【メッセージ】幸せになろうよ

2021年10月10日

(詩編23:1-6)

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23:6)
 
猫を撫でたことがありますか。私は大学生のとき下宿が木造の一階でしたので、辺りの猫が立ち寄ってくるという環境にありました。ちょいと煮干しを差し出せば、近づいてくる猫は何匹もいます。それでこちらを信頼してくれて、部屋の中にも入ってきますし、私の胸の上の布団の上で寝る子もいました。足で「ふみふみ」と言って分かってくださる方、いるでしょうか。
 
猫と一緒に暮らしていると、たいがいの猫の性質については、熟知できました。頭から顎へと撫でるなら、もう猫はうっとり。目を閉じて顎を差し出し、もっと撫でろとねだります。命を預けるような形で、こちらを信頼している様子が見てとれました。こうした動物にとり、喉元は急所であるはずで、命を奪いにかかるときに狙う箇所です。それをすっかり投げ出して目を閉じるなど、完全な信頼というものを示しています。猫にとり、至福のひとときだったのかもしれません。猫にどういう感情があるか知りませんが、人で言うならば、やはりこれは小さくても「幸せ」であると呼んでよいように思います。
 
幸せを求めるということが、最も大切なことだ。多くの人がそう考えてきました。その「幸せ」というものは何でしょう。実はここが一番大切な観点となります。ある人にとっては、自分の快楽であるかもしれません。自分さえ楽しければ、他の人には関わらない、という意味での「幸せ」がいいと思う人がいることでしょう。他方、自分には痛みと苦労ばかりであったとしても、誰かほかの人、それは特定の大切な人である場合が多いのかもしれませんが、ほかの人が喜ぶことができたら自分は幸せだ、と思う人もいるでしょう。何を以て「幸福」と呼ぶかにより、生き方も考え方も違ってくると思われます。
 
他方、幸福を求めて自分の行動を決めるということは、人間が自らの意志で生きていくことにはならない、という厳しい捉え方をもする人もいます。何かに流され、あるいは利用されていくことにつながっていく危険性を、そこに見るのです。幸福という餌を掲げて、ひとを騙すような輩も、世の中にうようよしていることは、確かでしょうね。
 
そんな大げさな遠い幸せでなくても、あの猫たちのように、目の前に小さな幸せがあれば、そしてそれに身を委ねるひとときがあれば、満足できるということがあるでしょう。究極の幸福などと言わなくてもいい。小さな幸福感をひとつ味わうことができたら、そしてまたもうひとつそれが増えたら、なかなかうれしい人生であるのかもしれません。その幸せに気づくかどうか、という問題もあるでしょうけれども。
 
ダビデの有名な詩を読みました。ここにあるのは、なんだか大変な幸せであるように見えます。
 
23:1 わたしには何も欠けることがない。
 
いきなり、もう完全無欠な幸せが宣言されています。いやあ、なかなかこうはいかないものです。ここを「私は、乏しいことがありません」と訳した聖書もありました。
 
ところが私たち身に引きつけて考えるとき、私たちは愕然とします。憤懣やるかたないような怒号が飛んできそうです。なにを呑気なことを言っているのだ、この詩編を読むと腹が立ってくる、と。そこで反詩編を吠えてみましょうか。
 
自分の毎日の生活には、欠けることばかり。あれもない、これも得られない。満足を感じることなどない。ちっともまともな休みはもらえないし、憩いなどもう何年も感じていない。魂は死にそうだし、仕事ではそんなに正しいことばかりしていられない。災害に囲まれているような国で生活しているし、実際このコロナ禍をどうにかしてくれよ。神はいったいどこにいるんだ。むしろ神の罰を毎日食らっているかのようだ。毎日嫌な相手の顔ばかり見なきゃならないし、まずい昼飯をかきこんで夜遅く帰ればひとり寂しく飯を食うだけ。油じゃなくて酒を呷って寝るしかないから、安酒がカップに溢れているのくらいは、この詩と同じかもしれない。生きているのも嫌になるくらい、毎日辛いことだらけだ。誰か助けてくれよ。こんなんじゃ天国も日々遠ざかるばかりだ。生きても地獄、死んでも地獄といった有様じゃないか。
 
