【メッセージ】初めと終わり

2022年2月27日

(民数記10:33-36, 黙示録1:8)

人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。(民数記10:33)
 
◆初めから終わりまで
 
イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(イザヤ44:6)
 
ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。(イザヤ48:12)
 
旧約聖書の大預言者イザヤにより宣言されていました。「初めであり、終わりである」という神。新約聖書の締め括りとなる黙示録の記者は、これを意識していました。
 
1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
 
しばらくこの点に思いを馳せてみます。黙示録は旧約聖書とは違って、ギリシア語で書かれていますから、そのギリシア語の文字のままに「アルファ」「オメガ」と訳されていますが、これはイザヤ書のように、「初め」「終わり」と訳してもよかったと考えられます。
 
アルファとオメガは、ギリシア文字の順番からして、最初の文字と最後の文字であるからです。アルファは「プラスアルファ」で有名ですね。尤もこの言葉は、英語で「+X」といの手書きを、日本人が「+α」と思い込んで作った言葉だ、という説が有力ですので、英語では通じない模様です。
 
オメガはどうでしょう。ネックレスを思い起こす方は、その道の方でしょうか。こちらは文字で書くと、大文字が「Ω」となり、見覚えのある単位となっています。中学2年で学ぶ電気抵抗の単位「オーム」ですね。19世紀初めドイツのゲオルク・オームが発見した法則を、人物名から「オームの法則」といいますが、この単位もこの人の名前からきています。頭文字「O」だと、数字の「0」と見分けがつかないために、ギリシア文字を引っ張り出してきたとのことです。因みにこの法則に関して、電圧の単位ボルトは、イタリアのアレッサンドロ・ボルタ、電流の単位アンペアは、フランスのアンドレ=マリ・アンペールの名に由来します。この辺り、科学史を繙くととても面白いのですが、いまは割愛します。
 
Ωは「オー」というように、「オ」の音を伸ばします。「大きい」の意味の「メガ」を「オ」に付けたものです。「メガ盛り」などでこれは有名な言葉ですね。すると小さいほうの「オ」もあるわけで、ギリシア文字でもローマ文字と同じように「ο」と書きます。こちらは「小さい」という意味の言葉「ミクロン」を付けて呼ぶので「オミクロン」となります。実に有名になりました。新型コロナウイルスの変異株に、順番のようにして、この文字があてられました。
 
「アルファからオメガまで」という言い方は、文字の最初から最後までを指しますが、奇しくもこれは、日本語でも同様の表現があります。「阿吽の呼吸」の「阿吽」です。「阿吽の呼吸」とは、口を開いて息を出す「阿」と、息を吸って口を閉じる「吽」とで、呼吸を合わせることを言いますが、これらは、サンスクリット文字の配列の最初と最後となっており、ただの「阿吽」というと、宇宙の始まりと終わりを意味する仏教の言葉として知られています。
 
神社にある狛犬を思い出す人もいましょうか。昭和9年生まれ以降あたりから、子どもたちはこの教科書で学んだと思われます。口が開く「あ」と口が閉じる「うん」が、神社の狛犬の口の形をしていますわけですね。
 
「ピンからキリまで」という言葉もあります。こちらは元ポルトガル語からきているそうです。「ピン芸人」などと言いますが、「ピン」がカルタなどの「1」を指していたからでしょうか。「ピン」が良い方です。「キリ」は「クルス」つまり十字架を表すのだという俗説がありますが、違うんじゃないでしょうか。
 
英語にも表現として「from A to Z」というのがあるようですが、語源が聖書に由来するのかどうか、関係ないのか、私は知りません。しかしどの文化でも、「最初から最後まで」という表現を文字で示す知恵があったことは、心が惹かれます。
 
◆初めと終わり
 
何事も最初が肝腎だ。初めを重んじる考え方があります。「一年の計は元旦にあり」と、昔の人はよく言いました。「始めよければ終わりよし」などという言葉もありました。あれ、「終わりよければすべてよし」というのもありましたっけ。こちらは結果論というわけでしょうか。いま言おうとしていることとは違いますが、人間が最初と最後に関心を向けるというのは、あたりまえのことのようです。
 
将棋も、最初の手が作戦的に何を目指すかを決めることになるし、最後の詰めにより勝負が決まるわけですから、もちろん中盤が大切であるにしても、どうしても最初と最後が注目されてしまいます。野球でも投手の立ち上がりが試合に影響しますし、最後を締めくくる守護神ないし抑えと呼ばれる投手の存在は大きいものです。
 
