知らない言葉

2021年11月21日

小中学生から若さを吸い取るようにして生きている者である。知らないことを教えるのが仕事なので、知識の面で知らないことを悪く言うつもりはない。だが、ただ知らないというだけではなく、関心がないようなふうであってよいのか、と疑問に思う方面のことは、少し挙げてみようかと思う。それは、かつての子どもたちは生活の中で知っていたと思われるからである。生活の、あるいは人生の、何が変わろうとしているのか。
 
まず、生物の名前である。やたら詳しい子がいるのは今も昔も同じだが、チョウ、トンボといった程度の基礎はなんとかなるが、植物になると、お手上げだ。すでに例示したことがあるが、レンゲソウは、子どもたちにとっては全く想像もつかない空想のキャラクター名のようなものとなっている。ツユクサやオオバコ、ナズナなども殆ど生活領域から絶滅している言葉である。先日は関東出身の若い声優が、「『なすび』って『なす』のことなんですか?」と完全に知らなかった様子だった。確かに西日本の方が「なすび」は強いようだが、これは方言ではないので、とても不思議な気がした。
 
次に、祝日や記念日を知らないこと。祝日は特別なお休みになるということで、その謂れについて知っておくというのが当たり前だった記憶があるが、今時の小中学生は、そこに関心がない。祝日は、文化への体験の入口となりうる。記念日は、歴史を生きたものにする一歩となりうる。しかし、明後日は何の日であるのか、言える子は稀である。たとえ知識で言えたとしても、その意義を知る子はさらに少なくなるだろう。そうなると、ハロウィンやクリスマスとは何の日であるのか、大人も知らないではないか、と言われそうだ。クリスマスについては、いわば迷惑な誤解でもあるし、キリスト教世界からすれば深刻な問題の一つでもあるのだが。
 
それから、これは具体的に話すが、電圧のボルトについては、中学生が習うまで頭の中は白紙状態に等しい。家庭のコンセント(outlet)が何ボルトであるか尋ねても、答えが返ってきたためしがない。スマホでもテレビでもドライヤーでも、電気製品は使いこなすのに、そのエネルギー源のほうには、まるで関心がないのである。電球を何ワットといった呼び方をすることについても、関心がない。いまやLEDだからまた違う環境にあるのかもしれないし、日常的にブレイカーが落ちるとかヒューズが飛ぶとかいうことがよく起こっていた時代とはまた違うのかもしれない。ラジオを組み立てようとしたり、オーディオの音をよくする仕組みを考えようとしたりすることも、いまの中学生は忙しすぎてないのだ。いやいや、そもそもそんなことをする必要がまるでないのだ、というのが本当か。
 
生活環境が変わる。草花が身近にない。それを教える人もいないし、知る必要もない。レンゲの蜜を吸ったり、シロツメクサで冠を編んだりする遊びもしないだろうし、オオバコで角力をとる暇もないだろう。これは都会の中の話でなく、広場や田んぼに触れうる地域でも同じである。確かに、もはや霜柱や氷柱を知る機会は皆無に近いのだろうけれども。
 
部活で忙しくて祝日はむしろふだんより忙しいような中学生、かくいう塾も日曜祝日は稼ぎ時などとしているからには、休日は全く休日でもなくなっている常識がある。祝日の意味に関心が向く暇もないのだろう。
 
生活の道具を使いこなすのが目的となり、それは何故かなど考えるチャンスも全くない忙しさの中で振り回されている子どもたちには、生活経験をのんびりと自分のものにしていくのではなく、手っ取り早く知識として必要に応じて学ぶのがすべてということにもなっていく。
 
くり返すが、良し悪しを言っているのではない。生活が変わったのだ。電圧の話につながるが、子どもたちの生活には、もはや「縁側」すら訳の分からない言葉であるし、「鴨居」も自分とは全く関係のない存在である。「軒先」も子どもたちには通じないと考えた方がいい。身体の部分については、自身のことでありながら、それを名前で呼ぶという生活習慣が薄れている。「こめかみ」という名を呼ぶ機会もないし、「うなじ」はもうマニアックな呼び名でしかなく、「みけん」も口に出す必要のない言葉となっていく。
 
こうして挙げていくと、今までのものはすべて、「言葉」の問題であるようにも思えてくる。新語や流行語には敏感だが、旧来の語彙についてのは少なさと、それへの関心のなさについては、年を追ってもう諦めムードになっていく。諺や慣用句は、塾だから暗記しろ、と覚えさせるが、本来それはそんなふうにして覚えるものではないはずた。生活の中で大人がそれとなく使い、子どもに伝えていっていたはずであり、たとえ学校でまとまって学ぶ時があっても、大抵は聞いたことがある、というスタイルが標準であるべきだった。いやはや、もう言葉が生活の中で、人生の中で、生き働いていない。
 
聖書でイエス・キリストは言としての神の現れでもあったと考えられるが、以前ならばそのことで事の大切さが伝わっていたのが、いまや言葉で伝わるということ時代が怪しいものになっている。説教の意義が薄れているといった問題は、また改めて考えなければならないだろうが、説教が、たとえ適切に語られても、聞く側には伝わっていないことが多々あるということは、もはや単なる想定ではないであろう。さらに、説教を語るほうの言葉もまた、おかしくなっていくのを近年感じる。説教要旨が文章になっていない。なんとなく喋っていたら、分かってもらおうとあれこれ話すからなんとか意味は伝わっている場合が多いが、書けば文章になっていないということは、けっこうあるように思う。
 
子どもたちがそれを体験しないし、だからまた関心がない。そのために、言葉を使ってそれが言えないし、語彙そのものを知らない。こうした危険を最初に指摘した。これを言葉とコミュニケーションの問題とするならば、言葉の宗教であるキリスト教は、実は壊滅的な方向に確実に進んでいるというふうにも考えられないか。キリスト教世界にも、実際SDGsが必要なのではないか、という気がする。かなり深刻に。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります