【メッセージ】あなたの歴史を

2021年12月19日

(ヨハネ1:1-18)

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ1:16)
 
母が亡くなった後、ノートが回されてきました。いつからか、ノートに自分史を書いていたというのです。私が産まれる前のことは、私は知ることがありませんし、まとまった話を聞かせてもらった覚えもありません。子どもの頃にどんなことをして、どんなことを感じてきたかが書かれてあると、愛おしい気持ちになりました。私の祖父、つまり自分の父親のことをどんなに愛していたか、ノートを見て私は初めて知りました。
 
皆さんは、自分の幼い頃のこと、覚えていますか。1歳のときの情景を覚えている人がいる、と先日テレビで知りました。中には、後で聞かされた話を自分の記憶だと思い込んでいるケースもあるそうですから、実のところそうした話がどこまで本当なのか、知るよしもありません。まして、母親の胎内での記憶などということが一時話題に上ったこともありますが、さてさて、どうなのでしょうか。
 
「黒歴史」などという言葉があります。自分にとり消し去りたい思い出ですが、そういうことに限って忘れ去ることもできず、自分の歴史の中で汚点として刻まれている事件のことです。その記憶はいまの自分を破壊するかもしれないことから、無意識であれ自ら記憶に鍵をかけているという人もあると思います。
 
こんな話を始めましたために、お聞きの方も中に、その「黒歴史」をいま思い起こしてしまった人がいるかもしれません。恥ずかしい体験ばかりではありません。まことに悪いことを申しました。災害に遭ったことや、大切な人を亡くした時のこと、また、犯罪の被害者であるとなると、もはやトラウマなどという次元を超えて、人生を塗り替えられてしまう残酷さもそこにあるわけです。
 
他方、思い出は時に、美しく飾ることもあります。あんなに人を傷つけ、傷つけられ、悩み苦しみもだえた恋の思い出が、甘美な思い出になるという経験も、おありでしょうか。
 
 愛する人よ 二人して分かち合う
 このひとときが 美しい思い出に
 よみがえる日まで そばにいて
 
オフコースの鈴木康博の歌「美しい思い出に」は、恋の真っ只中にいるそのときに、それがずっと続くようにと願うものですが、いつか美しい思い出になるかもしれないという一抹の不安をも含んでいて、切なく聞いたものでした。
 
それが将来、恋破れ、別れたとしても、後に思い返せば、美しい思い出にもなりうる。思い出というものは、その人の主観的なものとなることができます。その過去を知る他人に知られたら、「そんなもんじゃなかったよ」と言われることもありますが、当人にとってはそれは真実でありました。誰も否定することはできません。かといって、嘘を重ねてそれを他人に語ると、辻褄が合わないということはよくあるので、故意であれ無意識であれ、思い出を語るときには用心したほうがよさそうです。
 
思い出。それは個人的なものならば被害はその程度なのですが、これが公的になると、大きな影響をもち、多くの人の運命や命を左右することにもなりかねません。そう、思い出は、社会的な場面では、歴史となります。歴史は、時にわざと書き換えられます。書いた者によって、どうにでも換えられます。
 
手塚治虫の『火の鳥』のヤマト編には印象的なシーンがありました。クマソの王である川上タケルが正しい日本史を書こうと努めているのです。それは、ヤマトの王が、自分が神の子孫で尊いなどという、デタラメな歴史を発表しようとしているためでした。手塚治虫独特のアイロニーの入った設定だと思いますが、そもそも権力者というものは、その都度自らの正当性を示すための歴史を残そうとするものなのかもしれません。自分は如何に正統な者であるのか。
 
こうなると、聖書の「系図」なるものもそうなのか、と思われるかもしれません。「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」(テモテ一1:4)とか、「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい」(テトス3:9)とかいう文が、パウロ以降の遅い時代に書かれているところを見ると、現実に系図についての疑惑が巻き起こり、教会がそれに苦慮していたであろうことが推測されます。しかしそうした事柄については、研究者のお仕事に委ねることに致しましょう。
 
聖書のように古い時代のことは、証拠や根拠を挙げることがなかなか難しくなると思われますが、では新しい時代でしたらどうでしょうか。太平洋戦争は百年前にもならないものですが、かなり証拠や証言が見いだされていますから、そう簡単にごまかせないように思われるかもしれません。それでも、政治や軍部の内部での出来事については、いろいろな説や解釈があろうかと思います。いわゆる天皇の玉音放送というものについても、ドラマチックに描かれたものがありますが、内実はさあ、どうだったのでしょうか。ラジオから流れた8月15日のものとされる写真も、違うものだと近年暴かれています。
 
その15日が、いつの間にか、戦争が終わった日だと勘違いされ、日本人の殆どがそう思い込んでいるということの中に、ひとは簡単に勝手に信じ込んでいくようになるという怖さを感じます。詳しくはいまここで論じるつもりはありませんが、戦後しばらくは15日という意識は殆どありませんでした。もちろん戦争の終結は法的には、降伏文書に調印した9月2日です。これが世界の一般認識です。降伏した日としては、ポツダム宣言を受諾した8月14日が妥当であり、降伏そのものを問題にするなら15日ではなく14日しかないでしょう。韓国で15日を「光復節」というのは日本からの解放の日としているためであって、日本の終戦とは趣が違うと言えるでしょう。高校の教科書では、15日と終戦とは結びつけられていないあたり、さすが高等学校というだけあると思います。引揚者のための法律のために1957年に8月15日を終戦日と呼び、後に1982年に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としての追悼式を閣議決定したことから、誰もが15日だと思わされてきたのだと考えられます。天皇制を批判しているつもりのグループや運動ですら、「15日に終わった」と繰り返すのを見ると、自分たちは反対しているつもりでありながら、まんまと掌の上で躍らされているだけなのだと気の毒になります。
 
最近起きた出来事ですら、一般には内実が分からなくなっています。コロナ禍における政府と日本医師会とのやりとりを、最近横倉義武氏の『新型コロナと向き合う』で垣間見ましたが、政府はかなり困惑しつつも適切な対応をしてきたことが分かります。聞こえのよいマスコミからの悪口にまんまと乗じている庶民が、主権をもっているということの危険性をも覚えました。
 
二千年前の事件を証言する聖書に書かれた歴史を、私たちはどう受け止めればよいのでしょうか。一時、歴史の中のイエスを知りたいと学者が躍起になった時期もありました。それは知られうるのかという方法論的な議論もなされました。考古学をそのために究めた人々もいました。しかしどれもが、推測でしかないことは、時間的な条件からも仕方のないことだと思われます。
 
呆れるほどに長く「歴史」についてお話ししてきたわけは、聖書の信仰が私たちの現実の歴史に基づいているという、キリスト教の特異な点をはっきりさせたかったからです。
 
これは宗教の中でも際だった特徴だと言えます。ゴータマ・シッダールタは実在したはずですが、何とか仏はそのようには考えられません。何時代のどこで何をしたという議論は起こりません。歴史の教科書に載ることはありません。但し、戦前戦中の頃は、天孫降臨は歴史的事実であると教育現場で教えられていました。「国体」観念を国民に植え付けさせるためでした。さすがに今は誰もそんなことを教えはしませんが、さて、今の時代にはそういう危ういものがないかどうか、先の「終戦」の件を思うと、楽観はできないと私は考えています。
 
しかし聖書は、歴史的事実として、教科書にも普通に掲載されています。イスラエルの歴史も、イエスの存在も、信仰に基づくことのほかは、聖書と同じことが教科書で教えるべき事柄として認められています。「書かれたもの」という意味の言葉で表されている聖書ですが、私は文献としては、特に新約聖書は揺らぐ部分があることは認めざるをえないと考えます。そこにあるテクストとして神の言葉であるかどうか、それは写本が様々に違う以上、頑なにすべてそうだと言うべきかどうかには躊躇いを覚えます。しかし、言葉は書かれたそれがその働きのすべてではなく、それを受けた人がそれを信の内に捉え、その人を生かすことがあることについては、一歩も退きません。この私がそうだからです。聖書の言葉が私の中で生き働いて、死んだも同然だった私の魂を生かし、命を与えてくれたのです。このことを、私は私が生きている限り証言します。そしてその証言がある限り、聖書は確かに命を与える言葉であることが、否定されることはないのです。
 
さて、少し戻りますが、聖書は歴史でありました。
 
クリスマスそのものの由来についてもいろいろお話ししたい気がしますが、すべて省略します。このクリスマスの時季に教会で開かれる聖書の箇所というと、マタイやルカの福音書の初めのほうにある、いわゆる「クリスマス物語」が筆頭でしょう。けれども、それ以外にも、クリスマスがキリストがこの世に来たということを記念するためによく取り上げられる箇所があります。キリストは旧約聖書の時代にはメシアという語で表されていましたが、そのメシアが現れることを、何百年も前に記していた代表が、旧約聖書のイザヤ書です。また、新約聖書の福音書の中でも、歴史的な書き方をしていないように見えるヨハネによる福音書の冒頭もよく開かれます。私たちも今日はそこを読みました。
 
哲学的だとも言われますが、これは哲学ではありません。象徴的にキリストの誕生を指していると捉えられたからでしょうか。このヨハネによる福音書は、他のキリストの記述についても、まるでお伽噺のように書いていると感じられますが、よくよく調べてみると、実は相当綿密に考えられて、イエスの最後の一日の辺りを描いており、他の福音書よりも正確な部分があると今はよく言われています。
 
ヨハネによる福音書の冒頭部分を読みます。どこか神秘的な、味わい深い表現が続きます。通常、一つひとつ区切ってその意味を捉えながら読み進むのですが、今日は違う仕方でこの箇所にアプローチしてみましょう。
 
1 神はあった
2 神は来た
3 神は宿られた
 
この三つの動詞に注目します。まずは「あった」です。
 
1 神はあった
 
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 
ここに目立つ表現が、「あった」です。
 
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった
 
英語のbe動詞、覚えておいでですか。私は中一でこれを初めて聞いたとき、何のことか全く分かりませんでした。それでいま小中学生に教えるときには、自分の経験に基づいて、ここを明確にしておこうと努めています。be動詞はただ一つで、他の動詞はすべて一般動詞。be動詞は、日本語で言えば「ある」です。しかし日本語には「である」と「がある」と二通りの使い分けがあります。英語でもこれと同じです。そしてbe動詞は、このどちらにも使われます。
 
ギリシア語の、英語でいうbe動詞は、前者の使い方のときには、しばしば省略されます。この使い方のときにそれを置くと、えらく強調しているように見えるのだそうです。つまり「がある」のような主張を前面に出してくる勢いがあるのだといいます。その勢いが、上の三つの節には感じられます。ここには、そのbe動詞に当たる動詞が居並んでいます。
 
神は「ある」のだ。これが押し寄せてくるように感じます。そもそも聖書は、神の存在証明などはしておりません。ユダヤ文化では、神は存在するか、などといった議論は最初からどこにもありません。まずそれが大前提であって、そこからすべてが始まるからです。ここではそれらは「未完了過去」で用いられています。これは、今と縁の切れた存在ではなくて、今につながっている感覚を伴います。ですから私たちも、これを今ここにあるものとして受け止めましょう。
 
言なるものがある。言とは、神と共にあるものである。言とは神なのである。
言は世の初めから神と共にあるのであり、
言の内には命があるのだ。命とは、人を照らす光なのである。
 
どうでしょうか。聖書の言葉が、ぐんと近づいてくるような気がしませんか。
 
2 神は来た
 
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 
最初の「彼」というのは、洗礼者ヨハネのことです。このヨハネも「来た」という語で登場していますが、いまはこのヨハネについては拘泥しません。ここで「光」というのは、先に「命は人間を照らす光であった」(4)というところを思い出しましょう。
 