国語で、子どもたちに「説明文・論説文」の読み方を教えることがありますが、ありきたりとはいえ、「頭括式・尾括式・双括式」という基本をきちんと話します。新聞記事のように最初に要点があるものが「頭括式」、最後に結論がまとめられているのが「尾括式」で恐らく最も多い型、そして最初に結論があり、最後も同様に締めくくるのが「双括式」というわけです。それは授業の構成にも当てはまるであろうことは、言うまでもありません。
 
人にとっての記念日は、「誕生日」と「命日」ですね。これもまた、初めと終わりという枠組みのものです。
 
◆民数記
 
さて、聖書の最初は、新約だとマタイによる福音書ですが、やはり旧約と新約と両方つながってこその神の言葉だと思いますので、旧約の最初を考えたいと思います。それはもちろん、創世記と呼ばれるものですが、この創世記から出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記の五つの書が、ユダヤ人もことさらに大切にする「モーセ五書」というまとまりです。モーセが書いたという形をとっていますので、「モーセ」の名が冠されています。
 
その中の民数記を、今日は開きました。今日は聖書から、二つの箇所を開いたことになります。まず旧約は民数記から、そして先ほど触れました黙示録が新約の中にあります。黙示録は、旧新約を含めての、聖書の最後に位置する書であり、歴史であれ幻であれ、それはこの世界の最後の姿を描くものと見られています。
 
聖書の中の、最初と最後をご用意しました。可能ならば、このように新旧両方の聖書を開くことが好ましいと私は個人的に考えています。その理由については、またどこかでお話しできるだろうと思います。
 
民数記は、モーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出して、カナンの地、今のイスラエルの地にまで導く間の物語です。エジプトを出てから、神が約束されたその地までの旅は、40年続いたということになっています。その多くは水や畑に乏しい、荒れ野でした。その「荒れ野の40年」は、イスラエルの民の信仰にとって、大きな意味をもつことになるものでした。
 
「荒れ野の40年」と聞くと、私などは、西ドイツ(これすらそれは何だ、と思う若い方がいるでしょうね)のヴァイツゼッカー大統領の有名な演説を思い出します。どなたにも一度は触れてほしい文章です。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる(Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliest, wird blind fur die Gegenwart.)」という言葉は特に有名です。いまの私たちもこれを噛みしめなければならないと思います。そう思わないでいるとすれば、すでに現在に対して何も見えなくなっていることになるのです。
 
モーセは、エジプトからイスラエル民族を連れて出ます。エジプトで酷い奴隷状態であったのを、解放したのです。記録では、60万+Xもの数の民を導いたとされています。さすがにそれは些かオーバーではないかとも思われますが、それでも少なからぬ民を連れて行くというのは、並大抵のことではありません。人々は事あるごとに不平を言い、不満をモーセにぶつけます。いまも、政治が悪いとか、役所は何をやっているかとか、不満ばかり言う人がいますが、この出エジプトの記事をもっとよくお読みになったらいいのに、といつも思います。
 
歴史的な詮索をするよりも、この物語が伝えようとするところに、私たちは目を向けましょう。彼らは毎日すべて練り歩くわけにはゆきません。居心地のよい土地があれば、しばらくそこに留まるべきでしょう。英気を養ってから、また出発して約束の土地へと旅するとよいのです。時に、その地に居座り、時に、さあ行こうと出発します。
 
私たちは今日、最初と最後に注目しようとしています。このような旅においては、いつ出発するか、いつ止まり、そこに腰を落ち着けるか、その判断が非常に重要になろうかと思われます。私はよく知りませんが、登山についても、そのような判断が大切なのではないでしょうか。今日お開きした民数記の箇所には、その出発と到着のときのことが書かれています。
 
◆難民

民数記は10章まで、動く様子はありませんでした。十戒を受けた土地で、律法の詳細を確認したり、書の名のごとく人口を数えたりしていました。その10章の最後の箇所では、ようやく民族が動きます。カナンの地へ向けて、旅が始まる様子を描いています。その時に、一般的なルールとして、出発するときと留まるときのことが分かるように書いてあります。
 
10:34 彼らが宿営を旅立つとき、昼は主の雲が彼らの上にあった。 10:35 主の箱が出発するとき、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ/あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように。」 10:36 その箱がとどまるときには、こう言った。「主よ、帰って来てください/イスラエルの幾千幾万の民のもとに。」
 
昔の文化のことですから、今の私たちにとり一から十までよく分かるというわけにはゆきませんが、ここには、一団が出発するときと、どこかに到着するときの様子が描かれています。
 
少し失礼な言い方になりますが、現代でも難民と呼ばれる人々が、家も財産も捨てて、どこか他の国や地域に生きる場所を求めて逃れていくことが多々あります。その国の中で紛争が激しい時に、命からがら出て行きます。民族や宗教などの点で迫害を受けて去って行く場合もあります。人権が無視されるような環境だと、まさに命を守らなければならないということにもなります。その人数は、全人類の1%あるいはそれ以上だとも言われます。
 
