建国記念の日と信教の自由を守る日

2022年2月11日

人は、自分が「正義」だと思ったら、とことんそれが世界の正義となり、自分がますます正義に貢献する者のように思い込みが加速するものらしい。
 
待てよ、その見方にはどこか問題がありはしないか。自らそのようなブレーキをかける意識のある人は幸いである。「ゆず」の歌ではないが、坂道を、ブレーキをかけながら下って行きたいものである。
 
それというのも、今日の「建国記念の日」を巡って、自分たちの思いが燃え上がるという現象を、時折見かけるからである。
 
支持派の熱い思いは理解する。キリスト教会も、クリスマスやイースターには熱を入れるわけだから、建国記念を重視する人がいても、何の不思議もない。但し、教会が、クリスマスやイースターを歴史的な事実の中に見ているのに対して、建国神話について、それを歴史そのものだと説得しようとする気配は感じない。むしろ、その話に基づいて、いま私たちはこの国を大切にしよう、という向きで動いていると見たほうがよいようである。
 
だが、だからまた、いまの、そしてこれからの政治や制度に影響を与えるために、その主張や動きを見張っていなければならない、とも言える。どうしてもこの風土には、ひとつの色に染めようとする空気が漂っているからだ。
 
それ故に、逆にこの建国記念の考えを警戒するあまり、熱意をもって反対する動きもある。いまその一つとして、キリスト教会における、「信教の自由を守る日」というところに目を向けることにする。
 
もちろん、反対することそのものは、否定されるべきことではない。だが、それを主張する論理が、まるでなっていない場合があるように見える時があるのが気になるのだ。いわば反対のための反対のようで、とにかく国が決めるのはだめだとか、天皇は神ではないとか、直接関係のないことを並べてくるが、それでは論じていることにはならないだろう。確かに、記紀神話に基づく日付の設定ではあるが、何らかの形で国を思う気持ちが定められることそのものを潰そうとするわけにはゆかないのではないか。
 
別の日を考えることはできないか、という提案ならば、それは価値があるかもしれない。それが、この建国記念の日が信教の自由を侵している、という命題を掲げて吠えるというのはどうなのだろう。私たちは、違う神を拝まされているのだろうか。本当にこれは迫害を目論むための記念日なのだろうか。ただ休日が増えたと考えている人の、信教の自由にどのように作用しているのかを、分かりやすく指摘する必要があるように思うのだ。
 
もちろん、靖国神社の問題など、国家神道の生き残りのような有様について、指摘しなければならないことはあるだろう。ただそれが、どうして「建国記念の日」であるのか、また、「信教の自由」でなければならないのか、そこに必然性が感じられないのである。むしろ、その問題であれば、この2月に限らず、いつでもどんどん言って然るべきではないのだろうか。
 
それよりも他に、急を要することはないか。たとえば、元日を休日にすることにも異議を唱えるとよい。歳神信仰の巣窟である。いまの天皇誕生日も、かつての天皇誕生日を別の形で残しているものも、すべて廃するように運動すべきだ。海の日もだめだろう。2月11日だけ吠えて、あとは沈黙しているとなると、一年に一度のガス抜きのようにしか見えないのだが、失礼な言い方だろうか。
 
むしろ、一刻も早く、8月15日を特別視することをやめるべきだ。むしろこれこそ、天皇制の見えない支配力をつくりだしている元凶ではないかと思う。その「信教の自由を守る日」を叫んでいるキリスト教組織のすべてが、8月15日をもって戦争が終わった日だと認め、それを前提として話をしている。これが、もうすでに支配されている事実を示すように私には見える。それが信教の自由に関わるとは感じないが、天皇中心の前提に吸い込まれていながら、終戦ではなく敗戦なのだなどと抵抗しても、孫悟空と同じように、天皇制の掌の上で躍らされているに過ぎない。幾度もこのことは、私はすでにこれまで説明しているし、万一ご存じない方がいたら、改めて調べてみるとよろしいと思う。Wikipediaでもだいたいのところは分かるはずだ。
 
弱者のように自身を見ているかもしれないキリスト教信者であるが、信教の自由という問題は難しい。教会を訪れた人に祈りや賛美歌を強いるのは、自由を侵しているとは言えないのか。問い直す価値はあると思う。クリスチャンは、神社に来ても拝まないし祝詞を受ける必要もないだろう。しかし、教会に来れば、賛美歌を強いており、祈りに加わらせているのではないのか。「君が代」に起立させられるのは自由の侵害であると論じるが、賛美歌の時に起立させ歌わせるのは問題がないのか、考える余地はないだろうか。礼拝の場に参加した以上、当然そうするべきだ、と考えるならば、クリスチャンが「君が代」を歌わないでよいという論理が成り立たなくなるという可能性はないか、検討すべきであろう。
 
