大切にするもの、しないもの

2022年3月23日

「愛する」という言葉には、反対の「憎しみ」の意味が見え隠れすることがある。「かわいさ余って憎さ百倍」と伝えられるフレーズは、その辺りの構造をよく見通しているとも言える。
 
日本語の「愛する」には、別の機会に述べたように、「それがなくなることを思うと切なくなる」というような感覚が潜んでいると共に、「そこから離れられないためにいずれ悪い自体を招くもの」を感じさせる意味が伴っている。「愛着」や「愛執」「渇愛」」などという言葉は、その一面を物語る。それに捕らわれて離れられないことで、心はすっかり自由をなくしてしまっている。
 
その側面を削ぎ落とした形で、愛について物語る表現はないだろうか。誰か発明してほしいと思うが、さしあたり「大切にする」という言葉を、曖昧ながらも用いてみようかと試しに提言してみることにする。
 
私たちは、物を大切にしなくなつたし、人をもなかなか大切にはできない。我が子に対する虐待死というのも、時折報道される。知っている地域であったこともあり、一時かなり話題になっていたが、その後報じられなくなり、関心ももたれなくなっていった。世間の人々は、当初その被害者となった子どものことを愛するような言葉を投げかけていたが、やはり結局は大切にしているというわけではなかったような気がしてならない。いや、自分もそうだというふうに戒めながら言わざるをえないのだが。
 
その取材をする新聞社が、こうした悲しい事件をもう起こさないために、近所の家を次々と訪ね回ったということを、必要なことだと弁明するコラムを書いていたことがあった。どうだろうか。ひとり留守番をする子どもたちが、テレビ局や新聞社が次々とピンポンと訪ねてくるのを、どんな恐怖心で聞いていたか、記者の想像の範囲にはなかったらしい。聞いた話だが、新聞の勧誘のように訪ねておきながら、取材して話を聞き出そうとするケースもあった、と地域の方が漏らしていた場合もあるとのこと。それが果たして、住民を大切にしていたと言えるのだろうか。
 
パートナーでも、親子でも、大切にするとはどういうことなのか、まだよく分からない。自分にそれができているなどとは、口が裂けても言えそうにない。ほかの人はどうだろうか。クラスメイト、地域で出会う人々、職場の同僚等々、大切にしていると言えるだろうか。
 
聖書は、キリストの愛には、こうした歪みや疑問が全くないというふうに伝えているように思われる。その愛は、教会というものを極めて大切にした、と、後の教会関係者は述べている。
 
キリストがそうなさった(つまり教会のために自身を与えた)のは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。(エフェソ5:26-27)
 
だが教会も人の集まりである。聖書の言葉に従うのでなく、人の理性だけで判断し、時に聖書の言葉を利用すらし、自分の理論を優先させて基準にするようなことへと、ずらしやすりかえが起こりやすい。
 
キリスト者とキリスト教会は、何を愛しているのだろう。あるいは、何を大切にしているのだろう。この根底的な問いを、片時も忘れず、日々祈り、動いていくようでありたいと切に願う。逆に、何を大切にしていなかったか、それを自問することも、実は有効である。



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