阪神淡路大震災を伝えなければならない

2022年1月17日

ライブでのテレビ中継が特別に組まれなくなった。震災25年の年はずいぶん取り上げられていたのに、一年でこの閑散とした有様だ。もちろん、報道番組の中では取り上げられるだろう。だが、もう一般ニュースの一つにしかならないのだ。
 
2012年の成人の日、朝日新聞の社説が「尾崎豊を知っているか」というタイトルだったというところに絡んだコラムが先日「文春オンライン」(https://bunshun.jp/articles/-/51352)にあった。この問いの答えを私は知らないが、たぶん新成人たちも「知らない」だっただろう。いまの中学生には「ドリカム」も通じないのだから。
 
20年を過ぎると、歴史の伝播能力は急速に落ちていくような気がする。戦争や原爆という言葉が、まだかすかにくすぶる煙に乗って伝わってきた空気を知る私であるが、その事実を生きた人たちが、確実に世を去っていくようになり、他方全くそれに関与しない新しい子どもたちが、成人となる時間は、あまりにも社会を塗り替え尽くしてしまう。
 
知る者は伝えなければならない。心動かされて、それを伝えようとする若者が、ごく稀に生まれる。歴史を真摯に捉えることができる若い世代は、僅かであっても、いるはずなのだ。伝えようとしていなければ、その若者にも届かない。
 
それはまるで、キリスト教の伝道のようでもある。声は発さなければならない。耳のある者は聞くからである。聞く人に祝福があることを祈りながら、声を発していくことは、誰にでも何らかの形でできることだと信じている。



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