【メッセージ】不知の自覚

2021年11月7日

(詩編119:129-136)

御言葉が開かれると光が射し出で
無知な者にも理解を与えます。(詩編119:130)
 
一時的ではあると思いますが、感じの悪い言葉が流行っています。「論破」という言葉です。辞書的には「議論によって他人の説を破ること」とありますが、たとえばネットで、反対意見に向けて自分の考えを尤もらしく述べたところで、「はい、論破」とくると、これは、もうこれで自分の勝ちだね、決定、という意思表示となることのようです。
 
さもしいというか、浅はかというか、これは「論破」などではなく、ただのいじめであり、「相手の反論を封じて勝手に話を終わらせる」ことにほかならないわけです。テレビ番組でもやっていたのだとか。つまりいじめを見せつけて視聴率を取ろうという、もう過ぎ去ったはずの番組が、新たな形でくり返されているということになりましょう。
 
この言葉を使わなくても、SNSでしばしば見かけます。明らかに上から目線の言葉で、こいつは何にも知らんくせに、という態度で小馬鹿にした書き方をしているのです。もちろんこれは、明らかに攻撃的な人がそうだと言っているのではなく、キリスト教の指導者の立場にいる人もまた、時折こうした牙を隠すことができずに見せているということを私は指摘しています。私も実際その被害に遭いました。法に触れる恐れがありますと丁寧に書き込みをしましたら、上からねじ伏せるような圧力で子ども扱いするように一方的にねじ伏せ、その瞬間ブロックをかけてきました。一方で若者のために福音を熱心に告げているつもりのようですが、人間の表と裏は紙一重であり、内実どんな魂で「福音」を語っているのだろうと不思議に思いました。私たちは簡単に、人の建前に騙されてしまうものです。
 
昔のことですが、退職後一年間だけ神学部の授業に出た人が、なんと教会の伝道師に迎え入れられたことがあります。時の牧師も問題含みの人だったのですが、この二人はよく意見が合わず喧嘩をしていたと人々は呆れていました。おまけにこの伝道師は、総会で信徒の考えと意見が合わなかったとき、自分は神学部で学んだから自分の言うことのほうが正しい、と言い張りました。私はわが耳を疑いました。こんなことを言う人がいるのか、と。
 
自分は物事が分かっているが、あんたは分からない。こういう発想が考えの足りない惨めなものであることは、少しでも哲学を学んだ者からすれば、情けないの一言に尽きます。2400年以上昔に哲学という語の基をつくったソクラテスの忠告すら、聞こえないでいるからです。
 
高校の倫理の授業に出てきます。ソクラテスの、いわゆる「無知の知」です。以前はこの言葉で学んだことでしょうが、いまでは「不知の自覚」と呼ぶことが多くなりました。
 
……わたしよりも誰か知恵のある者がいるか、どうかということを、たずねたのです。そると、そこの巫女は、より知恵のある者はいないと答えたのです。……いったい何を神は言おうとしているのだろうか。いったい何の謎をかけているのであろうか。なぜなら、わたしは自分が、大にも小にも、知恵のある者なんかではないのだということを自覚しているからです。すると、そのわたしをいちばん知恵があると宣言することによって、いったい何を神は言おうとしているのだろうか。……それは誰か、知恵があると思われている者のうちの一人を訪ねることだったのです。……ところが、仔細にその人物……を相手に、これと問答をしながら、観察しているうちに、アテナイ人諸君、何か次のようなことを経験したのです。つまりこの人は、他の多くの人たちに、知恵のある人物だと思われているらしく、また特に自分自身でも、そう思いこんでいるらしいけれども、じつはそうではないのだと、わたしには思われるようになったのです。そしてそうなった時に、わたしはかれに、君は知恵があると思っているけれども、そうではないのだということを、はっきりわからせてやろうと努めたのです。すると、その結果、わたしはその男にも、またその場にいた多くの者にも、にくまれることになったのです。しかし私は、自分ひとりになった時、こう考えたのです。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。(『ソクラテスの弁明』21A-D, 田中美知太郎訳)
 
長くなりましたが、かいつまんで言うと、こういうことでした。ソクラテスはデルポイの神託により、ソクラテスより知恵のある者はいない、と告げられる。そんなはずはない、と知者たちのところに行き様々な対話を試みたが、彼が知恵のない人間だと分かった。ソクラテスは考えた結果、神託の意味を理解した。同じように知恵や知識に欠けていても、かの知者が自分が知っていると思い違いをしているが、それとはなり、自分は自分が知らないということを知っている。このちょっとしたこと、つまり知らないことは知らない、と分かっている点で、ソクラテスのほうが知恵があるということだったのだ。
 