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
 
ここの「来て」は分詞の形をとっていますが、現在の形です。まさにいま、光は私たちを照らしているように受け止めてみたいと思います。
 
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 
キリスト教会では、一致して、この「言」なるものがキリストを表すと理解しています。ここでの「来た」はアオリストです。いまと直接つながりを感じさせない、ただの過去と見られます。過去においてもう完結してしまった出来事を伝えます。キリストはイスラエルの民のところに、かつて来たのです。民は受け容れず、キリストを十字架につけました。そのことは、歴史の中の事実だとして過去の事件であることを伝えています。さあ、いま私たちは、これをただの過去だとして見ているでしょうか。まさか、いまの私たちもまた、キリストを受け容れずに追い返すようなことをしていないことを願います。
 
「来た」ということは、それまでいなかったということを意味します。そして、自分のあずかり知らぬ、外の世界から来たという印象を与えます。キリストは外から来ます。私もまた、この光にはっきりと照らされました。それと共に、自分の中に巣くっていることに気づいた暗い闇が、この光に射し貫かれる経験をしました。自分の中に世界の根拠をすら見いだそうとしていた私は、そうではなく、神からの光にそれを求めるべきであることを知りました。全身を殴られたような形で、それを思い知らされました。
 
3 神は宿られた
 
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 
そうしてイエスという人間の形をとって、私たちの世界に神は宿ったのでした。この「宿る」という語は、テントの中に住まうというような意味合いをもつと言われています。イスラエルの民は、大昔、エジプトで奴隷生活を強いられていました。しかしモーセが神に用いられて、そのエジプトを脱出します。但し、いろいろあって、神が約束したイスラエルの土地にたどり着くまでには40年かかりました。そのとき、旅の途中で時折野営の如くにテントを張って生活をしていたと考えられています。神の独り子として、キリストは、人間の世界をさまよい、テントを張って暮らしていたというようなイメージを誘います。
 
この「宿った」というのは、アオリスト形が使われています。過去の歴然たる事実です。今の私たちの世界にテントを張って移動生活をしているような捉え方をするようには仕向けられていません。
 
こうして私たちが注目した言葉「ある」「来た」「宿った」から受ける印象は、確かな歴史の中に、キリストが刻まれたということでした。また、そのキリストは、かつてあっただけではなく、いまも「ある」ということを感じさせます。
 
ここに「恵み」「真理」という言葉が現れており、最後には次のようにまとめられていきます。
 
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 
この「恵み」と「真理」について語るならば、まだまだ時間がいくらあっても足りません。そのため少し端折ることをお許し下さい。「恵み」はカリスという語ですが、元々ギリシア神話では美の女神たちを意味しました。聖書に使われるときには私たちはそれを「恩寵」と呼ぶことがあります。それは優しさであり、思いやりでもあります。これは、外からくるものだと理解してみます。人間の側がそれを受け止めようと拒もうと、神は必ず恵みを注いでいるということです。因みに、賜物という意味での「カリスマ」もこの語と関わっていますが、どうも世に流行している「カリスマ」という語は、違ったイメージで受け取られているようです。
 
「真理」はアレーテイアで表されています。ギリシア哲学ではもちろん「真理」でよいし、そのために有名な語ですが、これはヘブライ語からすると、他に「まこと」や「信」という考え方と結びつくものと見られているそうです。「アーメン」の語とも関係しているとなると、私たちの言葉ではどうにも定めがたいものがありますが、さらにギリシア語の語感からすると、ハイデガーが強調したように、「隠れていたものが露わになること」を感じさせることも可能かもしれません。たとえ私の目には隠れていようとも、それは否応なく明らかになることでしょう。私にとり明らかになるのが、「信」の関係が私と神との間で結ばれたときなのでしょう。
 
