【メッセージ】リアリティ

2022年1月2日

(ルカ2:8-20)

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:20)
 
◆リアリティがあるだろうか

年が明けて正月を迎えたのに、クリスマスの物語なのか、と意外に思われた方、いらっしゃるのではないでしょうか。「もうクリスマスは終わったんだよ、どうかしているよ」と言われる覚悟はしています。
 
「いや、待てよ」とお考えの人もいらっしゃるでしょう。「まだクリスマス期間だったよね」と、ステキな知識をお持ちの方です。1月6日の「公現日」までをクリスマス期間とする考え方があるのですね。いえ、元々この6日のほうこそクリスマスだ、という理解もあるのだとか。時代により意味合いが変遷しますが、いまはおおまかに言うと、三人の博士が幼子イエスを訪問した日だと捉えられています。特にカトリックでは、この6日までがクリスマス期間とされています。
 
「それで正月にクリスマスか、ずいぶん奇を衒ったものだな」という目で見られることも、私は覚悟しています。でも、この公現日のことを気にしてのことではないのです。
 
町を見ましょう。メディアもそうです。一週間前のクリスマスのことを、もう忘れてしまったかのように、切り替えるのが日本人です。いえ、商業施設では、25日の朝、一気にディスプレイが変わります。それまでのきらびやかな光と赤や緑の飾りが、一夜にして、金箔の目立つ和の雰囲気に変えられてしまうのです。
 
教会においても、もう挨拶は新年の挨拶です。「メリー・クリスマス」は先週のための挨拶で、今日はもう誰も「クリスマス」という語すら口にしません。クリスマスは、もう「終わった」という意識になっていたのではありませんか。
 
いつから私たちは、そうなったのでしょう。ずっとでしたか。この世の中が、25日が終わればもうクリスマスを片付けて、正月の準備に切り替えるのと同じように、キリスト教会も、その世の流れにぴったりと寄り添ってしまうのです。中には、25日にさっさとツリーを片付ける教会すらあるわけです。そしてクリスマスで散らかった会堂を大掃除して、正月を迎えようとします。年末の大掃除とは、年神を迎えるための営みであったはずですが、教会もまた、年末にせっせと大掃除です。
 
「キリストがこの世に来た。それを祝った。だから、もうキリストは私たちと共にいるのだ。敢えてクリスマスに留まる必要はない」、そのような考え方もあろうかと思います。では本当に、その考えがいまの私たちにありましたか。私たちにとり、それはリアリティのある信仰でしたか。私は、問い直してみたいと思うのです。少し意地悪ではありますが。
 
だからずっとクリスマスを話すぞ、と言っているのでもありません。一年の初め、年神のための祝いというのではなく、また、冬にキリストが生まれたという、単なる取り決めによる習慣だけに制限されず、いつでも、クリスマスの記事や、キリストが世に来たことの意味を考える聖書箇所を、私たちは開いて、聞き入ってよいのではないか、と私は思っているだけなのです。
 
◆羊飼いとは何か
 
ルカによる福音書だけにある、羊飼いたちの礼拝の記事をお読みしました。ともすれば、クリスマスの朗読や降誕劇で、聞き飽きた印象すらあるような場面です。言葉をそらんじている人も少なくないでしょう。でも、だったらなおさら、聞き慣れた、もう分かりきった、そんな聖書の箇所となってはいないか、問い直す必要があろうかと思います。「またその話か」と、もうメッセージを、聞く方も軽く聞き流し、語る方もおなじみの説教で済ませていないか、よくよく問い直すべきだろうと思うのです。
 
物語を読むには、登場人物と場面をまず確認するのが、国語の授業での確認事項です。そして、登場人物の心情、とくにその心情の変化を読み取るということが、国語の問題を解くことなのだ、と教えるのが常道です。
 
ここではまず、登場人物から確認しましょう。その地方とは、どこなのかは不明ですが、ベツレヘムからそれほど遠くない場所であったことでしょう。羊飼いたちがいました。野宿をして、羊の群れの番をしておりました。何人くらいいたのかは不明です。
 