アメリカ大統領が聖書に手を置き誓うというのでよいのか。ドイツなど欧州諸国の教会税は、国が承認しているが、それでよいのか。海外のことに目を向けるならば、キリスト教が権力を握った歴史が、いまもなお蘇ってくることになる。クリスマス休暇ですら、考慮すべきものとなってくる可能性があるとは思えないだろうか。他宗教の人の、信教を脅かしている点については、建国記念の日の比ではないように見えて仕方がないのだが。
 
さらに、いつも繰り返すことで恐縮だが、LGBTQと呼ばれる立場の人々に対して、いかにも教会はずっと皆さんの味方です、人権を大切にします、とにこやかに振りまく教会が現にあることに、憤りすら覚えるのだ。当の人々を迫害し、弾圧してきたのは、キリスト教会だったのではないのか。それも、聖書の記述と信仰を根拠として。ずっと前から味方です、などと言う教会がもしもあったら、まったく、風上にも置けない。まずとことん謝り、悔い改めるところから始める必要があることを、私は提言する。キリスト教会内部からそんなことを言う人がいないためだ。
 
教会には、乳幼児を抱えた親は訪れるだろうか。訪れないとすれば、迎える素地がないのである。迎えてくれる教会を、探している人もいるのだから。病気の子どもを抱えたような親はどうだろうか。来ないとすれば、それはただ単に、親切で子どもは迷惑でないですよ、という教会の姿勢を知らないだけのことなのだろうか。もっとそれをアピールして知らせればよいのではないのか。
 
さすがに、病気は罪の故だと教えるキリスト教会はないはずだが、旧約聖書ではその辺り少し怪しくなってくる場合があるかもしれない。とくに障害者の場合、旧約聖書には非常に拙い言葉が含まれている。聖書は誤りない神の言葉だと言うならば、障害者に対してどう申し開きをすればよいのか分からない。たとえそうでなくても、かつてそのような扱いを教会がしてきた歴史があるのだから――へたをするといまもなお――、その点にけじめをつけなければ、助けるも何もないのではないか。
 
否、事実教会の多くは、障害者をもはじき出してきたと私は見ている。現に障害者が毎週礼拝に来ているような教会は、そう多くない。企業でも一定の割合で雇用するべしということになっているが、その点教会は企業より遅れているとも言えよう。障害者を受け容れることができない教会が、健全だろうか、と考えて戴きたい。いや、偶々来ないだけだ、来たら対応する、という声が聞こえて来そうだが、恐らく実態は逆である。対応できそうにないから、そこへ行かないのだ。たとえばろう者のネットワークはかなり行き届いている。よい教会があれば、知れ渡る。相手をしてもらえなかった教会の悪評も、知れ渡る。ろう者は、私が以前見た資料では、クリスチャン率(などというのかどうか知らないが)は、聴者のそれよりも高かったはずだ。しかし、聴者と同じ教会ではどうにもならなかったので、ろう教会をつくっているところもある。だが、数が限られているため、対応してくれる聴者中心を探すこともあるのだ。
 
女性を大切にします、男女は平等です、と公言する教会は殆ど聞いたことがない。まさか、女性牧師を認めない教団の教会が、そのようなことを言えるはずはあるまい。教会の役員はどうか。礼拝司会などはどうか。食事は男女共につくっているか。掃除はどうか。中には行き届いた教会もあるが、そうでない教会のほうが多いのではないだろうか。それだから、国会議員の男女比が偏っていることについては、教会は殆ど声を挙げないのだろう。建国記念の日に対する反対も意味があるが、議員の男女比の偏りは社会的に見てさらに大きな問題だと見てもよいのではないか。だが、教会はそれが言えないでいる。言えないから、言わないのだ。それも、聖書を根拠としているために、言えば聖書に対する反感が増すのを恐れているのではないか、と勘ぐられても仕方があるまい。
 
論ずるならば、何が具体的にどういう影響を与えているのかを、もっと自身の足元を見ながら、指摘することが必要であるように思う。建国記念の日に対する激しい反対をする時に、かつての弾圧くらいをしか根拠に置けないのであれば、キリスト教会は、魔女狩りや性同一性障害者への弾圧などを根拠に、もっと厳しい仕打ちを受けなければ、フェアではないと考えたい。多くの世界の文明を滅ぼした歴史の主体であるキリスト教会は、ここでいったい何を吠えているのだろうか。私たちは、まず悔い改めるところから始めてあたりまえなのではないだろうか。
 
どうか、これらの点を、事柄そのものにおいて、考えて戴きたい。遅かったかもしれないが、私もここでブレーキをかけて一旦止まることにする。無知と誤解が多々混じっていたことだろうと思うが、教会は、何か自省する心をどこかで育んで戴きたいと願っている。



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