医療現場は今

2022年1月14日

コロナ禍と呼びうる時期に入り、2年が過ぎた。
 
最初は怯えるばかりで、必要以上の警戒をしていたかもしれない。それはそれでよいのだ。得体の知れない者に対しては、対処の仕様が分からないわけで、だから大げさにでも対応しておくのがセオリーである。
 
その意味で、ずいぶんと人類は知恵を働かせ、逞しくなった。
 
欧米はずいぶんと深刻な事態になっており、医療崩壊と言ってよい情況ではないかと思われる。が、感染力の強い変異株は、致死率を下げたために、まだ最悪の事態は避けられていると言えるのかもしれない。
 
そんな外国をよそ事と見ていた日本が、ひっくり返ってしまった。いったい、あの知恵はどこへ行ったのか。推測するしかないのだが、一種の油断であろう。もう大丈夫そうだ、みんなそんなふうだ、ワクチンも打ったから平気だ、これまで我慢してきたからな、これくらいいいだろう――こうして、ウイルスのほくそ笑むような条件が整っていったのだ。
 
長く辛い立場に置かれた人たちに対しては、傍から強いことを言うつもりはない。厳しすぎるし、絶望的であるということに、ぬくぬくとした者が何か偉そうなことを言うことはできない。
 
他方、見た目のことで、ぎすぎすした心ない言葉を言い放つような人がいることについては、その発言が多くの人に影響を与えかねないがために、悲しいと思うと共に、発言をしないようにしてほしいと願うケースが出てくる。
 
それは、感染力の強いオミクロン株について「軽症であるのに大騒ぎしすぎだ」と、軽く見るように促す発言である。
 
感染したところで、その人が直ちに重症化するわけでもないから、普通のインフルエンザと同様に考えろ、という声である。厳しい立場に追い込まれた人からの声であれば、そう思われるのも無理はないと思うが、そうではない情況にある人が、自らのちょっとした不自由さを嫌悪して、正義のように言うことには、ブレーキをかけてほしいと願うのである。というのは、先日、クリスチャンと名のる人が、こうして大騒ぎするのは「罪深い」と断罪している発言を見たからである。
 
かつてコロナ禍の初期には、医療従事者への感謝云々というブームもあったが、いまは残念ながら医療従事者のことを完全に忘れているという世情が、こうした現象に現われているように思われる。つまり、感染力が強いということは、医療現場が混乱しているという事実が、忘れ去られているように思えるのだ。重症か軽症かがすべてではない。医療現場には、検査をも含め、たいへんな人が殺到するのだ。そして、それに対して濃厚接触者となれば、医療従事者もまた業務遂行ができなくなる。沖縄県がまずその情況に陥ったいるが、その傾向は急速に広まった。こうなるとますます医療現場は困難を窮め、崩壊してしまうことになる虞があるのである。
 
重症化させて人間の命を奪えば、ウイルスも運命を共にしなければならない。また、ワクチンによりウイルス自身の活動も抑えられてきた。ウイルスは恰も知恵があるかのように、作戦を変えた。感染力を高め、影響を軽症にしたのだ。ウイルスの住まう生命体は元気に活動し、ウイルスを生かす。軽症だから活動してくれ、さらなる感染対象を与えてくれる。また、軽症だからと真摯にならない輩が増えていくだろうから、益々感染しやすくなる。あまけに医療機関が麻痺すれば、ウイルスにとっては都合の良いことばかりが起こることになる。まことに狡知たる作戦である。
 
人類は、いくらかでも、ウイルスとの付き合い方が分かってきた。経済を動かすことについて、最初の状態とは明らかに異なる動きを見せている。ただ怯えて何もしないというのとは違い、活動を継続しながら気をつけていくということが、できるようになりつつあるのだ。ウイルスの知恵に勝るものが、きっと有るはずだ。もちろん、それはまだ不完全である。経済的に追い詰められた人が現にいて、生活が成り立たない人をどうにかしないといけない。そこが政治の手腕の発揮すべきところであり、それが今政治に求められているものであろう。それを支えるために市民ができることは、協力しなければなるまい。少しでも医療現場が支えられるならば、と強く願うものである。



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