共生に近づくために

2021年11月9日

すでに終了しているテストなので、触れても差し支えないと理解する。それは、先週の「全国統一小学生テスト」である。
 
四谷大塚が主催して、全国の多くの学習塾が参加している、小学生対象の全国規模のテスト会で、特に11月3日のものはよく知られている。受験料は無料であり、2007年から始まったこのテストのデータは、小学生の学習の力を判断するひとつのデータとして活用されている。
 
その五年生の社会科の問題の中に、「手話」があった。日本の都道府県の特色や産物の問題に絡めたもので、選択肢は、四人の子どもが手話で、いずれかの都道府県を表すイラストが並んでいる。例題には、サクランボを表すイラストが掲げられ、これは山形県のことだ、と説明されている。それで福岡県はどれか、と四つの中から選ばせるものであった。
 
福岡を表す手話は、博多織であり、それを着物の帯の形を示すことで表現する。選択肢には「博多織」の語が付けられているため、なんと福岡にいる子どもたちには、問題にもならない問題ではあった。が、大仏の形や、琵琶を弾く形と並べられると、これはなかなか興味深いテストであることを感じた。
 
手話を言語だとする考え方は、ようやく拡がり始めてきた。全国各地にそうした条例ができてきている。全日本ろうあ連盟のウェブサイトによると、2021年10月1日現在、420の地方自治体にそれがあるという。福岡県は11自治体にそれがあり、平均的な数となっているが、筑豊地方に多く、福岡市とその周辺はこの時点では貢献しているとは言えない。
 
近頃たいへん興味深い研究の本を手に入れた。『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』(田中さをり)というもので、非常に挑戦的な姿勢で頼もしい。その中心にあるのは「時間概念」であり、それを二つの観点から検討するのであるが、その第一は、「手話」を哲学的に検討する人が全くいないではないか、という提言である。
 
私が幾度かこの場で触れたことではあるが、音声言語では時間を追って、いわば音楽的に表現しなければ伝えきれないことを、手話は、いわば絵画的に、同時に伝えることができる。神を礼拝するというのは、片手で主人、もう片手でひれ伏す人を同時に示すことで伝えられる。しかし音声言語では、「神を」「礼拝する」と、順を追って二つの情報を示すことで、それらを結びつけることによって、ようやく事態を把握することになる。
 
かつては聴者が、音声言語をただ優位に掲げ、手話を蔑視していた。本書では、そのために外国の文献を、意図的だか稚拙な翻訳によってだかは断定しないが、非常に悪意あるように誤解させる紹介をして、手話を抑え込んだ過程を明確にしている。
 
しかし、上に記したのみならず、様々な面で、手話というもののもつ言語性は、聴者の用いる言語とは異なる特色や概念をもっている。それを疎外しているのは、聴者だけに通用するような社会をつくっている側の責任ではないだろうか。
 
ドラマ「恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール」のことを先日ご紹介した。こちらは視覚障害者の問題であるが、かつてとは異なる形で、実にリアルに目の見えない・見えにくい人の立場や考え方を、晴眼者たちに教えてくれている。障害があることに甘えていないか、という突きつけさえドラマの中で現れるけれども、そうしたことが真摯に、共にこの社会にいるというその場に、人を導いてくれるような気がする。
 
余談だが、キリスト教の世界では、以前よく使われていた用語「ノンクリ(スチャン)」というのがあった。たとえその気がなかったにしても、どうも見下しているような心理がそこに隠れて至り、あるいはそれを生み出したりするように感じて、私は抵抗があった。同様に感じる人は他にもいるようで、このところは使われなくなってきているように見えるが、どうだろうか。
 
ともかく、上記のドラマはお薦めである。コミカルなストーリーが中心であるが、多くの晴眼者の意識を変えてくれるのではないかと期待している。私にはその意識の先に、ようやく「共生」という言葉がぼんやりと見えてくるような気がしてならない。聴覚障害者・難聴者も、社会のこのような点で困っているというようなことが、社会の共通理解になっていくことを願う。せっかく、子どもたちの世界では理解が進んでいるのだから。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります