【メッセージ】あなたの平和のために

2022年1月30日

(マタイ5:9)

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
◆平和と平安
 
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
今日は「平和」にしばらく浸ってみます。いきなりですが、「平和」と「和平」は、漢字をひっくり返したたけですが、どのように使い分けられているか、説明できるでしょうか。近い意味であることは想像できるだろうと思います。しかし説明となると難しくありませんか。日ごろ子どもたちに言葉を教えている身とあっては、これをクリアに説明できなければならないので、一応の心得はありますが、いましばらく問いかけたままにしておきますね。
 
しかし同じひっくり返すにしても、「社会」と「会社」とでは、てんで違うように思われます。ところが、これらの言葉はもともと、そう違いのあるものではなかったそうです。どちらも、何らかの同じ目的を目指す人々の結びつきを言うものでした。ただ、明治期に共同体や生きる場を示す英語のsocietyの訳語に「社会」を、companyという営利目的の仲間を表す語に「会社」を充てるようになったと考えられています。
 
では「京都」と「東京」はどうでしょう。耳で聞くと、反対にしただけのように聞こえませんか。「Kyo-to」と「To-kyo」というように。でも漢字にすると、ひっくり返したとは言えなくなりますね。これはもともと「京」という言葉に、方角の東を載せたというふうに見られていますが、その「京」が、果たして「京都」のことなのか、都を表す一般名詞としての「京」であるのか、その辺りは私は知りません。
 
脱線しました。今日(京ではありません)は「平和」が中心概念でした。この平和は、ギリシア語では「エイレーネー」という語です。女性の名前としても用いられます。ギリシア神話には、この名をもつ女神が描かれています。この語は、聖書ではもちろん「平和」と訳されることがありますが、他によく「平安」とも訳されます。「平安あれ」という具合です。
 
そこで、問題が起こりました。「平和」と「平安」は日本語の違いとして、どうなっているのでしょう。実はこの「平安」という言葉は、若い世代には通用しにくいようなのです。「心の平安」という表現がピンとこないようで、どうも常に心が乱れてイルカのようです。「平安時代」とという名称も、どうしてそう呼ばれるのか、意味を考えるゆとりもないようです。もちろん平安京に由来し、平和であるようにとの願いがこめられての命名でしたが、この時代には死刑が(一応表向きは)少なかったということも、後の時代から見れば、平安だったということなのかもしれません。
 
◆平和の祈り
 
聖書では、私たちが「平和」と呼ぶ事柄の中に、「平安」の意味もこめているように見えます。でもいったい、これらの言葉を、私たちはどのように使い分けているのでしょうか。国家や社会こそ「平安」だと言う人もいますし、「心の平安」となると心理的なものだと言う人もいます。これについては、もう少し後で再び触れることにします。そのため、曖昧な形にしておきつつ、お尋ねします。
 
あなたは、平安ですか。あるいは、あなたは平和ですか。
 
新約聖書の、特に手紙関係には、「恵みと平安があなたがたにあるように」といったフレーズが多く現われます。相手に神からの恵みや祝福があるように、との祈りは愛に満ちていると思いますし、平安があるようにというのは、無事を願う思いで、とても美しいと感じます。ここにある「平安」は「エイレーネー」です。日本語でこれを「平和」や「平安」と訳し分けているだけで、聖書の原語からすれば、同じように使われています。
 
平安を祈る。あるいは、平和を祈る。私たちも、よく祈ります。世界で戦争や内乱があること、政府の弾圧で市民が攻撃されている報道を聞くと、平和になるように、と祈ることでしょう。
 
だいぶ前にけっこう話題になりましたが、町で今でも見られるでしょうか。「世界人類が平和でありますように」という細い柱が立っているのを。「ピースポール」というのだそうです。「白光真宏会」という宗教の教祖であった五井昌久氏が始めた、「祈りによる世界平和活動」により立てられているとのこと。特別な神仏を拝むタイプのものではないため、この願いは、多くの人の心に留っているように思えます。
 
