続・疫病と知恵

2022年2月3日

そもそも聖書を書いた時代や文化における世界観は、私たちのそれとはずいぶん異なるものである。どちらが正しいとか、良いとかいう問題ではない。異なるのだ。パウロの言う「第三の天にまで引き上げられた」というのも、創世記の描く、水が分かれたといった自然構造も、私たちは実感をもって追体験できない表現である。
 
仏教でも三途の川や地獄といった逸話が付け加えられていったが、キリスト教では当初から、黙示録に解読不可能な図像が溢れているし、旧約聖書の預言書にも多々そういうものがある。現代人の合理性が優れているという眼差しで、それらを見下すようなことはしてはならないと私は考えている。いまも星占いや地鎮祭は日常的に存在しているし、私たちの科学でさえ、後にどう見られるか分からない。私たちの常識もまた、将来の人類に、嘲笑われるかもしれない、くらいの気持ちでいたい。
 
ともかく私たちはいま、重大な課題の中に置かれている。このパンデミックの中でどう生きるのか、将来を生み出すのか、ということだ。この問題はウイルスが原因だと私たちは理解した。ウイルスは悪魔ではない。だが、聖書の世界観の中には、神が疫病をもたらした、あるいはもたらすという考え方がたくさんあるところと考え合わせると、このウイルスは神がもたらしたというふうにしか考えられなくなってくる。
 
そんなことを神がするはずがない。そう言いたくなる気持ちは分かる。だが、それでは聖書の記事をどうするのか。聖書を信じると言いながら、まさか神が、となるから、信者はジレンマに陥る。これを解消するために、なんとか聖書を擁護しながら、神がするはずがないと結論づけるための理屈を作り出そうとする。弁神論などというものは、このようにして展開した。
 
下手をすると、十字架も復活も、そんなことはない、のような方向に走り出さないか案ずるが、人間の素朴な感情は、神の不条理な出来事に、ついて行けなくなることがある。疫病も正にそのひとつだ。神がそうする「はずがない」の根拠は、人間の感情でしかない。それを根拠として、いくら聖書はそんなことは言っていないのだというように、聖書の細かな表現の中から論理を構築したとしても、根拠自体が、高々人間の思いであれば、それがどうした、ということになる。
 
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。(イザヤ55:8)
 
だから、神は残酷なのだ、そのように言いたいのではない。私が神に届かないのだ。私には神が隠されているところがあるということだ。そして、神の思いはこのようなのだ、と弁神論的な説明をすることも、できないということだ。子どもが親に叱られたときに、親の思いが分からず怒ったり憎んだりするのと同様に、神の思いには、どうやっても見抜けないところがあるとするしかないのである。
 
私はそれを決めつけない。私の考えや感情を、根拠とはしない。疫病に対する知恵は、神の側でどうだというような発想から離れて、私の側でどうしたらよいのか、そこに精神を集めることでよいのではないのか。
 
私はどうして自分の身を守り、関わる人の命を尊重するとよいのか。望みをなくし困惑している人にどんな言葉を投げかけ、あるいは何をするとよいのか。苦しんでいる人たちのために、何ができるのか。命懸けで労している仲間たちのことを忘れずに、その人たちの思いと行いを踏みにじらないために、いまここでどうするとよいのか。そうしたことを、常に心に置いていたいと思っている。
 
ただ、「だったらキリスト教を信じるというのはどういうことなんだよ」という叫びがぶつけられるかもしれない。「神を信じて、その神が残酷なことして、人間に幸せをもたらさない、それを信じろなんてお前は訳の分からないことを言うのか」と。
 
そう。訳の分からないことを、言うのだ。言うしかないのだ。少なくとも、やたら「訳の分かる」説明というのが、必ず不幸を招くのだと考えたなら、まだこちらに、道があるのだとは感じている。それは、神を否定したところで、何の解決も平安ももたらさないことが確実であるのと比べれば、何か光がある、とも思うからだ。説明ができなくて申し訳ないが、もはや言葉ではどうにもならない森の中にいる。ただ、私はここに立っている。



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