年賀する教会の問題点

2021年12月29日

「あけましておめでとうございます」
 
教会では、新年礼拝、あるいは元旦礼拝を行うところもあり、そうした場でこの普通の挨拶が、普通に交わされる。
 
クリスマスが終われば新たな年のような感覚が、欧米ではあるのだろうか。アメリカの話だが、カウントダウンを騒ぎのひとつとしてするのはよくあるが、元日というような特別の意識はあまりないように見受けられる。むしろ元日は徹夜の後に疲れ果てて寝ているなどという人もいる。花火を楽しむという話も聞く。集まって家庭料理を楽しむというのもノーマルらしい。
 
ここで問題点がいくつかある。新年がめでたいのは何故か、ということである。日本文化としてのそれを否定するつもりはないが、そこには、先祖供養、あるいは「歳神」という考え方が基本に強くあるのならば、キリスト教会がそれを口にすることに、少しくらいは抵抗を感じてもよいのではないだろうか。
 
直接に「神」を自ら拝することと直結してはいない「天皇制」には強烈に批判を加えるグループの人が、歳神を迎えるゆえにこその挨拶である「あけましておめでとうございます」を多用するという感覚には、やはりちぐはぐなものを覚えてならないのだが、どうだろうか。
 
年末には大掃除をするという習慣も、まさにこの歳神に由来しているはずである。クリスマスのパーティーで散らかったから掃除するのだ、という合理的な説明もないわけではないが、いまひとつ冴えない。その大掃除の先に、「あけましておめでとうございます」があるからだ。
 
欧米では、クリスマスカードを贈ることが多いという。先の英語教室の話題は、クリスマス(シーズニング)カードを、紙で送るか、ウェブ媒体で送るか、という対話だった。新年のカードは特にはないことが多いようだが、クリスマス(ホリデイでも同様)と、ニューイヤーとを連ねることもあるようだ。私も以前はそうしていた。
 
だが、日本の教会では、クリスマスカードを贈り合うことは、いまでは殆ど見なくなった。遠方からのカードはちらほら見るが、同じ教会内ではめったにない。いや、それは同じ教会だから顔を合わせるわけで、という説明もあるが、その同じ教会の方から、年賀状はしっかり届くのだから、その説明は理由としては破綻している。
 
年賀状は送らねばならないという観念がこびりついているのではないだろうか。
 
そうなると、もうひとつの問題点は、喪中欠礼ということだ。いったい「喪中」とは何か、これも諸説あるのか、私の中ではよく分からないのだが、それを仏教と言おうと神道と言おうと、聖書にはこの考え方がどうやら記録されている。
 
かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を切る者のところへ上って行った。(創世記38:12)
 
喪が明けると、ヨセフはファラオの宮廷に願い出た。「ぜひともよろしくファラオにお取り次ぎください。」(創世記50:4)
 
イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。(申命記34:8)
 
訳し方の問題かもしれないが、ダビデから預言者まで、旧約聖書は「喪に服す」考えが目白押しである。
 
大切な家族を喪った人は、年賀状をお断りする通知を冬までに送る慣例がある。そして、教会では、その年に信徒が、また信徒の家族が亡くなったことは、たいてい週報で知らせてあるが、この歳神を迎えて祝う正月になると、それをすっかり忘れて、「あけましておめでとうございます」のオンパレードである。
 
さすがにその人は「おめでとうございます」と返すの憚ることがあるだろう。しかし、にこやかに教会員たちは、「あけましておめでとうございます」と次々にやってくる場合がある。もちろん、悪気はない。
 
だが、牢に捕らわれている人や、虐待されている人たちのことを思いやることをモットーとしているキリスト教会が、身近な人の心情には無頓着であるのはどうしてなのだろうか。
 
もちろん、不幸により年賀を避けるという考えそのものが、汚れを歳神にもっていくことを回避するためである、というような気に仕方に基づくのだとすれば、この一見喪に服しているような態度もまた、歳神の空気の中にあるという味方も可能である。どこまでも、この日本で何かを行為するというときには、何らかの日本的な霊に関わるということを、避けることはできないのかもしれない。
 
教会にしても、そうしたものから完全に聖とされることは難しいのは間違いない。そして中には様々な事情のある人もいる。エリシャにシリア軍の司令官ナアマンが癒された話はよく知られているが、このときナアマンが、エリシャの神に出会ったものの、祖国に帰れば偶像を礼拝する式典に参加しなければならないと悩む場面がある。だがエリシャはただ「安心して生きなさい」とだけ告げる。エリシャがこの件についてどのような評価をしたのかは定かではないが、概ね寛恕したのではないかと考えられる。
 
それでも、教会が「あけましておめでとうございます」を盛んに言い、年末大掃除に励むとき、ある人々から見れば、教会は恰も歳神を拝しているかのように見えることは否めない。キリスト教会が、世間が「クリスマス」と称して馬鹿騒ぎをし、キリストのキの字も出てこないクリスマスの紹介を繰り返すのを、無知だと思って見るか、知らずして神を祝っていると見るか、あるいは本当の意味を知らせたいと思いつつ見るか知らないが、それと同じような感覚を以て、歳神をきちんと考えている人は、眺めているのではないだろうか。少なくともそれと同じ構図であることに、気づくべきではないだろうか。
 
では「クリスマスおめでとう」ないし「メリークリスマス」はどうなのか。これも、悲しい気持ちの中にある人には強いることはできまい。だが、少なくともこちらはキリスト自身の話である。歳神のような背景ではないから、救いを喜ぶということは、あってよいと考える信徒は少なくないだろう。
 
この場合、あくまでも問題は、「年賀」のほうである。
 
これは、私自身もそうだったという反省の中で綴っている。私が例外的に正しいなどと言っているつもりはない。また、欧米の習慣がよいのだなどと言っているつもりもない。欧米にでも、異教文化は様々にある。そもそもクリスマスですら、怪しいし、イースターなどは、異教の神の名を使っているのだから、考えてみればとんでもない話である。
 
これらについて、奇妙なこだわりだと相手にしない指導者もいるだろうとは思う。しかし、むしろ信仰生活を新たに始めた人こそ、こうしたことに気づき、疑問視するようなことも多いだろう。そしてその人たちを、構わないのだよ、となあなあにさせていくことにより、ますます、奇妙な信仰生活を当然視する仲間を増殖させていくのだとすれば、信仰などただの表面的なファッションでしかない時代になるだろう。



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