世界が平和であるように。教会でも、このような祈りは当然あるわけです。そして、全員が「アーメン」と力強くこれに同意できます。
 
祈れるのです。
 
妙な言い方に聞こえましたか。でももう一度申し上げます。「私たちは、世界平和のためには、祈ることができるのです。」
 
同じ平和でも、祈れない平和の祈りがあります。「父親と和解できますように」「諍いのある隣人との間に平和がありますように」「自分が大嫌いなあの人との間に、平和がありますように」、これらはなかなか元気よく「アーメン」と祈れないのではありませんか。
 
遠い世界のためには、いくらでも祈れる。けれども、自分の身の回りの人のためには、祈れない。そう、これは「当事者意識」の違いによります。自分とは直接関係がないことのためには、私たちは大胆に祈ることができます。しかし、自分が当事者である問題については、「それはできない」とか「そんなことは起こるはずがない」とかいう心理が、どうしても首を出してくるのです。
 
平和は、自分において、考えていかなければならない課題であるということを、こうして押さえておきたいと思います。
 
◆力ずくの平和
 
どうしても、ひとは結論を急ぎます。なんとか一定の解決を得たいのです。それは、安心するためです。答えが分からない状態は、ひとを不安にさせます。だから、子どもが泣いていると、「眠いんだね」と親は理由を自分で決め、その辞退を自分で納得します。これが嫌だった、と成長した子に言われて、なるほどそうだ、と思いました。
 
平和についても、ひとはすぐに答えを決めたくなります。そして、自分の頭の中にあるイメージを、なんとか説明しようとします。しかし、平和はかつてしばしば、強烈な戦いを経てもたらされるものだという理解がありました。つまり、強い権力により力ずくで抑えこむことで平定することの中に、平和の実現を見ていたということです。
 
民族や部族は、それぞれが自分の利益を求め、万人の万人に対する戦いを展開していたが、契約を交わすことにより戦いをなくす方向に進んでいった、という考え方があります。しかし、本当にそんなことが簡単にできたのでしょうか。信頼関係が易々と結ばれるのでしょうか。むしろ、裏切りにより一方が全利益を奪取することの繰り返しがあったことが推測されます。そのような争いを抑えるものがあったとすれば、それは武力ではなかったか、と思うのです。
 
日本の歴史でいくつか「平定」と呼ばれる事項があります。豊臣秀吉が島津などを支配するに至る戦いとして「九州平定」などと呼ばれる一連の戦いがありました。世の中を平和にすることこそが「平定」であるはずですが、実際上それは血生臭い戦いを通してなされたことなのでした。
 
「パクス・ロマーナ」という語でも呼ばれる「ローマの平和」という時代が、古代ローマ帝国時代にありました。歴史でそう学びます。聖書にも登場する皇帝アウグストゥス以来、200年にわたり、大きな混乱もなくローマ帝国が落ち着いていたことを指しています。しかし、その初期にいた歴史家タキトゥスからしてすでに、「破壊と、殺戮と、掠奪」を以て「支配」と呼び、「平和」と名付づけている、という批判を呈しているそうですから、このような「平和」は、強い権力ににより血生臭いことが行われたからこそもたらされたという考え方も、私たちは気にする必要があろうかと思います。
 
力でねじ伏せることにより、誰も逆らわないようになる。それが「平和」だとすると、私たちが時に思い描く「桃源郷」のようなイメージを、改めなければならなくなるでしょう。
 
もっと卑近な例で言うと、ウルトラマン・シリーズのような怪獣や宇宙人との戦いを考えてみましょう。宇宙戦艦ヤマトでも、エヴァンゲリオンでも構いません。平和のために戦う姿を、私たちは見守り、応援していたはずです。殺戮の戦いがあるとき、勝利したほうが平和を得ます。
 
近現代になって、敗北の側も平和になるという建前が考えられるようになりましたが、果たしてどうでしょうか。戦争に負けた側の国が、内戦や内乱により混乱の極みを呈し、難民を出している事態を、私たちは知らないはずがありません。
 
人は、こうした戦いを想定しなければ、平和というものの実現を考えることはできないのでしょうか。それは、聖書においても同じで、私たちの日常でも同じです。いったいどれほどの戦いのための言葉が、比喩的にでも用いられているか、省みる必要があると思うのです。
 
