【メッセージ】自然と言葉と私

2021年10月3日

(詩編19:1-15)

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
心の思いが御前に置かれますように。
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。(詩編19:15)
 
涯しも知られぬ あまつ海原を
わたるや朝日の うららに匂いて、
み恵みあまねき 父なるみかみを
あらわす光ぞ 日々に新なる (讃美歌74番)
 
イギリスの讃美歌の中でもトップクラスの名作で、作曲はハイドン。オラトリオ「天地創造」第一部の終わりにあるものが独立した形となりました。作詞のアディソンは政治家でもあったとのことです。これは明らかに詩編19編に基づく歌詞です。今日からしばらく詩編を少しずつ味わいます。そして今日はこの詩編19編を共に賛美したいと思います。
 
詩編は、旧約聖書のちょうど中央あたりに位置します。全部で150の、イスラエルにおいて神を賛美した詩から並んでいます。新約聖書だけを本にしたものでも、この詩編は一緒に収めているというものもあります。神の言葉というよりも、どちらかというと人間からの声という感じではありますが、なかなか心に残る詩が目白押しです。多くの人が、詩編の中に愛する言葉をもっていると思われます。それに礼拝というものは、神から人への言葉と、人から神への言葉とが交差する場でもありますから、人からの言葉として、詩編は欠くことができません。
 
お読み戴いた詩編19編を、今日は次の三つの部分に分けて捉えてみたいと思います。
 
1 自然と神の言葉 (1-7節)
2 主の言葉の力 (8-11節)
3 私と主の言葉 (12-15節)
 
私がつけたこの見出しだけで、もう今日お話しする内容が分かった、という察しの良い方がいらっしゃるかもしれません。それでもしばらくお付き合いください。
 
これはおそらく曲にのせて歌った歌詞だろうと思われます。どんなメロディーだったのか、聞けないのが残念ですが、いまイスラエルに伝わる曲調は、やはりどこか古代の曲の雰囲気を遺しているのではないか、という気もします。「マイムマイム」のような、短調で、ややスピードのある、力強い曲が私にはイメージされるのですが、皆さんはどうお感じになるでしょうか。
 
歌詞は、どこか文学的な言葉であると考えられます。イスラエル独特のレトリックなどもありますから、いまからそうした文学的な解読をしていくというのは、私には荷が重くてできません。言葉の一つひとつの意味や背景などを説明するというのも、できるものではありません。ご容赦ください。
 
しかし、これら三つに私は分けてみましたので、その一つひとつの駅で下車して、その景色を見回し、辺りを散歩してみるという旅に、いまから出てみましょう。ツアーコンダクターを担当しますので、どうかしばし詩編19編のトリップに、お付き合いくださいませ。
 
まずは「1 自然と神の言葉 (1-7節)」です。
 
19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
 
これはダビデの詩なのだそうです。ダビデはイスラエルの第二代の王。しかし実質初代の王のようなもので、イスラエル人にとり最も敬愛されている人です。美術の分野では、ミケランジェロのダビデ像という言い方をすると、思い起こされる方もいることでしょう。旧約聖書の記事の中でも、竪琴を奏でていたとされ、音楽の腕は確かだったと思われます。そして、この詩編の中には、ダビデ作という題のある詩が73もあります。さすがに、本当にそれらが全部ダビデによるものかどうかは怪しまれていますが、だとしても、詩とくればダビデと見られるくらい、イスラエルにとりダビデの存在は大きなものだということが分かります。
 
ここを味わうと、神の言葉が全世界に及んでいる様子が伝わってきます。いえ、世界というよりは、自然と言ったほうが適切のようです。空から全地、なんと太陽にまで神の力は及びます。全自然、全宇宙を神が創造し、神の素晴らしさを教えてくれると詩人は称えています。
 
この美しい自然や、自然の神秘や調和を見るにつれ、神の素晴らしさを覚えるというのは、なにも神を信じていなくても、ひとはつい感じることがあるものではないでしょうか。神さまはよくこんな自然をこしらえたんだねぇ、などと。
 
イギリスのニュートンの話として広まっていますが、たぶんドイツのキルヒャーという学者に基づくというエピソードがあります。
 
太陽系の精巧な模型を作らせ、実にリアルに動くものができた。無神論者の友人が訪ねてきてそれを見た。あまりの出来に感心し、その無神論者の友人は問うた。「これは誰が作ったのか」「いや、誰も」「そんなバカなことを言うな」と友人は怒った。「誰かが作らないでこんな精巧なものが存在するはずがないじゃないか」そこでキルヒャーは答える。「だろう? でも、本物の太陽系が法則に従って動いていても、無神論者の君は、それを誰かが作ったのではなく、それが存在するようになった、と言っていたじゃないか」
 
