リモート配信も2年経つのだし

2022年2月17日

教会の礼拝をリモート配信することについての苦言である。
 
コロナ禍と呼ばれる時代となり、日本政府は一種のパニック状態になり、非常事態宣言を発した。未知のウイルスに対しては確かにひとつの方策だった。これを受けて、キリスト教会もまた浮き足立った。「礼拝を中止する」という言葉が飛び交った。冗談じゃない。私はすぐに主張した。「集まることができない」ことと「中止する」こととは等しくない、と。礼拝を、イベントだとしか認識していない証左であると見たが、礼拝は、中止してはならないのだ。
 
多くの教会では、ウェブ配信という方法をとって、信徒が映像を通じて同時参加する機会をつくった。当初は、設備もなく方法も慣れない中で、臨時の手段がとられたと思われる。動画も音声も、とにかく流れればよいというもので、仕方がなかった。それは理解できた。
 
その後、第何波などと呼ばれる現象により新規感染者が増減するにあたり、再び会堂に集まることが行われたが、地域によっては、慎重な対応をすべきと判断する教会もあった。高齢者の多い教会は、やはりリスクを増すことはよくないと考えられ、リモート配信は続けられた。会堂に来ることができる人がいてもよいが、家に留まる人のことを考えたのである。
 
政府が命令するからおとなしく引っ込んでおき、政府が強制しないならとことんやるぞ、というタイプの教会もあるが、感心しない。医学的に非常識な理解をしている人も世の中にはいるし、医療現場に対して実に愛のない態度をとる教会には、この教会では何を世に対して語っているのだろうかと呆れるばかりだった。
 
さて、いま挙げる問題は、これである。配信の動画と音声とに、全く気を払わない教会が、いまなおある、ということである。
 
もう2年が経つ。臨時の配信ではない。いくらかの出費は伴うが、教会という組織が数万円を出せないところは稀である。要するに、まともな映像を配信する気がないということであろう。
 
ある配信では、音声が酷い。スマホの内部マイクだけなのだろう。会堂の音や声が響く。あるとき、専門家が、簡易マイクをつないだ時があった。するとかなり改善された。指向性を意識しただけで、ずいぶん聞きやすくなった。だが、その人も会場に行けなくなると、また同じに戻った。そして、正直言って、何を言っているかよく聞き取れない。音がこもる上に、反射の具合もあるだろうが、スマホ本体のマイクの質だと思われる。私よりもっと高齢の方には、恐らくほぼ聞き取れていないのではないかと推測される。
 
しかも、音量レベルが低すぎる。パソコンで音量最大にしても、非常に聞きづらい。こういうわけで、話していることは殆ど伝わってこないのが実情である。具合の悪いことに、何か床にガツンと響く音が入ると、最大音量にしている故に激しい音に驚く始末である。
 
さらに、映像がぼけている。これは、スマホのような小さな画面で見る限りは分からないだろうと思う。しかし、我が家では事情でテレビ画面に映している。すると、スクリーンの文字がぼやけて全く読めないのである。もちろん、人物の表情もぼけて分からない。
 
それは通信のために仕方がない、と思われるかもしれない。だが、別の教会の礼拝映像は、大画面でも実にクリアで、顔もシャープに映る。念のため他の教会も見たが、そうである。それが当たり前なのだと気づく。
 
そうした教会では、水平アングルから講壇をとらえた画が送られてくる。しかも時に応じて、広範囲を映すときと、説教者の上半身にズームするときと、使い分けている。テレビ伝道という方法については、すでにアメリカが(良し悪しはともかく)長い歴史をもっており、心理学的にも研究がなされており、このアップで語りかけることに説得力が増すことがはっきりしている。これは普通のテレビ番組を見ていても分かることだ。プロの番組ほどの使い分けをする必要はないが、このロングショットとアップショットの二つを使うだけでも、ずいぶん違うだろうと思われる。
 
だが、最初の教会は、三脚は使うが、低い位置から広く映すものが最初から最後まで流れる。見上げるアングル(あおり)は、被写体を尊大に見せる心理的効果をもつ。これは、撮影の常識である。聖書から説教を語ることは権威があることであるのだろうが、さて、それでよいのかどうかは疑問である。
 
これでぼけた画像、聞き取れない音声、これを2年間流していることになる。神を礼拝するサービスを流す映像が、それを視聴する人々に対しては、全くサービスをしていないということになる。
 
リモート配信は、たとえコロナ禍が過去となったとしても、実施可能な教会活動のひとつであると言えるだろう。教会の紹介であれ、礼拝の場に来られない人の心に訴えるためであれ、続けていく教会もきっと多いだろう。だが、それならば、「配信したぞ」で満足して進歩のないあり方ではなく、いくらかでも鑑賞に堪えるものを求めてみてはどうだろうか。あまりにもお粗末な配信は、むしろ逆効果なのではないか、と懸念する。誤植だらけの本は、その内容までも信頼されないであろうのと同様に。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります