなければならなくなるのは、どんどん増えるからである。そこで、人間は考えた。ならば猫が増えないようにすればよい。いま生きている猫は命を全うするがいい。ただ、その子どもが産まれないようにしておけば、殺さねばならない猫が増えることはない。
 
TNRという言葉が近年よく知られるようになっている。Trap・Neuter・Returnの略である。野良猫を捕獲し、不妊・去勢手術を施し、元の場所に戻すことである。
 
地域にいる猫を捕獲し、施術する。そのことが、それ以上猫が増えないようにし、ひいては殺す猫が存在しなくなるということにつながるというわけである。
 
先日福岡県春日市に行ったとき、その地域猫に出会ったのだが、そこで調べてみて驚いたことがある。春日市は、このTNR手術費に補助金を出しているのである。メスの場合は26000円まで、オスの場合は16000円まで補助するのだという。調べた限りでは、東京都でここまで補助してくれる自治体はない。実際の費用はこれより多くかかるのが普通ではあるが、手出しは数千円でできることになると思う。
 
メスは左の耳に切り込みを入れ、オスは右の耳に切り込みを入れて、この手術を施した目印にする約束となっている。耳の先に入れた切り込みの形から、桜の花弁に似ているということで、これを「さくら耳」といい、そうなった猫を「さくら猫」と呼んでいる。
 
さくら猫に対して、子孫を残せないということを気の毒に思う気持ちが、私には残る。だが、殺されなくて済むという点では、仕方がないことなのか、とも思う。実際にはいまのところ、これしか方法がないのであろう。
 
だが、人間は、同じ人間に対して、これを行っていた。最近も話題に上っていたから、いくらか広く知られるようになってきたのだろうとは思う。
 
人間に対してはこれをするのはいけない。だが、猫に対しては保護するためにやってよい。どうもそこに、すんなりと合点がいかない私である。実践的にはそれしかいまのところないのであるが、理論的には納得がいかないでいる。
 
理論と実践とは、必ずしもきっちりと区分けができるものではないのかもしれない。完全に正しいとか善であるとか、そうした枠組みで解決できるものではないのだろう。
 
動物の命を護りたいというその人も、牛・豚・鶏などの肉を日常食べている。これらの動物の命は、人間に殺されるためにあるのだからそれでよい、という考えを貫くことでよかったのだろうか。なにを偽善者が、自分も食べているくせに妙なことを言うな、と言われそうだし、それもその通りだ。しかし食べることのない猫については命を護ろうと躍起になる。しかも、人間に施術することは道徳的にもいけないと今はされることを、猫には命を護るために施して、よかったね、と言葉をかける。
 
どこにも、理論と実践との一致はない。私たちは、それしかないのかもしれない。むしろ、実践のために理論を無理矢理百パーセント正しいものに定めようとして、今度はその理論によって、世界観を一色に塗りつぶしていくようにすることを、為政者は狙っている。このことは伝わりにくいかもしれないが、気づいて戴きたい。「こうしなければならないから、この考えが完全に正しいのだ、だからこの考えに従って、このようにするべきなのだ」という論理にもっていくということだ。ヒトラーの大虐殺はこのようにして、正義となった。その正義は、ヒトラーだけの力でなしたのではなかった。それは、国民が賛同して決められた「法」によって、遵法的に行われたのだ。
 
いまもなお、やむをえないという情況の中で、「法」が変えられ、すべての政治的行為は法的に「正しい」こととして遂行されている。それは大国の大統領の独裁がしていることではない。つまりは私たちが、この論理に押し切られて、世界を動かしているということだ。
 
必要な実践が、その根拠となる理論を絶対的に正しいとしてしまうようになるところが、危ない。人間が不完全であるなら、その実践と理論は、完全な形で成立するものではない、というひとつのクッションのようなものが置けないかどうか、私たちは弁えながら、見張っている必要があるのではないだろうか。時に、反対する自分たちが逆に完全に正しいのだ、という勢いで叫ぶ声もあるが、それも実は、理論を完全に正義として貫こうとする点において、相手と実質的に同様であるということに、あまり気づかれていないように見える。意見としては反対のようでも、自身を完全に正義と仕立て上げる方向性が、同じなのである。



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