ベツレヘムが城壁都市だったのか、申し訳ないのですが、私は知りません。エルサレムは明らかにそうでした。城壁の有無は別として、その都市部の中に、羊飼いが住んでいたかどうかというと、たぶん疑わしいと思います。羊飼いたちは、食糧としての、また神殿における貴重な献げ物としての羊たちを提供して生計を立てていたと思われます。しかしその羊飼いたちがは、都市部に住んでいたとは思えません。また、羊飼いというのは差別されていた側の存在であったと思われます。
 
そもそも羊飼いという絵をクリスマスで見るとき、しばしば可愛い姿ではありませんか。そうでしょうか。ダビデが自ら言っていたように、いざというときには羊を荒らす猛獣を相手に闘う気概が求められていたはずです。つまり、手っ取り早くイメージすると、マッチョなわけです。いわゆる教養は必要ないかもしれません。そして、安息日を守るというような生活ができるとは思えず、律法学者などからすれば、まともな人間だと思われていなかったものと考えられます。野蛮な連中だと見られていたのではないでしょうか。
 
神殿の祭儀を支える人々でありながら、神殿祭儀には加われない。社会の不条理を感じます。もちろん、こうしたことはいつの社会においてでもあることでしたし、いまもなおあることに、お気づきでしょうか。
 
この羊飼いたちは、イエスの誕生物語に登場することですっかり有名になりましたが、多くの羊飼いたちの中の、ほんの一握りに違いありません。でもそれを、私たちはこれを象徴として受け止めることができます。羊飼いたちが、救い主の誕生の主人公のように扱われた。ならば、神は不公正な社会の中にある一隅に、光を当てたようにも感じます。光が当たった、その情景は、闇でした。夜の闇の中で、不遇な扱いを受けていた羊飼いたちがいる、その辺りを、主の栄光が照らしました。
 
◆羊飼いたちの見たもの
 
物語を脚色する暇はありません。突然、事件が起こります。野外にいた羊飼いたちが、天使を見ます。彼らは恐れます。すると天使が声をかけます。クリスマス降誕劇でおなじみの台詞です。
 
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 
このとき天使は羊飼いたちに近づいています。よく、空に天使が舞いながら輝いて歌っているようなイラストを見ますが、ルカは天使が近づいていることを告げています。ザカリアのときも、マリアのときも、はっきりと「近づいて」とは書かれていませんが、明らかに天使はそばまで来ています。そしてここでは、この近づいた天使に天の大軍が加わって、神を賛美したとしています。クリスマスの賛美歌でも有名なフレーズです。
 
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
 
こうした天使の言葉と賛美から、多くの優れた説教が語られました。これらの言葉を吟味することはたいへん恵みを受けることだろうと思うのですが、今日私たちは、少し別のところに心を向けたいと考えています。これまで受けた説教を思い起こし、またいま改めてこの箇所を受けて、まずは心満たされていてくだされば、と願います。
 
◆リアリティはあるか
 
羊飼いたちは、腰を抜かさんばかりの驚きだっただろうと推測します。天使たちはそこから離れました。やはり、天使たちは羊飼いたちのそばにいたような描き方です。まるで夢を見ていたのではないか、と思ったのではないでしょうか。彼らのうちの一人が恐らく立ち上がり、声をかけます。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15)という声に同調が始まり、ベツレヘムに向かいます。ダビデの町という名をもつその都市は、それほど遠い距離ではなかったものと思われます。この事件の後、「八日たって割礼の日を迎えた」(21)とあるため、羊飼いたちは、イエス誕生後一週間以内で辿り着いていることが分かるからです。
 
さて、ここで聖誕劇であれば羊飼いたちが突然、マリアとヨセフのいる場所に現れることになりますが、そこまでどうやって行ったのか、気になりませんか。お伽噺ならばともかく、聖書を真実と信じる人が、この場面のリアリティを気にしないというのは奇妙です。さあ、そこへ着くまで、羊飼いたちがいる風景は、どのようなものであったでしょうか。
 
まず、城門があったとして、それを潜ります。夜は開いていないと思われます。日の昇った明るい中を、羊飼いたちがやってきます。野宿をしながら羊の群れの番をしなければならないほどですから、羊を野に放っておくとは考えられません。彼らは羊を連れています。本来都市部で飼えないからこそ野にいる訳です。その羊飼いたちが、飼っている羊たちを引き連れて、町に入ります。町の中をそんな者たちがぞろぞろと歩くのはきっと珍しかったことでしょう。さらに、動物たちが列を成してやってきました。実に異様な光景です。
 