おふざけが過ぎたでしょうか。でも私たちの日常は、この詩編23編とはほど遠いのだということを、感じて戴けたでしょぅか。私たちの生活が、如何に荒んでいるか、計り知れません。いえ、キリスト者の中には、この詩のありがたさを日々感じています、という羨ましい方もいることかと思います。神の恵みをひしひしと感じる生活は素晴らしいことでしょう。どうぞ詩編23編は私の毎日だ、と喜んでいたらよろしいかと思います。
 
そんな荒んだ生活の中でも、私たちは小さな幸せを感じたいと考えます。「幸せは……」と定義してみるのはアメリカではよくあることなのだそうですが、スヌーピーの登場するコミックス「ピーナッツ」ではしばしば、「幸せはあったかい子犬(Happiness is a Warm Puppy)」という言葉が出て来ます。スヌーピーを抱きしめながらが似合いそうですね。
 
私も小さいころ実家では犬を飼っていましたが、子犬ではありませんでした。最初にお話ししたように、学生時代に猫と同居することになります。そしていま、家から少し離れた公園に住んでいる猫たちに、時々会いに行きます。公的に猫が養われており、餌も与えられています。気の毒ですが不妊手術も施されており、野良猫が増えることはありません。不妊手術を受けた猫は耳の先がカットされており、花弁のようであることから「さくらねこ」などと呼ばれています。この猫たちを撫でていく自分も安らぎを覚えますが、猫たちのほうが、すっかり安らいでいるのを見るのだということを、先ほどお話ししました。急所である喉元さえ差し出して、撫でてもらおうとします。飼い主でもないのに、公園の来客にこれほどまでの全的信頼を示すというのは、どういうことなのでしょう。私たちはこのように、誰かを信頼することができるのでしょうか。信仰というものについて、問われるような気がします。
 
いや、全き信頼など、無理なような気がします。新約聖書では時折、全き者、完全な者となれということが求められます。
 
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:48)
 
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。(コリント二13:11)
 
いやあ、無理です。皆さんの中には立派な方もいらっしゃるかもしれませんが、完全という言葉ほど、自分と別世界な言葉もありません。もしこの詩編23編を全部自分のことだと肯定できる方がいらしたら、その方は完全な喜びの中におられることと羨ましく思います。それほどに、この詩が神に対してもつ信頼は、完全なものであるように思われます。
 
そこで、この詩を四つの部分に分けて捕らえてみます。最初の3節をA、次の4節をB、5節をC、6節をDと呼ぶことにします。すると、AとCは、主体が主なる神にあることが分かります。BとDは、わたし、つまり人間のほうが主体となっています。つまりこの詩は、交互に、神と人とのなすことを歌っているのです。順序を変えて、まずACと並べてみます。
 

23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
 

23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
 
Aにあるイメージは、草と水です。そこには休みがあります。命があり、正しさが伴います。Cには、食と油、そして酒か水かが与えられます。人が生きるために必要なものがすべて与えられる様子が伝わってきます。これらはすべて主がなすことです。神が何をしてくださるのか、神から私に向かって及ぶものを並べているように見えます。ここには、命がみなぎっています。命を支えるもの、人を生かすものが神から与えられるのだということを、よく伝えているような気がします。
 
次にBとDをつないでみましょう。
 

23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 

23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
 
Bには死と災いが囲んでいることを認めながらも、それに打ち勝つものを知っています。主が共にいること、そして主の権威と力です。私もその力を与えられる思いがします。Dでは、恵みと慈しみが常にあり、主の家という居場所があることを支えとしています。そこには命と生涯すべてを支配しているという信頼感もあります。今度は私の側から私の命のことを気にしています。私がどう感じているか、私から主へのレスポンスという色の濃い内容となっています。
 
1節は、Aには含めず、この詩の全体を一言でまとめている、と考えることもできようかと思います。このようにして私には、欠けることがひとつもないというわけです。やはり、この詩を味わうには、荒んだ心で生きる現世のあり方ではどこか無理があるようにも思えます。けれども、この完全さを虚像のように身にまとってもまた苦しくなりますから、私たちは、いえ私は、いまこの詩を、もう一度信仰の先人の意見を尋ねるようにして、握っていこうかと思います。
 
そう。この詩の作者、ダビデに尋ねるのが一番よいのです。私はすでに何度か触れていますが、ダビデという人物は、非常に人間らしい人だと思います。これが預言者のエリシャあたりになると、もうスーパースター過ぎて、超人的な存在にしか見えないのですが、ダビデは、まことに人間くさい人で、見方によっては、どうしてこの人がこんなにも神に愛されているのか、分からなくなってくるほどです。
 
ダビデはイスラエルの、初の王ではないのですが、実質は初代を飾る王となりました。その子ソロモンの時代にイスラエル王国は最も繁栄し、栄華を極めましたが、その子の代で王国は南北二つに分裂します。うち北のイスラエル王国は、クーデターに継ぐクーデターで血生臭い王位の争奪がなされ、これでよくぞ国が成立していたと思われるほどの乱れようでしたが、南のユダ王国は、ダビデの子孫が代々王家を受け継ぎ、これが後にイエスを生むことになります。メシアはダビデの子孫であるという期待が高まる中、イエスが現れたということになっています。
 
このダビデについては、少年の頃からの経緯が記録されており、半ば伝説化されているようでもあり、所々つじつまの合わないところもあるのですが、ともかく旧約聖書は、そのダビデの一生を詳細に証言しています。
 
ダビデはまず少年として現れます。初のイスラエルの王サウルを選んだ預言者サムエルは、神に従いきれないサウルに絶望し、新たにイスラエルの王となる者に油を注いで王とせよと神に命じられます。探したところ、エッサイの家に行き着き、そこで末の子ダビデを見出します。時にイスラエルはペリシテ人との戦いに明け暮れていました。敵は鉄文明をもち、戦力的にも十分で、イスラエルは苦しめられ続けていました。ペリシテ軍の中にダビデの兄たちは加わっていましたが、あるときダビデは兄たちに届け物をしに出かけます。イスラエル軍は、ペリシテ人とにらみ合っていました。巨人ゴリアトが、俺と一騎打ちをしようともちかけていましたが、イスラエル人は恐れて誰も出て行こうとはしません。ダビデはその様子を見て憤ります。自分には神がついている、誰もあいつと戦わないのなら僕が行きます、と。サウルもよくこの少年を戦わせたと思います。ゴリアトは、一騎打ちで負けた方が相手に従うのだ、と吠えていたからです。少年ダビデには、供された軍服さえ重くて要らないと脱ぎ棄て、投石の道具ひとつで巨人に立ち向かいます。そして、なんと一発の石だけで、巨人を倒してしまいました。
 
ダビデはサウルに気に入られ、その配下に属するようになります。竪琴が弾け、歌を作る才能がありました。今日の詩を含め、詩編にはダビデ作とされる詩がたくさんあります。ダビデの鳴らず曲により、戦争と政治で気の休まらなかった王サウルの心を慰める役割を背負いました。
 
ダビデはまた戦いにも駆り出されました。戦場に派遣されると連戦連勝で、人々の人気を得るようになりました。そのため、精神を病むサウルに激情的に殺されそうになるという不条理なこともありましたが、イスラエルの中で確かな地位を築いていきます。しかしサウルに本当に命を狙われるようになり、サウル軍を離れました。いろいろありましたが、後にサウルが戦死すると、ダビデはイスラエルに戻ります。そして名目ともに、イスラエルの王の位に就きます。戦術に長けた部下も得、イスラエルは軍事的に安定した時期を迎えました。
 
このように辿ってくると、ダビデは素晴らしい王であるとの印象しか与えませんが、この後、自分の子たちの間に不和が生じ、国は安定していたも、王家そのものは乱れに乱れました。ついに自分の子に命を狙われ、都を出て行くことになります。それというのも、ダビデは自分の子に甘く、叱ったこともないような中で、子どもはわがままに育ってしまっていたからです。ダビデを追い出した息子アブサロムと戦うことになったときにも、どうかアブサロムの命は助けてくれと部下に命じておいたダビデでしたが、軍将ヨアブはあっさりアブサロムを殺します。これは軍事的には正しい判断でしたが、ダビデは悲しみに悲しみました。いったい、ダビデのもとで戦っていた兵士たちが、悪いことをしたかのようにも見えました。
 