そのニュートンもですが、コペルニクスやケプラー、ガリレオなど16世紀から18世紀にかけて、天体の動きを研究し、宇宙の偉大な法則を知る足がかりをつくった偉大な科学者たちがいました。彼らはしばしば教会から目をつけられ、科学的な知識を表に出すと殺されるというような目にも遭いました。神の教えに反する、と断罪されたのです。けれども、こうした科学者は、むしろ神を信じ、神のためにという思いを胸に研究をしていたと言われています。「自然は神の書いた書物である」という自然観をもって、その自然を探求することは、神の栄光を称えることである、と理解していたというのです。こうしたことについては、キリスト者の科学哲学者・村上陽一郎さんが多くの本を著して熱く紹介していますので、どれかお読みになるとよろしいかと思います。
 
自然の不思議さを知ることで、そこに神の存在を思う。このような形で神を考えることを、「自然神学」と呼ぶことがあります。イエス・キリストを持ち出すことがなくても、この自然を見ると神はいると思う、というような捉え方です。必ずしも対象は「自然」でなくてもよく、人間理性で考えて神を思うときにはそのように呼ぶことができるのですが、今日はこの詩編に合わせて、自然を見て、というふうに感じておきましょう。
 
神を信じているから自然をそのように見る、とは限りません。18世紀のカントになると、道徳神学は唱えますが、キリスト教の人格神を信じてはいません。しかしこのカント、哲学者としてのみならず、物理学者・天文学者としても当時一流で、たとえば宇宙生成論を唱えています。その見解はなかなかのもので、特に宇宙の星雲の生成に関する考えは、現代でも通用する基本的な考えとなっています。このカントが、その宇宙生成の議論の中で、神により天体やその運動が形成されていく様子を描いているというからには、自然を見て神を知るというひとつの例だとしてもよいような気がします。もちろん、カントとしては、神を否定しては出版も許されないことを知っていますから、ほどよく神を出してきたのではないか、という疑いも、ないわけではないのですが。
 
次に、「2 主の言葉の力 (8-11節)」を見渡してみましょう。
 
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
 
どこに「言葉」という語があるのか、とお思いの方もいることでしょう。これはユダヤ文化における特色の一つで、同じ対象について、とくに対句のように並べるときには、基本的に別の語を用いるという手法があるように思うのです。もちろん私たちもそうしたことをしていますし、英語の文章でもそうした傾向があります。単語を変えて述べていても、指しているものは同じだという事で、むしろ同じ語をやたら繰り返すと単調でレベルの低いものように見られやすいのです。その点、かつてのドイツの哲学者は、概念がぼけることを嫌うのは、律儀に同じ語を通して使う傾向があるように見えたのですが、その辺りはいまはどうでもよいこととしましょう。
 
元に戻りましょう。この箇所には「律法」「定め」「命令」「戒め」と前半に並んでいますが、これらは対照的に置かれています。考えてみれば、これらは皆、神の言葉のことを指しているのではないでしょうか。そもそも「言葉」という語が、これらの意味をみな含んだものだったと思います。聖書を「神の言葉」と言うのであれば、その中には律法だの命令だのが含まれていたはずです。
 
このような例の典型的なものが、詩編119編に多数見られることは有名です。この詩は、詩編中最も長い詩で、ヘブル語のアルファベットが文頭に並ぶといったテクニックを含めて、22文字でひとつ8節ずつ、全部で176節にわたっています。それぞれの節が二行分に相当し、殆どすべての節に、この「言葉」に類する表現が含まれています。
 
119:4 あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。
 
119:15 わたしはあなたの命令に心を砕き/あなたの道に目を注ぎます。
 
119:48 わたしはあなたの戒めを愛し/それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。
 
このように理解してくると、ここに表されていたものが神の言葉であると安心できます。この神の言葉の力というものは、「完全で、魂を生き返らせ」るものです。それは「真実で、無知な人に知恵を与える」ものです。神の言葉の力です。
 
さらに、フィードバック神の言葉を前にして渡したが「主への畏れ」を懐くならば、それは「清く、いつまでも続」くものでしょう。「主の裁き」についても、「まことで、ことごとく正しい」と称賛することでしょう。キリスト者たちは、週ごとに集まり、主の言葉を受け止めると、このような態度でそれを聞き、称えるのです。
 
最後にその主の言葉は、宝物でいえば金よりも優れており、求むべきものであり、他方食べ物でいえば高級な蜜よりも甘い最高のものであるということが告白されています。これは詩人、つまりダビデにとりそうだったというわけですが、確かにダビデほど、神の言葉と純朴に向き合っていた人はいないかもしれません。
 
ダビデ王は、イスラエルの理想の王でした。しかし、人間として、立派な人物であったかというと、素直には肯けない面が多々あります。美しい女にうつつを抜かし、仲間が敵と戦っている間に、姦淫の罪を犯します。あまつさえ、妊娠が分かるとその夫を偽装計画に誘い、乗らないとなると、夫をわざと戦死させます。ほかにも、幾人かの女性に産ませた自分の子どもたちについては、聖書の記述を見る限り、どう見ても子育てに失敗しています。子どもたちの間で殺し合いがあり、またうち一人はわがままからついに父ダビデを宮殿から追い出すことになります。後継ぎのソロモンはあの浮気相手から後に産まれた子ですが、その女の言いなりに後継者を決め、そのことで国を二分することになってしまいます。
 