食糧としての、あるいはいけにえとしての羊を、エルサレムのような神殿にもってくる場合はあるかもしれません。ベツレヘムでも、羊肉などの提供はあったのでしょう。しかし、そうした取引のために、ぞろぞろと羊を連れて通りを練り歩くという場面は想像しづらいように思います。経済の仕組みを私は知りませんので、これはただの想像です。たとえば城壁の外で、羊の売買がある、というのならありうるだろうと思いますが、町を闊歩する動物たちと羊飼いという画は、普通はないことだったように思われます。
 
天使や訪問についてありうることかなと考えたとしても、このプロセスには、どれほどのリアリティがあるのか、少し疑問が起こってこないでしょうか。
 
◆さらに遠のくリアリティ
 
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
 
繰り返しますが、聖誕劇ではあっという間にこの場面になります。けれども、私たちが羊飼いになったつもりになると分かりますが、どうやってその場所まで辿り着いたのでしょうか。博士たちのエピソードはマタイによる福音書によるものですが、そこには、星に導かれてやってきたと記されていました。このルカによる福音書においては、「探し当てた」と書かれています。だったらますます、町の中をうろうろさまよった可能性が高いように思われます。天使たちは「ダビデの町」というヒントしかくれませんでした。せいぜい、「飼い葉桶の中」というのが鍵になるくらいです。
 
出会う人に尋ねたのでしょうか。今週産まれた子はいないか、などと。ひょっとすると、産婆をまず探し当て、出産がなかったか問うたということもあるでしょうか。そもそもマリアの出産が、ヨセフと二人だけでなされたとは到底考えられませんから、どうやって産婆を手配したのか、また動物のいる場所であったのか、それともたんに客間でないだけの住人の部屋であったのか、私たちには分からないことだらけです。この場面を本当に映画に描こうとしたら、押えなければならない情景や条件が、溢れるほど見つかります。
 
そのように人に尋ね歩くということは、羊を相手にするばかりの羊飼いたちには、実に慣れないことだっただろうと思います。要領を得ない質問に、町の人々の困惑した様子が想像されます。ただでさえこんな群れが町中をぞろぞろ歩くことは見慣れないし、迷惑にすら思われたかもしれないのに、よく分からない質問をして練り歩くということに、町の人々は戸惑ったに違いありません。
 
やはり、どうにもリアリティが感じられないのです。
 
◆驚きは大切
 
ですから、よくぞ見つけ出した、と感心します。マタイだけでなく、ルカもちゃんとイエスの言葉を載せていました。
 
11:9 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 
羊飼いたちは、まさに求めたのであり、探したのです。城壁の門も叩いたということになるでしょうか。福音を実践するためにここに登場したかのようにすら見えます。羊飼いたちは、なにもかもが天使から告げられた通りであったことを喜んだことでしょう。
 
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
 
人々とは誰でしょうか。その光景というのは飼い葉桶の中のイエスのいる光景に違いないので、その場にいたマリアとヨセフに話したというのでしょうか。だったらわざわざ「人々」と言うでしょうか。「人々」は原文からは訳し出しにくい言葉のようにも見えますから、もしやマリアとヨセフだけに知らせたというだけなのかしら、と思ったら、次に「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」(18)とあり、「皆」つまり「すべての人」という書き方がしてありますから、羊飼いたちのほかに、マリアとヨセフの二人だけではなく、さらに誰かが取り巻いていた様子が想像されます。
 
うさんくさい羊飼いたちと動物たちがやってきて、その家が最初の宿屋のことであったのか、また別の場所に移ることができたのか、そうしたこともすべて説明されてはいませんが、不思議に思ったと言っています。それはものすごくびっくりしたというような意味ではないかと思います。怪しんだというよりも、びっくり仰天というところでしょう。
 
天使の存在を疑うような文化ではありませんから、天使というものが、つまり神のメッセージを伝える存在が現れたということは、よいとしましょう。ただそれが、羊飼いたちに現れたというのは、驚きだと感じられたのではないでしょうか。
 