難民を多く出している国として、最近はシリア・ベネズエラ・アフガニスタン・南スーダン、ミャンマーという名前が並びます。これを受け容れる国としては、トルコ・コロンビア・パキスタン・ウガンダといった名前が出て来ますが、いわゆる先進国としてはその次にやっとドイツが現れます。日本は難民にとり超高い壁があると見られています。まことに胸が痛みます。祈るなどというと綺麗事にしか聞こえないと思いますが、それでも祈るしかないことです。同じ時代、同じ地球上で息をしている同じ人間が、どんなに苦しい生き方をしているかということに、無関心ではいらません。
 
これら難民が集団となったときに、どのくらいの人数が大きなひとつの塊として見えるかというと、これがなかなか資料として出てきません。もとよりそうした捉え方がしづらいというのもあるでしょうが、ミャンマーからの難民だけでも百万人を超えています。そう考えると、モーセが率いたイスラエルの民が60万人と言われるのも、決して荒唐無稽な数字ではないような気がしてなりません。
 
そのイスラエルの民、いまで言うと難民のような立場かもしれませんが、神の約束を有していたことは、まだ希望があると言えるようにも思われます。目指す地があるのです。信仰の上の目標ではありますが。そして年中歩き回ることは無理でしょうから、ひとたび歩いて良い土地があれば、しばらくそこで暮らし、また頃合いを見てそこを発つということを繰り返します。だからここに、旅立つときと、留まる地を見出したときのことが記されています。
 
出発に際しては、敵が寄って来ないように、時が来ても神が追い払ってくださるように、と祈ります。ストップするときには、さあ神よここに来て共にいてください、と祈るわけです。
 
◆やっぱり、初めと終わり
 
さて、初めと終わりとに注目するところに戻りましょう。どうして人は、最初と最後を大切に思うのでしょうか。実は重要なのは、中間ではないのでしょうか。授業で、まとめだけ受け取っても、肝腎の長い説明が一番勉強になるものでしょう。文章でも、本論が一番味わえるところであるはずです。
 
聖書は、人間の「罪」という問題があってこその「救い」です。自分の罪を覚らない人には、神の救いは分かりません。その「罪」の始まりが「原罪」として挙げられます。どうもユダヤ教の中では、キリスト教ほどにはこの「原罪」という考え方を重視することはない、とも聞いていますが、聖書の最初の「罪」と、最後の黙示録での解決というものが、キリスト者にとり大きな関心の対象であることは間違いないでしょう。
 
私たちの教会生活も、最初に教会に来るという点にも勇気が必要なのでしょうが、まさに教会生活は、「洗礼」と共に始まることになるでしょう。地上生涯を終えたときには、天に召されて、とりあえず教会生活が閉じられることになります。
 
入学式と卒業式。誰ですか、結婚と離婚、などと考えているのは。お伽噺では、二人は結婚して、それから幸せに暮らしました、となることが多いし、そもそも結婚を「ゴールイン」と表現するのが、伝統的であるような気もします。いやいや、結婚からが始まりなのだ、と訳知り顔で言う人もいますが、この始まりは、それまでの人生とまるで違う「生活」になりますから、不安を懐くというのもありがちです。「マリッジブルー」という言葉もありました。最初に生じた不安が、その後もずっとつきまとうというのも、ひとつの真理です。
 
◆哲学が注目すること
 
哲学は、いま私たちがそう呼ぶ意味からしても、今から二千何百年も昔から営まれ、記録が残っています。古代ギリシアの哲学者たちは、しばしば「アルケー」を問題にしました。物事の始まりのことです。万物は水でできているとか、火だとかいう人もいたし、地水火風のように説明する人、細かな粒子のようなものだと考える人もいました。それが科学的にどうだという問題ではなくて、原理的な初めというものに考察を向けたというところに、大きな意味があったのです。いえ、現代哲学でも、彼らの考え方に刺激を受け、教えられるということもよくあることなのです。
 
ギリシア語ですから、聖書の中でもその言葉はよく使われています。そして終わりという言葉が使われる時に、「テロス」が使われることがあります。しかしこの「テロス」はまた、終わりという意味のほかに「目的」という意味ももっています。気持ちは、分からなくもないように思います。
 
ところが面白いことに、この「目的」が、ある種の「原因」だという見方も提示され、それが今なお人間の思考を縛っているとも言われています。「キリンの首が長いのは、高いところの木の葉を食べるためだよ」と言われても、本当かなと思う反面、さして違和感は覚えない野では亡いでしょうか。でもこれは、木の葉を食べたいことが目的で、結果としてキリンの首が長くなった、と言っています。それでよいのでしょうか。これは深い議論になり得ます。
 
