家族と救い

2022年1月20日

考えてみてもよく分からない。「家族」とは何か。
 
親子のような血縁のことを指すという常識的見解がある。同居する共同体であるとも見られる。すると、同居していても血縁でない場合は家族の枠から外すことになる。また、血縁があっても同居していない場合は、家族とは見なされないということになる。殊に新しい別の家計を営むことになると、その子は家族に属さないと見なすのが通例であろう。しかし、学生として寮生活をしている子の場合には、成年未成年に拘わらず、家計を一とする故に家族と呼び続けて構わないことになる。
 
民法のような法規定の中で考えると、また明確な決まりの中で認可されることになろうし、血縁でなくても、「家族のようなつきあい」というと、家族のように感じているということもあるだろう。だが、「家族のような」という時点で、それが実は「家族でない」ということを前提としていることが分かる。あくまでも、それは「疑似家族」なのである。
 
聖書では、たとえば「もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び……」(申命記15:16)、とあるように、奴隷は家族にカウントされていない。その他は、やはり血縁同居というあり方をする人間として「家族」は考えられているように見える。ただし、少しばかり比喩的に考えられているものも、新約聖書には見られる。
 
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:10)
 
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。(エフェソ2:19-20)
 
このただ2つの箇所から、教会を家族である、との主張がしばしばある。実に美しいなぞらえであり、かくあるべしという理念を表していることはよく理解できる。だが、そのような美談は、この国ではしばしば無言の強制力を伴うことになりがちである。家族なのだからこうするべきだろう、という強制力を、支持者がもつようになることが多々あるのである。しかも、支持者自身は、自分が強圧をかけているということには全く気づかないが故に、その力はますます強くなっていくという特性がある。これは教会組織が陥る危険の一つであるが、一般的にも言えることであろう。
 
いまは流行らないが、昔「かんどう」という言葉があった。小さいころ、テレビドラマで聞かれるこの言葉を「感動する」という意味しか知らなかったから、なんで怒りながら感動するのだろうと不思議に思っていたことがあった。もちろん「勘当」である。
 
勘当とは、主従関係や師弟関係を切ることをも意味するが、多くの場合、それは親子の縁を切ることを意味する。決まり文句は「親でもなければ子でもない。今日限り出ていけ。勘当だ」というところである。戦前には、法的にもこれはあったらしいが、現在はない。
 
すると、同居をしなくなれば家族ではなくなるのであるが、親子関係が消えることはないのである。ところが、家族でも、配偶者となればそうはいかない。離婚すれば、関係は切れる。そしてまた別のパートナーと結婚関係になれば、配偶者関係が新たに結ばれることになる。
 
注目したいのは、親子は人為的に切れないが、夫婦は人為的に切れるということである。キリスト教会では、この夫婦関係でも、神が合わせた故に離婚はできない、とする伝統があった。特にカトリックでは基本的にその伝統が保たれているか、またはそう考える精神風土がある。しかしプロテスタントでは、夫婦関係は人為的に切ることができるとするのが普通である。
 
切ろうと思っても切れないこと。これを「絆」という。「きずな」と区別して「ほだし」と読むこともあるが、「絆」は人と人との美しい結びつきのようなイメージで、特に東日本大震災の時に広まった故に捉えられている。しかし、本来この言葉は、家畜のような動物が、杭につながれるようにして束縛されるときのその紐のことであり、切りたくて切ろうとしても切ることのできないものを表す。
 
ここで言えば、配偶者ではない家族は、切ろうにも切れない関係なのである。まさに「親子の絆」というものである。
 
さて、「神の家族」というとき、それは親子のように切れないものなのだろうか、それとも、夫婦のように切れることがありうるものなのだろうか。
 
人間同士の横の関係は、切れることが許されるものである。これが私の主張である。これは、私たちの経験がそれを証明するのではないか。
 
他方、神と自分との関係について考えてみよう。聖書は「キリストと教会」を結婚の関係のようになぞらえる場合があるが、それよりも、人はイエス・キリストを信じることにより神の子とされるというような信仰が基盤である。父と子という表現がジェンダー的にどうかという点は別として、私たちは神を親のように、人を子のように捉えるのがよいのであろうと思われる。
 
私たちが信仰により、イエス・キリストによって神とのつながりが結ばれたならば、それは切れないものなのである。このつながりの中にあるということについては、ヨハネによる福音書をご存じの方は、心強く思うのではないだろうか。
 
あなたは、教会組織により救われるのではない。神やイエス・キリストとのつながりによって、救われるのである。



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