最近、どういうことに驚きましたか。驚いていますか。当たり前ではないか、と醒めた目で世間を眺めることも重要な場合がありますが、自分の身に起こったこと、見聞きしたことが、すべてそう当たり前のことではないと気づくことは大切です。
 
◆私たちのリアリティ
 
但し、これを聞いていた一人は確実にマリアでした。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19)というように、マリアは出来事を心に納めておきます。このことは、次の12歳で行方不明になった少年イエスの出来事のときにも、そうでした。これは私たちが信仰を考える上で、心に納めておきたいことです。
 
ひとは、不思議にことに出会うと、ついそれを説明したくなるものです。原因不明の出来事は、そのままにしておくと気持ちが悪いのです。それで何かしらの説明をつけて、自分の中の理性で安心できるようにしておきたいのです。人の心を決めつけたり、霊の力だと説明しようとしたりします。尤もらしい嘘に、簡単に人は騙されますが、新興宗教はこの「説明」の語りが実にうまいものです。しかしその「語り」で、まさに「騙る」のです。それはもちろん、教会やクリスチャンも同じです。自分なりに「信じる」ことはよいのですが、それが出来事や聖書の唯一の「説明」だと決めてしまうようになると、問題が起こるのです。
 
マリアのように、「心に納めて、思い巡らして」いることは見習いたいものだと思います。心に納めることで、安易に説明をしてしまいません。しかし、思い巡らしていることは大事で、どうでもよいこととして忘れ去ることはしない、ということです。特に、神から受けた恵みについては、喉元過ぎれば熱さを忘れる式の忘れ方をしたくないものだと思います。それを覚えていることが、証しとなることになるはずだからです。
 
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
天使が告げたこと、それが羊飼いたちには、本当のことだと分かりました。天使を通じて神からもたらされたメッセージが、リアルなものとなったのです。聞いた内容が、リアリティをもって体験されたのです。登場した羊飼いたちは、それでよかったのですが、さて、この物語を受け取った私たちには、いまリアリティがもてているでしょうか。もしいま、町でこのような、ふだん居合わせない人々が列をなして歩いているという情景を見たら、間違いなく異様なものと目に映ることでしょう。不思議というばかりでなく、驚き怪しむことでしょう。ここに現れた人々も、羊飼いたちの話したことを、信じたかどうか、気になります。私は、信じたというのは難しいのではないかと思います。
 
けれども、この羊飼いたちは、信じていました。すべて天使の言うとおりだった、これで信じないというのは筋が通りません。神をあげめました。賛美しました。そうして、自分の持ち場へと帰って行ったのでした。
 
確かに、他人の話した不思議な体験を、安易に神の出来事だと信じてしまうというのは、危険な場合もあるでしょう。でも、それを無下にするのも考えものです。人にはそれぞれに、神のアプローチが違うのですから、それぞれがそれぞれの神との出会い方があって悪いはずがありません。その人が神の恵みの中にあるのであればそれを祝福すれば結構です。しかし、何か悪意をもって近づいてきて信じろと迫るのであれば、それに乗る必要はありません。その人はその人、自分は自分でよいのではないでしょうか。
 
私には、私のリアリティがあればよいのです。この羊飼いたちの姿がリアルに迫ってきたならば、それが私のリアリティです。マリアの思いが迫ってきたならば、それがリアリティです。何もかもが嘘っぽいというようなことは、聖書については、ありえません。少なくとも、聖書を信じるということは、何かしらのリアリティがあるはずです。
 
あなたのクリスマスには、リアリティがありました。最初に問うた問いかけでした。それは、クリスマスに聞いたメッセージが、語られた通りに賛同できた、ということでしか測れないものではありません。私は、恐らく語った側の考えの通りではないようなことを、その聖書箇所から聞いていました。そして自分なりの解釈の中で、恵みを受けていました。それは確かな恵みでした。そういうこともあるのだと思います。自分の中で、非常にリアルな迫りを以て、神の言葉が近づいてきた、その体験は、誰か他の人に文句を言われ否まれるようなものであったとしても、私にとっては、間違いのない事実です。聖書の言葉は、いつでもそんなリアリティを伴って、私に及ぶのです。
 
新たな年の始まりに、どうか今年そのような形で、聖書の言葉があなたにとり現実になるようにと願っています。



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