加害者のあなたへ

2022年1月22日

犯罪事件は、傍から見ている者には推理の対象であるかもしれないが、当事者にとっては人生のすべてにもなりうる出来事である。その意味から、安易に興味本位で見解を述べるようなことは、できるだけ避けるのがよいと考えていた。
 
報道されることも、どこまで本当か分からない。一定の立場からの見解でしかないと言えるし、コメンテーターなるものも、よく物事を知らないけれどもよく見かける顔の人が、その場限りの思い込みを売っているようなもので、デマを振りまいているのに等しいというくらいの構え方がちょうどよいことを知っている。顔を見せたツイッターという程度に見たほうが健全だ。
 
だから、軽々しく口を挟みたくないのが本音だ。
 
先日の高校生の事件にしても、何の関係もない大人たちが、よってたかって尤もらしいことを言っているし、若者はどうだこうだと、分かったようなことで放映時間を埋めてギャラを得ている。もちろんそういうのを見てはいないが、チャンネルを換えるときに一瞬そういうのが見えたら、ああまたか、と、もうそれで十分という思いだった。
 
世間に幾ら責められようと、その人を、少しでも弁護したいという気持ちに、私はなることが多い。それは、被害者を無視することではない。矛盾するようだが、いたたまれない気持ちで被害者を思うし、同時にまた、加害者の苦しみや、そこへ追い込んだものについても、考えようとするのだ。
 
事件の加害者を、事件と無関係な傍観者がよってたかって糾弾したり罵声を浴びせたりするのは、いじめと何も変わらない。自分だけは正義から一歩も揺るぎない立場でいるのだという構えから出てくるものは、私にはとてもまともなものには見えない。だが、当人はそのことに気づかない。それはたぶん、福音書でイエスが対峙した、ファリサイ派の人々や律法学者というのが、その典型であったのではないかと私は考えている。そしてそれは、いまもうようよいるというふうにも。
 
「……恐ろしいのは、自分たちが加害者の立場に立ったときには、自分の言っていることの不条理性に気づかず、何かこれを絶対の価値として無意識のうちに相手に押しつけてしまいがちになるということです」(『愛をみつける』井上洋治,p95f)
 
私は、自分がその加害者の先頭にいるものと理解している。そして。いま意識していないにしても、私がここにあるとき、私は加害者としてしかあることはできないのだ、そういう心構えでいることしかできない。ただ、福音を与えられたことで、私は救われている。だから、こうも思う。
 
むしろ私は、事件を起こしたその人に、どうして自分が福音を届けられなかったのだろう、と悔やむ。私でなくてもいい。その住まいや学校、職場など近くに、教会がなかったか。キリスト者はいなかったか。聖書の言葉を知らせる術はなかったのか。
 
だから、とにかく機会あるごとに、聖書の言葉なり、福音なりを、言葉は悪いが、まき散らしたい。いま信じている人は思い出して戴きたい。あなたを方向転換させたのは、何か些細なもののように見える、神の言葉ではなかっただろうか。膨大な聖書を全部読んだから信じたというのではないと思うのだ。ある一つの言葉が、心を動かす力をもっていたのではないだろうか。
 
私には才能も力もないが、そうした命の言葉を運ぶ方法がこのように与えられている。だったら、些かも遠慮せずに、ばらまきたいと願い、ばらまいている。その言葉が必要な、あなたのために。



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