この内容をまとめて、以前は「無知の知」ということだと紹介されていました。自分が無知であることを知っている、という意味です。しかし、知識がないということをも表す「無知」はこの様子を表すのに相応しくないということで、近頃は「知らない」という意味として「不知」と言い、それをソクラテスが自覚している、ということのために「不知の自覚」と言うようになってきました。その場合むしろ「無知」とは、知らないのに知っているつもりになっている状態を指すものと見なされることになります。これはソクラテスが批判している、世間の知者のことを呼ぶに相応しいわけです。
 
哲学の学習にお付き合いくださり、ありがとうございました。こんな厳密な用語の使い方には囚われないで、おおらかに聖書本文に入ります。
 
京都の牧師の祈りの中には、決まったフレーズがよく登場しました。そのうちの一つが、今日お開きした箇所の一節です。
 
「聖言(みことば)うち開くれば、光を放ちて愚かなる者、悟からしむ」(詩篇119:138(文語訳)
 
いまから説教を始めるとき、その聖書の説き明かしが光となって真実が見えるようになることを願うような意味だったのだと思います。聞く側が「愚かなる者」とされているのですが、多分それで良かったのだろうと思います。
 
これが新共同訳では、「無知」というふうに訳されていたのでした。
 
119:130 御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
 
これでも私たちが「無知な者」とされるわけで、よく考えてみれば失礼な言い方だとお叱りを受けることになるかもしれません。今回私はここを見たときに、「無知」という言葉についてしばらく心を向けておきたいと思い、ソクラテスのことを持ち出しました。
 
この詩編119編というのは、聖書の中で1章分として割り当てられている中で最も長いところです。1節が2行のリズムで、176節まであります。ヘブライ語の文字22個が巧みに盛り込まれた技巧的な詩で、8節分がヘブライ文字一つに当てられたために、22×8=176節あるというわけです。
 
その殆どの節に、神の言葉を表すキーワードが含まれているという特徴があります。今回取り出しました(ペー)の段にも、順に「定め・御言葉・戒め・裁き・仰せ・命令・掟・律法」と多彩な語が置かれています。訳すほうも大変だったことでしょう。どれも、神から出る言葉を指しているという意味では、極端に言えばすべてを「神の言葉」と呼んでも大きな違いはない、ということになります。
 
私の目は最初に「無知」に留まりましたが、この詩の主役は、紛れもなく「神の言葉」です。詩人は、技巧を凝らしながらも、魂は神に向き合っており、神からの言葉を聞いている、あるいは聞こうとしているということは間違いないでしょう。
 
神のものであるかはともかく、この「言葉」という語は、20世紀の西洋思想の最重要課題のひとつでした。西欧の思考の枠組みが壊れかかってきたとき、これまでの思想を乗り越えようとする努力は、「言葉」への注目に集中しました。もちろん、その萌芽は19世紀にあったのですが、特に20世紀後半の言語哲学の展開は、文明に大きな影響を与えています。たとえばこの研究がなければ、コンピュータは生まれなかったことでしょう。コンピュータは、コンピュータ言語によるプログラムによって走るものだからです。
 
そんな大それたところの話は私にもよくできませんので、もっと素朴に、「言葉」に注目して心の準備をしておきたいと思います。
 
まず、人は言葉で思考するとしておきましょう。私たちが「考える」というのは、きっと「言葉」を何らかの形で使っていると思われます。そうなると、「言葉」とは何かを「考える」ときにも、当のその「言葉」を使っていることになりますから、自己言及という非常に厄介な難点に陥ることになります。「私は嘘つきだ」という命題は真か偽か、という点を考えただけでも、自身について言及することがどれほど危ういか、お分かり戴けるだろうと思います。
 
ですから「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)という辺りからしてすでに、私たちの手に負えない文となっていることを背負わされます。聖書は工夫して「言葉」ではなく「言」と記して「ことば」と読ませるというテクニックを使っていますが、やはり私たちのイメージはこれを「言葉」としか考えられず、少々変な気持ちになることは避けられません。
 