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソ6:11-13)
 
夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(ローマ13:12)
 
悪魔と私たちは「戦う」と平気で言いますし、黙示録ではこの戦いが延々と描かれています。その戦いに勝利することで、神の国が実現するというような図式がそこにあります。聖書でなくても、受験で戦うとか、企業の戦いとか、言葉だけを見ると、私たちの社会は常にすべて戦いに明け暮れているかのような言い方をしていることに気がつくと思います。究極的には「自分との戦い」とまで言うのです。
 
私たちもまた、平和は、そうした戦いを経てのものだというふうに、当たり前に考えていなかったか、振り返ってみるとよいでしょう。
 
◆平和の反対は
 
ところで、たとえそのようであったとしても、平和ないし平安は、何事もなく穏やかであること、そのように考えることそのものが、間違っているようには思えません。
 
私は、いわゆる「問題」を考えるときに子どもたちに、「逆を考えると、分かることがある」と教えています。斜線部分の面積を求めるには、白い部分の面積に目を向ける。男子の人数を答えるためには、女子の人数を探す。少なくとも一つは表という場合は、全部が裏である場合を考える。
 
そこで、ここでも考えてみましょう。「平和」の対義語は、何でしょうか。
 
そもそも対義語という考え方は非常に曖昧なものです。よく子どもたちに問うのは、「赤」の反対は何かということです。するとクラスの子どもたちから、それぞれイメージするものが口々に出てきます。色である点では皆一致しているのですが、複数の色が出てくるのです。「青」と言う子がします。イメージしたのは信号機でしょうか。同じイメージでも、ふと気づいて「緑」と言う子もいます。それとも、格闘技のコーナーで「青」なのでしょうか。それとも鬼かな。「白」と言った子は、運動会を思い出したのかもしれません。あるいはお祝い事でしょうか。「黒」と言う子は少し大人びているかな。チェス盤だとそうなります。まさかスタンダールを読んだ小学生は、いないとは思いますが。
 
さて、「平和」の反対は何でしょうか。トルストイの小説が影響しているかどうかは分かりませんが、多くの人が即座に、「戦争」と答えることと予想します。確かに、間違っているとは思えません。でもそれで十分でしょうか。「我が家は平和だなぁ」と漏らす親は、家の中に戦争がないということを言っているのでしょうか。たとえ「戦争」ではなくても、「戦い」や「争い」と呼べるものばかりを想定しているのではないように思います。仏教的な言葉ですが「無病息災」である様子を「平和」だと称してはいないでしょうか。つまり、「災い」のない状態のとき、「我が家は平和だなぁ」と言っているのではないでしょうか。
 
「平和」のほうが、「戦争」よりも抽象度の高い概念です。ですから、これらを対立概念とすることには、些か無理があるように思われます。しかし、対義語という点では、どうも定説がないようです。あれば、それが広まっているはずですから。そこでもしここで考えるきっかけとしてそれを考えてみるとすれば、たとえば「混乱」を挙げてみることにします。それで十分だとは言えないような気がしますが、これだと、抽象度からしてもまだ釣り合うように見えます。私たちは平和ということで、混乱のない状態をイメージしている、というように、仮に考えてみることにします。
 
◆必要な混乱
 
平和が大切であることは当然です。私たちは平和を求めます。だとすれば、それは混乱のない状態を欲している、というように考えてみる価値があると考えます。
 
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、
 
二重否定を使えば、「混乱のない状態を実現する人々は、幸いである」ということになりましょうか。確かに、そうである、とも言えます。やたら混乱を巻き起こす人を見て、この人がいて平和だ、とは思わないでしょう。けれども、この考えの怖いところは、混乱を起こすことが悪だ、混乱を起こすことのないようにするべきだ、という規定に突き進んでしまうことです。
 
お分かりでしょうか。先ほどの、武力で平和を造る、という構造は、ここから出ているのです。また、たとえ武力でなくても、「一致団結して」とか「全員一丸となって」とかいうスローガンもまた、これに当たることに気づいて戴きたいと思います。せっかく多くの人が同調して進もうとしているときに、それの問題点を指摘する人が現われたら、気持ちよく動き出せると思ったことに邪魔が入ったとして、疎んじる思いが起こらないでしょうか。寄らば大樹の陰でいることこそが、混乱のない状態への条件であるかのように、思い込んでいないでしょうか。
 
教会でもそうです。祈りのうちに一致して、などというと聞こえがよいのですが、それに反対する人がわずか現われたら、なんと無粋なことよ、と迷惑がることはありませんか。あるいは、なんとかその人を説得して、他の多くの人の意見に合わせようと画策することはありませんか。そして、教会全体の意思に従うことこそが「信仰」のあることであり、教会の立てたものに従わない人は「不信仰」だというレッテルを、すでに前提して貼り付けているようなことはありませんか。だから「従順」でいましょう、「信頼」が大切です、そんなメッセージすら送ろうとしている牧師はいませんか。
 
まるで、歴史の中にあった修道院のような雰囲気を、プロテスタントの教会は、都合のよいときだけ、尊び利用するようなことを、していないでしょうか。
 
なあなあでよい。一石を投じて波紋を投げかけるのは、混乱にほかならない。そうした価値観を、前提として物事を考え始めてはいないか、省みたいと思います。
 
洗礼者ヨハネのそうした声をうるさいと思ったヘロデ王は、ついにヨハネの首を斬ることとなります。預言者エレミヤの声をうるさいと思ったヨヤキム王は、エレミヤの書いた巻物を次々と炉にくべます。いえ、ともかく預言者というものは世の人々にとりうるさい存在であることが多く、権力者には睨まれ、大衆からは疎んじられていたように見受けられます。
 
そして肝腎のイエスその方こそ、世の人々から敵視され、この世界から取り除けと罵声を浴び、その肉をとことん傷つけられ、ついには殺されたのではありませんか。まさにイエスこそ、この世に混乱を起こした張本人なのです。
 
さらに、そのイエスに従うように変えられた弟子たちも、この世界の平和を乱すような存在として見られていたことも確実です。多くの人に同調せず、世の価値観とは違うことを言い張っていたのですから。そもそも、そのようにこの世とは反りが合わないのが、キリスト者というものだ、とお思いの方もいることでしょう。使徒言行録から二つ、その決定的な場面を引用します。
 
そして、二人(注・パウロとシラス)を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。(使徒16:20)
 
実は、この男(注・パウロ)は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。(使徒24:5)
 
ここではパウロがどちらにも絡みますが、パウロは世間からすれば、変わったことを言う者であり、関西的に言うと「いらんこといい」です。黙っていれば皆穏やかに暮らしているのに、余計なことを言って、平和を乱します。時にエフェソの町で大暴動に発展する事件のきっかけにすらなりました。混乱の極みです。
 
だからパウロは、平和の敵なのでしょうか。それでよいのでしょうか。「そんなことはない」と、クリスチャンたちは口を揃えて言うでしょう。しかしふだんの教会生活で、あるいはまたキリスト教組織の中で、クリスチャンは、このような人を平和の敵だとするのです。
 
もちろん、何でも自我を通すというのが望ましいなどと言うつもりはありません。パウロにしても、結果として私たちはいま、パウロの肩を持って、それは混乱ではないと言いたくなりますが、もし当時私たちがそばにいたら、パウロをけしからんと糾弾していたかもしれない、いえ、確実にパウロを非難していた、というふうに考えるべきだろうと私は考えています。いくらそれが、必要な混乱であったとしても。
 
◆平和をつくる
 
新共同訳聖書では「平和を実現する者」と言っていましたが、この箇所は多くの聖書で「平和を造る者」と訳されてきたものです。実は今まで黙っていましたが、今日開いた有名なマタイの福音書のここには、「平和」つまり「エイレーネー」という語はありません。「平和」「造る」「者」の三語のように訳語からは見てとれますが、原文では一語です。「エイレーネーポイオス」、英語風に言えば「ピースメーカー」というように組み合わせた一語の言葉です。「幸い、ピースメーカー」という具合です。
 