さらにダビデ最大の過ちが訪れます。年をとり戦場に出ることを控えるように促されたダビデは、宮殿から、水浴びをする美女を見つけ、欲情します。宮殿に呼び入れ関係をもつと、間もなく妊娠が伝えられます。ダビデは、女の夫で傭兵だったウリヤを戦場から呼び寄せます。ご苦労、家でくつろぎ給え、と言います。家に帰せば、妻を抱き、ダビデが宿した子を、その夫の子だとごまかすことができます。しかしウリヤは、戦場に皆がいるのに妻の家には帰れないと頑なであるため、ダビデは困り果てます。ごまかしが利かないとなると、最後の手段です。王の書面をもたせ戦地へ赴かせますが、その手紙には、ウリヤを最前線で戦死させよとの命令が書かれていました。ウリヤは戦死し、ダビデはその女バト・シェバを妻に迎え入れます。このことは、王の下につく預言者ナタンを通じて、神から厳しく突きつけられることとなりました。ダビデは、ナタンの話が自分のこととは最初気づかず、最後にあなたのことだと迫られてようやく気づき、神の前に悔います。神はこれを赦し、その時の子は生きられないが、ダビデに新たな人生を歩ませるようにしました。その後に産まれたのが、次の王、ソロモンでした。
 
しかしこのソロモンも曲者です。というより、その母バト・シェバがなかなかの者でありました。ダビデが老齢になり、後継者が問題になったとき、バト・シェバは自分の息子ソロモンを次の王位に就けるために画策します。もはや判断能力の薄いダビデは、バト・シェバの言いなりになり、ソロモンを王位に就けることに同意します。そうして、他の優秀なダビデの子、つまりソロモンの兄弟たちは切り捨てられ、王位に相応しかった者もソロモンにより殺されてしまいます。ダビデはとことん、子どもたちに対して良い父親とはなれなかったのです。
 
長々とダビデの生涯をたどってきましたが、ダビデのエピソードはまだまだたくさん聖書に記されています。サムエル記であればその上の16章から30章まで、続いてサムエル記下の1章から24章までたっぷりと記されています。もしもまだ通してお読みになっていない方がいましたら、この機会にぜひ一読なさってください。
 
しかし、このダビデの故に、神は寛大な措置をさらに用意していました。北イスラエルの王たちは、神への信仰を失ったときにずいぶんと酷い目に遭わされることとになりましたが、南ユダの王は、同様に神への信仰を失ったときにも、滅ぼされることなく、ダビデの故にそれを赦され、代々ダビデの血が受け継がれていくようになっていったのです。
 
さあ、こんなダビデですが、いったいどこが、と言いたくなります。どうしてこのようにダビデに、神に愛されるべき性質があったというのでしょう。
 
ここから先は解釈となりますが、私の印象を述べます。それは、ダビデがこの主から目を逸らさなかったと思うからです。イスラエルやユダは後にたくさんの王を生み出しましたが、しばしば主を離れて、他の神々に心を寄せてしまいました。主なる神は、これを最も嫌います。預言者も、この主に背を向けたことで裁きがあると告げます。しかしダビデは、人間として、父親として、でたらめな部分があったにも拘わらず、主から目を背けることがありませんでした。記録を見る限り、その気配はありません。自分のしでかしたことに気づかない間抜けな場面はありましたが、他の神に心を向けたり、主を見上げればそこから視線をずらしたりすることは、ありませんでした。
 
長々とダビデの生涯をたどってきましたが、ダビデのエピソードはまだまだたくさん聖書に記されています。サムエル記であればその上の16章から30章まで、続いてサムエル記下の1章から24章までたっぷりと記されています。もしもまだ通してお読みになっていない方がいましたら、この機会にぜひ一読なさってください。コマーシャルでした。
 
さて、詩編23編でした。時に暗誦するとよいと勧められるこの詩編ですが、いまのダビデが詠んだのだということを踏まえた中で、最後に初めから読んでみましょう。ABCDの四つを区切った形で、元の順番で読んでみます。
 
 
【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
 
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
 
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる
。  
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
 
 
ダビデがその人生のどの辺りでこれを歌ったが知りませんが、私たちが最初この詩編を非現実的だと感じたように、ダビデの生涯においても、これらは絵に描いた餅のようにしか思えません。これらは十分実現して満足した人間が詠んだ詩ではなかったのです。

 
だったら、私たちも、この詩を堂々と口にしてみましょう。できればメロディでもつけて、本当に歌にしてみましょう。それは非現実的かもしれません。とてもこんなふうではないという自分と世の中の状態の中であるかもしれません。それでも、歌の最後には、「命のある限り」と叫ぶのです。そうです。歌うことができるということは、いま私は生きています。いま命があります。生きているならば、ダビデのように主をまっすぐに見上げて、私のことを信頼してこのような詩を与えてくださった主を、こちらからも信頼して、応答するように、歌おうではありませんか。この聖書を手に、希望を抱いて、歌いましょう。命のある限り。



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