この「言」と訳されているギリシア語はよく知られているように「ロゴス」です。「バイオロジー」「サイコロジー」「コスモロジー」など英語で「-logy」と付くものは、皆この「ロゴス」が付いたことになっています。「学」という漢字を当てるとほとんどが日本語になります(他に「論」「科」など)。
 
ところがこの「ロゴス」という語は極めて使い道の多い語であって、日本語訳では恐ろしく多くの語に訳すことが可能な場面があります。Wikipediaから引用すると、「言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、ダイモーン、イデア、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮」と挙がっています。すべてに根拠を見出してはいませんので、実際にこれらすべてが「ロゴス」の訳語として存在するのかどうかは分からないとしか言いようがありませんが、「さもありなん」とは思えます。
 
ギリシア語としては、これは「神話・物語」に対するものとして持ち出されると思われ、理性的で論理的な領域のものであると言えるでしょう。そのため、私たちは新約聖書を「伝説」や「神話」として受け取ることは、最初から禁じられているようなことになります。最後のほうに並べられていた「比率」というのは、数学の比、あるいは分数に関わりますので、「ロゴス」のラテン語訳の「ratio」に関して、「有理数」は英語だと「rational number」となります。
 
ヨハネによる福音書の冒頭では、イエス・キリストがロゴスである、と見なされていました。神は言葉であったというわけでしょうが、これを簡潔に説明することは、到底不可能でありましょう。人がいくら迫っても、語り尽くせるものではありますまい。
 
ところがこのヨハネによる福音書の冒頭は、創世記の初めを意識していることは確実だと考えられます。
 
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 
神はまず「言葉」を用います。「光あれ」と。すると、光が「存在」するようになりました。ヘブライ語で「言葉」を表す語は「ダーバール」のような音ですが、これは「言葉」と訳す場合と、「出来事」を表すものとして訳す場合とがあるといいます。私たちの口先だけの言葉とは異なり、神の「言葉」はそのまま「存在」となるものです。そこに、神の「真実」がある、というふうにもよく捉えられています。
 
もう一度確認しましょう。人が言葉を口にしても、それは嘘であるかもしれないし、また口で言っただけで実際に起こること、実際に存在するものであるとは限りません。しかし神においては、神が「言葉」を発したとき、それはもうすでに「存在」を成立させているのだ、というように受け取ることができます。神の口から出た「言葉」は、もうすでにその時に「存在」した、つまり「現実」となっていることになります。それが神の「真実」であり「真理」です。イエス・キリストは、そのような方として、神が真実の存在として遣わされたのでした。
 
神が告げた「言葉」は、「存在」するものとなります。「真理」という概念には様々な角度から見た定義が成り立ちますが、伝統的に存在の真理というものは、人の「認識」と「存在」との一致という言い方で捉えられていました。神の「言葉」はそのまま「実在」しますから、神は「真理」であるということになります。
 
しかし、人が言い放った言葉は、存在と一致しないものとまず見られます。私たちが口だけで偉そうなことを言っても、それが空しいもので、ちっとも現実にはなりません。他方、神の言葉である聖書は、いまなお私たちの知る現実となっていないことが多々あります。特に人間について述べあるいは命じた、神の言葉としての新約聖書のように立派な生き方が私たちに出来ているかどうかというと、まことに情けない気が致します。
 
すると、神がその「言葉」で命じたのに、私たちの間ではそれが実現していないことになります。神の「言葉」はすでに「現実存在」となるはずではなかったのでしょうか。それを妨げているのは何か。人間であるほかありません。さらに言えば、人間が神から離れたこと、つまり人間の「罪」であるということになると思われます。神の「言葉」が、人間に対してだけは「実現」しないという、残念な事態になっているのは、人間の「罪」の故だという説明です。
 
人間にとり言葉のなんたるかは、実のところよく分かっていません。一面は指摘できても、言葉とは何であるか、定まった理解はないのです。人間にとり言葉が曖昧なままであるということは、それが現実のものとならないということ、さらに言えば、人間の行動が定まらないことを意味することになるでしょう。そう、人は自分が何をしているか、その行為の意味は何なのか、分かっていないのです。
 
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。(ルカ23:34)
 
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(ローマ7:15)
 
堅い話にお付き合いくださり、ありがとうございました。もうやめます。それよりも、こうした聖書の言葉を、かつて恐ろしい刃のようなものにすら感じられた時の気持ちを打ち明けます。
 
