紅白歌合戦2021

2022年1月2日

2021年の大晦日は、まず「まふまふ」さんにやられた。ネットで見るのとは全然違うと思った。生の人間の叫びが、届いた。
 
いつの間にか涙で画面が滲んでいた。こうした叫びは、自分の中に確かにあった。いや、いまもあると思う。生きづらさ、などという言葉にすると今ではむしろ軽く扱われてしまうようにすらなったようにも見える、残酷なこの事態の中で、どうしてよいか分からないような若者、不安に佇む者を、その歌詞やサウンドが救っているというのは、十分察することができるというものだ。
 
生きろ。したり顔で建前だけを、世界の外側から投げかける大人たちの、空々しい言葉、つまりは死んだ言葉が、どれほど馬鹿げているか、まずそこから入る。だが、彼の言葉で言うならば「命に嫌われている」ことを認めた上で、最後に叫ぶのは、これらを乗り越えた上での「生きろ」であった。この言葉が、どれほどの苦しむ心を助けているか。メディアというものがあってこそであるが、この過程に、私は心震える。
 
私が、罪を知ってこその救いだ、というのとパラレルであると思う。罪を語れず救いだけ教えるキリスト教には、命はない。そして、これほど危険なものはない。自己義認が起こり、命を破壊する。イエスが地上で闘ったのは、この力に対してだった。そしてイエスですら、この闘いに、一旦敗れたのだ。このような「敵」に、いまのキリスト教が変貌している部分があるということに、当の本人だけが、気づかないでいる。
 
しかし、まふまふさんのような叫びは、実は彼一人のものではない。いま多くの若い世代の心を掴む曲の数々は、何かしらそうした自分の中の苦しさともがきのようなものから、なんとか立ち上がろうとしているものが多いような気がする。それでも商業主義の中で機能する道具になっていやしないかという向きもあるだろうが、いまはネット配信などで、自ら商業ベースなしで立ち上がることができるため、本当にそれで助けられる者たちが支持をすることから始まるケースが少なくない。そこは確かだろうと考える。
 
同じ紅白歌合戦での「ケツメイシ」も、名曲「ライフイズビューティフル」をテレビで初めて披露したというのは驚きだったが、人々を助ける歌詞とアナウンスに私は感動した。だがこちらは、「君」と呼びかけていた。そこがオトナだったかもしれない。ただ自分の中にあるもやもやをぶちまけているのではない。ミュージシャンたちは、このコロナ禍により、活動を制限されている。殆ど死活問題でもあった。ケツメイシは、メンバーが共にステージに立つのは2021年初めてであり終わりであると告白していた。この辛さの中で訴える言葉には、力がある。その上で、はっきりと「君」に対している。「生きるって素晴らしい」ということを、いくらかきれい事に聞こえるかもしれないけれども、こうした彼らであるからには、ストレートにぶつける言葉と歌が、届く人はきっと多くいることだろう。
 
それはいくらか、世代的には上かもしれない。Z世代はまた違うかもしれない。とにかく対話すら怖く、自分の中の論理を抱えるためにまた社会とぶつかるということでまた対話ができなくなる、そうした域を少し出られるオトナに、ケツメイシは響いたのではないだろうか。
 
その点、YOASOBIは、若い子の小説を踏まえているから当然かもしれないが、自分の側の悩みや自分でなんとか立ち上がらなければといった、自我からの方向で世界を見ているように感じられる。カラフルというテーマからも選ばれたであろう「群青」もまた、踏み出せば痛みを覚えるけれども、自分にしかできないことを模索し、光を見つけようとしていく。ダンサーたちに囲まれたステージも圧巻だったが、ikuraさんの、たぶんアドリブなのだろう、歌詞を変えて叫んだところに、私の涙腺が切れた。
 
「嗚呼 ありのままの かけがえの無い僕だ」を、最後のところを、彼女は歌わずに、腰をかがめて叫んだ。「僕だ」ではなく、「みんなだ!」と。
 
ダンサーたちのアップの映像があった。その目に涙が見えた。
 
ただ、自分だけがなんとか納得して見出した光じゃない。ここでひとつのものをつくるために集まり、練習を重ね、時間と労力を費やしてきた仲間たちへの呼びかけだった。
 
恐らくこのカラフルは、「おかえりモネ」の主題歌「なないろ」をモチーフにしているのではないか、と私は想像している。すべてはそこから発したのではないか、と。東日本大震災から10年という点を、精一杯リスペクトしたのではないか。気仙沼の人のレポートには熱いものを覚えた。そう長い時間ではなかったが、私たちが忘れてはならないこと、そして思いを馳せ続けていくべきことを伝えるに相応しい一コマであったように思う。そして、ドラマの出演者たちによる吹奏楽部の演奏というサプライズと共に、ドラマのラストシーンの浜辺で演奏する BUMP OF CHICKEN のかっこよさが、多くを語らないが、それぞれの色をつなぐ虹の架け橋をもたらしたと信じたい。
 
番組開始直後に、背景に左の紅、右の白とが端から現われたとき、中央で境界線ができるのではなく、混じり合ってグラデーションになったその瞬間、私は大きく肯いた。コンセプトがいきなり出たな、と。男女別の司会の設定を取り払った今回の企画は、前年の大泉洋さんの、無茶な紅組応援を契機としているのかもしれないが,性別を明確に線引きするべきなのかという昨今の問いかけを踏まえて、そして遺伝子解析などの科学的事実に基づくこともあるのだろうが、境界がグラデーションに過ぎないという点を見事に表現していたと思ったのだ。
 
だからまた、一人ひとりの色があり、色とりどりである互いを思うこと。コロナ禍の中で、生活が乱れない人もいる一方、翻弄され、絶望の中に置かれた人もいるなどの中で、「生きよう」というメッセージ、希望をもとうという思いが、多くのアーチストの選曲の中に溢れていたことは、視聴者のどなたにも伝わっていたはずである。
 
そうなると、確かに松田聖子さんは、そこに立つことは厳しかった。この点に関しては、関係者の姿勢もご本人のあり方も、恐らくベストであったのではないかと思う。私たちは彼女たちにかける言葉をいまはもたないが、何かできるかもしれない、と祈り願いたい。
 
自分から見える景色のことで苦しんでいる人たちが、様々な世界が視野に映り、そこから見た自分のいる世界像を覚えることで、生かされることを願わないではおれない。可能ならば、教会にもそうしたことを求めたいという気持ちもあるが。



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