世界平和のために祈ること

2022年3月19日

世界平和を祈ることは、簡単にできる。そう言うと偉そうに聞こえ、反発を買うことにもなるように思う。世界はこんなにも混乱しているではないか。戦争反対のために祈らないというのは、無責任極まりないことだ、けしからん、と。
 
祈らない、などと言っているのではない。それは簡単なことだ、と言っているのである。実現が簡単なのではない。口にするのにためらいをもつことがないだろう、ということだ。
 
あなたと仲違いをしている肉親のために、祈ろう。自分を敵視している隣人のために、祈ろう。和解できるように。その人が救われるように。親のために、子のために。
 
世界平和とは、口にするのが少し違ってこないだろうか。そして、同じ次元のことではない、と思われたのではないだろうか。
 
具体的なこと、それも当事者として自分が関わる問題については、私たち自身がその情景に含まれることとなる。そのとき、私たちは、見える世界が変わってくる。
 
いつも思っていることだ。聖書を読むというのは、そういうことなのだ。論評して、対象化する読み方も、できるだろう。だが、それでは命がないと言わざるをえない。聖書は命を与えるという点を大切にするならば、まさに当事者であらねばならぬ。
 
戦争の知らせに、平和を祈るのは大切なこと。だが、そのために一斉に「祈りを」「祈る」と声を挙げてきたキリスト教会や団体、個人を見るとき、私は不思議に思う。それらが、コロナ禍の中で2年以上命懸けで労苦することが続いて疲弊している、医療従事者や保健関係者のためには、祈る言葉を全く見せていなかったからである。
 
それから、自分は正義だと自信を以て言えるようなとき、私たちはでかい態度に出るものであることも併せて考えたいようにも思った。



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