私の感想ばかりお伝えして申し訳ありませんでした。けれども私は、この聖書の宣言を受け取った人がどのように受け取ったか、そこに強い関心があるのです。それを尊重したいし、それを祝したい。偉い先生がまとめた理論や解釈ではなく、あなたが今日の聖書の箇所に触れてどう感じたか、それをよしとしたいのです。さらに言えば、あなたの人生に、神がどのように関わってきたのか、あなたが神と出会って何を教えられ、どのように生きることを始めたか、そこに大切な点があるのだと確信しています。
 
クリスマスと私たちは呼びます。英語の意味は、キリストの礼拝ということです。ドイツ語としては「聖夜」のような言い方、フランス語なら「誕生」というような聞こえ方をするのでしょうか。どこの国でもそうかもしれませんが、特に「クリスマス」はいまや商業主義とお祭りの語になってしまい、手垢がついたどころか、汚れに染まったようにも見えます。確かに「イースター」も、元来異教の祭りですが、キリスト教会でも普通に用いられています。私たちは、「クリスマス」という言葉を使わないでいく可能性も考えてよいのではないかと思います。聖書的根拠を第一とするプロテスタントが、聖書的根拠のないこの「クリスマス」を盛んに祝うのはどうか、というツッコミもありうるかと思います。実際、エホバの証人がこれを祝わないことはよく知られています。聖書にないから、と。
 
仮に、「クリスマス」という呼び名を教会が取らなくなったとしましょう。それでも、私たちは、キリストが世に来たということについては、首を横に振ることはないでしょう。キリストは歴史となったのです。このことに思いを馳せることは、どこかで必要だと思います。マタイやルカの物語でもよいし、このヨハネの福音書ももちろんよい。イエスと洗礼者ヨハネの関係を考えるのもよいでしょう。旧約聖書の預言者の書を、結果として新約聖書となる文書を書き残そうと努めた初期の教会のように、キリストのことだと読み取ってもよいでしょう。ただ、今日私たちはここで、神が「来た」ことと「宿った」こととを、歴史の中の出来事として受けてみました。これらは、そもそもキリストが「ある」ということに基づいていたのですし、逆に言えば、これらの歴史によって、キリストがいまもここに「ある」と、堂々と言いたいと思うのです。
 
私にとり、確かに神がいました。います。キリストはここへ来ました。私の胸の内に来て、宿りました。それが私の歴史です。私ばかりでなく、私の見る限り、多くのキリスト者において同じようなことが起こっています。一人ひとりが、神と共にある歴史をつくります。この出来事は、教科書には載らないことでしょうが、確かな事実として、あなたの心に生まれ、刻まれた歴史なのです。
 
あなたはいまここに生きています。そうである以上、あなたとイエスとの関わりがあるならば、神の働きの歴史が確かにそこにひとつ刻まれています。あなたの人生は、あなたの歴史であり、神の物語となります。人の目から見てどんなに惨めでも、イエスほどの惨めさはないと考えたい。あなたの人生には、神の栄光がきっとあります。不幸で悲しい状態であっても、キリストの恵みがあると思いたい。キリストがあなたと共にいる。あなたを愛していることを私は信じたい。永遠の命が来ているということを伝えたい。光があり、命があるのだ、と。
 
歴史の中に事実いたイエスが、歴史の中にいるあなたの中にも必ずいてくださいます。ここからまた、あなたはあなたの道を歩み、それが歴史となるのです。同時にそれは、神の歴史の一部にもなるのだと私は信じます。
 
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。
 
洗礼者ヨハネは、証しをしました。これは、法廷用語です。命がけで証言するのです。私たちは、証しをしているでしょうか。いえ、証しができるはずです。神が来たこと、宿ったことから、歴史の中に常に永遠にいます神に気づいたならば、もうあなたは神の物語の一部なのです。今日、希望が与えられますように。うつむいてばかりいないで、時には上を向いて、自分の居場所を覚り、魂が一番相応しい場所で相応しい待遇を受けることができますように。
 
あなたの歴史を、今年の「誕生」の日に、確かなものとして誕生させてください。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(16)のですから。



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