私は、車を運転することは悪だと考えていました。金はかかる、空気は汚す、石油を浪費する、そしてもしかすると人の命を奪う。しかし、阪神淡路大震災の後、京都から、実家のある福岡に戻る道を歩むことになったとき、自動車の必要性を覚え、運転免許を取得することを決意しました。
 
自動車学校には、若い人が多い中でしたが、あまり気にせず、真摯に取り組みました。穏やかな気質の教官が専属となったのは、予めさせられた心理テストの結果に基づくものだったと思われます。助かりました。その教官が、一度模範運転をすることがありました。コースを一度回り、何が分かったかと私に問いました。私はそのとき、気づいたことを言いました。「安全運転をするのではなくて、安全をつくってきたんですね」と。
 
事故を起こさないためには、ただ規則を守るとか、こうすればよいのだという公式に従って運転するのではなく、危険予測を前提として、悪い事態を回避するように配慮しながら運転することなのだと、その時学んだのです。つまり、安全をつくっていくのだ、と。
 
このことで、また聖書の言葉の読み方も、教えられたような気がしました。律法や、教会のきまりを、ただ守っていればそれでよいのではない。守ろうとしても守れないし、愛せよなどと言われても、自分で愛しているつもりがとんでもないということはいくらでもある。神の国が来るのをただ待つような態度でいることが信仰深いというものでもないぞ、ということに気づいたのです。
 
イエスの言葉は、これを守れという性質のものではなく、神の国をつくっていけ、というものであることを知りました。平和を待つのではない。平和をつくるのだ。
 
最初に謎をかけておきました。「平和」と「和平」とはどう違うのか、というものでした。私の説明が正しいか適切であるのか、それは判断つきませんが、子どもたちに話すのであれば、きっとこのように話すでしょう。「どちらも穏やかで混乱していない様子を表す言葉です。ただ『平和』は、そのような『状態』をさすのに対して、『和平』は、そのような状態にすること、そのような状態をつくることを言いたいときに使います」と。
 
イエスがここで私たちに求めたのは、和平であったのだ、と気づかされます。
 
◆神の子
 
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
 
最後に、この幸いな人はどう扱われるのかについて、簡単に見ておきましょう。この人は「神の子と呼ばれる」と結ばれています。私たちはどうしても「神の子」に目が吸い寄せられますが、ここにはちゃんと「呼ばれる」と書かれてあります。誰に呼ばれるのでしょう。誰が呼ぶのでしょう。
 
聖書では一般に、私たちがいま言う受動態で、主語が表記されていない場合、それはしばしば「神によって」が隠されているというふうに読むことがよいとされています。私たちは、神によって、「神の子」と呼ばれる、と私たちもいま読むことをやってみます。
 
かつて、ローマ皇帝の称号には、「神の子」という意味の語が盛られていたと言われています。この場合の「神」は、恐らく「カエサル」のことだろうと思われます。力ずくで平和をつくったのが皇帝です。しかしキリストの弟子たちは、これが神の子であるなどと呼ぶことはできませんでした。イエス・キリストを「御子」や「神の子」と呼んだことの背景には、このローマ皇帝の呼称がいくらか影響を与えているかもしれません。
 
キリストの名の下に集まる者たちは、キリストをこそ、神の子と呼びます。キリストは、その十字架を通じて、平和を実現する救い主だと理解しており、そう告白します。神の子と呼ばれるどころではない、まさに神の子そのもの、それがイエスだと私たちは信じているのです。
 
そのイエスから目を離さずにイエスに従い、私たちがイエスと同様に平和実現を実践しようとしていたなら、神はこの私たちのことを、どのように見てくださるでしょうか。武力で力ずくに平和をもたらそうとするような皇帝でもなく、ただ混乱をもたらすためではないような形で世に楔を打ち込む働きをするようにして、イエスの名の下に和平に努めるのだとしたら、神は私たちをどう呼んでくださるでしょうか。神の愛を胸に、怯まず、愛することを求めて前進するのだとしたら、私たちを神の子と呼んでくださらないでしょうか。
 
さあ、あなたは今日、どんな平和をつくることができるでしょうか。



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