近代哲学をある意味で方向付けたとされるドイツのカントも、その議論は、このような目的が原因であるという発想法を、当然正しいではないか、というような口調で盛んに語っています。目的論の上に、道徳や理想を構築していったのです。その捉え方は、今の私たちもどこかで当然のことのように思い込んでいるふしがあります。それを指摘する役割を果たす人もいますが、実に根深いものです。
 
まして、これがキリスト教神学のようになると、神の目的をもう想定してしまっていますから、明らかに目的論が幅を利かせます。聖書は、あらゆる意味で神について「目的」という「終わり」を見つめていると言ってよいだろうと思います。
 
◆神が
 
私たちは、このイスラエルの民の移動生活の記述から、初めと終わりについて、その重要性に気づかされてきました。しかし、お気づきの方もいるだろうと思いますが、私は今日開いた聖書の箇所から、わざとひとつを抜いて、無視してここまで暴走してきました。「最後に」、ここまで意識しなかった「最初の」言葉を聞きたいと思います。
 
10:33 人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。
 
モーセが十戒を受けた山から、約束の地へ向けて出発しました。三日移動した、それは良いのです。十戒の刻まれた板、それは神からモーセが受けたものでした。神から受けた言葉は、恰も神そのもののように、契約の箱と呼ばれるものに入れられて、担がれて人々と共に動いていきます。それは良いのです。でも、奇妙な文が、次にあったのです。
 
10:33 主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。
 
その契約の箱が、人々の先頭に進む。まだこれも良いでしょう。「彼らの休む場所を探した」、これの主語の塊(主部)は何ですか。「主の契約の箱は」しかありません。「主の契約の箱は、彼らの休む場所を探した」と書いてあるのです。主語と述語だけをつなぐと、「箱は、探した」のです。
 
一体、箱がどうやって探すのでしょう。これは当然、箱を担いだイスラエルの「人間」が探したのだろう、と、理性的な私たちは解釈します。言葉の使い方の上で、それはあり得るだろうと思います。「電車は博多駅を目指した」のですが、目指したのは運転士のはずです。けれども、この文を文字通りに受け止めることを、最後に試みようと思います。そこから私たちが聞く神の声はないか、という姿勢で、聖書の言葉を受けようと思うのです。もう少しだけお付き合いください。
 
そう、主の箱が、探していたのです。この箱は、民族大移動の先頭に立っていました。箱は神である主を象徴しているのだとすると、主が私たちの歩みの先頭に立って進むのです。そして、休む場所を探していると書かれてあります。それは安息のところでもあるでしょう。
 
いま、疲れている人。苦しみの中にある人。どうしようもない混乱の中に置かれて、凄まじい日々を流されているように感じている人。少し休ませてくれ、と叫びたい人。こんな人たちには、安息、すなわち休息する場所が必要でしょう。それを、主が探しているというのです。
 
また、それは旅の目的地であるとも思えます。主が探しているのは、目的地です。それは、あの黙示録が最後に描いてみせた、神の国のことかもしれません。聞き慣れた言葉で言うならば「天国」でもよいと思います。
 
思い出します。「目的」という語は、同時に「終わり」をも意味するものでありました。神は、素晴らしい終わりを探してくださっています。私たちが自分では見出すことができず、そこへ行くこともできないような、そんな結論を、私に先立って探していたのです。
 
すると、気づきます。神は正にいま、私たちの旅の先頭にいるということです。それに従って歩くとき、私たちは、時に十字架を負って歩くことになるかもしれませんが、それでも、全能の神が、素晴らしい結末を探して進んでいるのですから、そこに従おうではありませんか。正にいまです。いまここで、神はあなたと共にいるのです。
 
神は、世の「初め」を創った、と聖書が告げます。それが「アルファ」です。それは「すでに」なされたことです。その神が、世の「終わり」を探しています。それは「オメガ」です。それは「いまだ」なされていません。神は、大切な「初め」と「終わり」を、責任をもって備えましたし、備えてくださいます。私たちの「いま」は、「すでに」なされたことと、「いまだ」なされていないこととの間にあります。授業の一番大事な説明の中に私たちは置かれていて、神の物語の大切な部分をいまこうして辿っていることになります。そこに神は伴っていてくださるのです。いまここで、神はあなたと共にいます。
 
イスラエルの民が、主の契約の箱についていきます。私たちも、その旅に加わりませんか。その幻を、見て戴きたいと願っています。いまこの旅の一行に、そっと入らせて戴きましょう。その「終わり」は、神が保証してくださいますとも。いま、ここで加わりましょう。大丈夫、心配は要りません。主の箱が、休む場所を探しているのです。何よりも信頼のおけるはずの、神が共にいてくださるのです。



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