人を傷つけるつもりがあったのではない。だのに、傷つけてしまう。詳細は申し上げられませんが、私は悩みました。それで自分など生きている価値がないと考えました。まだ教会に行く前の時のことです。そもそも傷つけているということにすら、ずっと気づいていなかったので、それを思い知らされたとき、もう生きていられないと思いました。
 
私は、自分が愛を知らないということを、知らなかったのだと突きつけられました。愛の歌をつくり、自分はいつでも誰かを愛しているんだなどと嘯いていたのは、とんでもない無知の様だったのだということがとことん分かりました。人を愛するということなど、何もできていないじゃないか。いや、できていないということくらい、まだいい。できていないことを、自分ではできているなどと、厚かましい態度でずっといたのだということを思うと、生きているのが恥ずかしいと思いました。
 
イエス・キリストの十字架に出会うことで、私はそこから救われました。いくつかの罪の行いについては、お詫びのお知らせを届けました。しかし、肝腎の傷つけた人々に対しては、一人ひとりに謝りに行ったわけではありません。それがどうした、という茶番のように見られるかもしれないし、このことがまた傷つけることになる可能性を覚えたからです。それを人に責められても仕方がないとは思っていますが、預言者ナタンに罪を指摘されたダビデのように、主に罪を犯した点は、曖昧にはしていないつもりです。
 
こうして救いの中に招き入れられた私でしたが、それで私という人間が適切な人間になれたかというと、決してそんなことはありませんでした。そしてそのことも、気づかないということは恐いものです。薄々気づいてはいても、認めたくないという心理が働いていました。妻や子どもに対して、傷つけるようなことを平気でできたということ、しかもそれは相手が悪いという責め方を心の内にもっており、自分の方が正しいという根本的な姿勢を保っていたのですから、質が悪い者です。つまり私は、相も変わらず無知であったのです。
 
そう。無知は恐い。自分で気づかない故に、自分で自分を直すことができません。それは外から、神が変えるしか、改善の仕様がないのです。
 
今日の詩編に戻ります。もう一度お読みしましょう。
 
119:130 御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
 
皆さまはどうでしたか。この節を、どのような気持ちで、最初にお読みになっていたでしょうか。素直に思い起こしてください。この「無知な者」を、誰のこととして読んでいましたか。誰かほかの人、たとえばまだキリストを信じていない世の人々のことなどを、少しでも考えてはいなかったでしょうか。そんなふうには少しも感じていなかった方は幸いです。この「無知な者」とは、紛れもなく自分自身のことなのです。「御言葉が開かれると光が射し出で/私のような者にも理解を与えます」と読むしかありません。少なくとも私は、そのように受け取ります。神の言葉が開かれたら、私がそれまで見えていなかったものが見えるようになる。私の愚かさ、私の間違い、私の思い上がりや愛のなさ、それらが少し見えてくる。意識され、分かるようになってくる。なんとそれまで、そのことに気づいていなかったことか、自分の馬鹿さ加減を嘆き始める。そうではないでしょうか。私の読み方に、心を添えてくださる方は、いらっしゃるでしょうか。
 
今日開いた詩編の最後の節も、共に読んで戴けますか。
 
119:136 わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。
 
「人々」とは誰に見えるでしょうか。詩人にとっては、同胞が主に従わないでいる様子を嘆いているに違いありません。でも、この「わたし」がもしもキリストのような方であったとしたら、「人々」とはこの私のことだとしか思えません。神の言葉を守らないこの私、しかも守っていないことにすら気づいていないこの私、さらに守っているのだというような気持ちになっていて、人に文句ばかり言うこの私。キリストは私を見て、川のように涙を流しているのだというふうに感じます。
 
でも、自分を「無知」というところから、少しだけ抜け出ることができるように、願いましょう。せめて「不知の自覚」、つまり「知らないのだということを弁えておく」ようでありたいと思います。
 
知らないことを知るのではありません。知らないということを知るのです。私たちは、神の業のすべてを知るようなことはできません。案外それを分かったような口を利くことすらあるように見える、このキリスト教の世界を、私は憂えます。もちろん、この私がそんなことをしたくはないのに、しているだろう可能性を、まずは恐れ、憂えます。これを拙い方向に進ませないように、今日の詩編の言葉を祈ることで、この聞くだけで退屈だった説き明かしの時を、静かに結びたいと思います。



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