けれども、神は、このダビデの故に、その子孫が信仰を離れても、怒りを人々にぶつけはしなかった歴史が描かれています。このダビデの故に、滅ぼすことはしない、と誓い、イスラエルを長きにわたり守ったのです。国が危ないときにも、「わが僕ダビデのゆえに」と幾度も繰り返して、ユダ王国が滅びないようにしていました。
 
ダビデは、信仰においては純朴だったのです。自分が過ちを犯しても、どんな苦しい情況に陥っても、その目は終始主の方を向いていました。片時もそらさず、主である神を見上げ、主と向き合っていたのでした。私たちも、この信仰から学ぶことがあると思います。私たちはダビデに比べたら、何の才覚もなく、勇者でもなく、ダビデの少々の欠点を挙げたところで、私はそれと比較するレベルには全くありません。それでも、主から目をそらさず、主を常に見上げていくことは、できるかもしれません。いえ、そうさせてください、とまた祈るようにしたいものです。
 
最後に「3 私と主の言葉 (12-15節)」の箇所から神の声を聴きたいと願います。
 
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
 
ここで突然出てくるのが「あなたの僕」です。もちろん作者のダビデでありますが、私たちは自分のことだとして読むことを求められているはずです。事実何度も「わたし」という言葉が登場しますから、私たちもこれを「私」して読んでいきたいと思います。
 
私は、主の言葉についてよく考えました。それを守りたいと思います。神の祝福を受けたいからです。但し、自分は罪を犯しているかもしれません。自分の罪というものは、なかなか自分では気がつかないものです。気づいた罪は口に出して神に告げ、悔い改めます。でも気づいていない罪もあることでしょう。どうかそれがあっても私を清めてくださいますように、と祈ります。
 
少し勝手な祈りのようにも聞こえます。でも、以前の教会にいたご婦人に、私は教えられました。「何を祈ってもいいのよ。宝くじが当たりますように、とも。ただ、それをどう取り扱うかは、神さまに委ねるの。結果は神さまの領分だから。」と、にこにこ笑顔で話すこの方のことを、忘れることはできません。やがて不治の病に冒され、福岡のホスピスに入院されたとき、私は他の教会に移っていましたが、いてもたってもいられず、一度訪ねて行きました。さほど変わらない姿で、笑顔でまた同じことを話してくれました。最後に共に祈った声が、いまもまだ響いています。
 
ひとは自分を誇りたいものです。一瞬でも神を忘れると、傲慢になってしまいます。自分で自分を神のようにしてしまう恐ろしい罪が、誰にもあるものです。どうかそうした罠に陥らないように、そういう思いに支配されてしまわないようにしてください。ダビデの祈りは、自分がどうなるか分からない、そうした自分をまるで信じていないような構えを踏まえて、神の前に無力な自分をさらけ出しているように見えます。密かに神から背いているかもしれないその罪からも、清められることを願っています。それでこそ神と全き関係の中にあることがてきるのです。
 
最後の祈りは、心から声を重ねたいような気がします。自分が口にする言葉が、神の心に適いますように。人の口から出てくる言葉が、いかに汚いものか、そして怖いものか、聖書を読む私たちは、いつも思い知らされます。ヤコブ書は、あまり持ち出されませんが、それはそこに痛いほど厳しい指摘があるからです。
 
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。(ヤコブ3:6)
 
私たちの口はとんでもないことを発するし、言葉で過ちを犯さない人はめったにいないものだ、と突きつけてきますが、まことにこれを持ち出すのは辛いものがあります。
 
どうかこの唇から出る言葉が、主の心に咎められませんように。そしてさらに、言葉に気を配ったとしても、人間の心の内には如何ともしがたい恐ろしい悪しきものが隠れています。それをも神の前に出して裁かれないように、と願います。
 
イエスも、マタイによる福音書の山上の説教でそうした痛いことを告げていました。
 
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
厳しいですね。心の中で腹を立てたことも見抜かれているし、みだらな思いがあったとたんに犯罪を実行したのと同じことになるなど言われると、これは一般の男性に対しての戒めでしょうが、まことに頭を垂れるしかないのではないでしょうか。時折、聖人のような方もいらっしゃいますが。
 
このようにしてこの雄大な自然を歌うところから始まる詩を読んできましたが、いまあった「心の思いが御前に置かれますように」を通り過ぎようとしたとき、私は何か心に引っかかるものを覚えました。黙って通り過ぎることができないような気がしたのです。「心の思い」とは何でしょうか。詩人の心で思っていることのはずです。それが神の前に置かれるように、とはどういうことをイメージしているのか、まだ私の頭の中にはできていなかったのです。
 
先ほど、ダビデ王の大失敗の話をしましたが、そのことを明確に歌った詩があります。詩編51編です。実に惨めなほどにうなだれ、悔いている悲しみに満ちた詩ですが、その中に印象的な箇所があります。
 
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
 
いけにえというのは、神に献げるものですが、さて、これほどの罪の意識の中にある人間に、献げるような代物があるのでしょうか。献げものは、清くなければなりません。そう言えばこの詩編19編でも、何度か「清める」という語がありました。やや不自然なほどに突如登場するこの「清める」という表現でしたが、これが「いけにえ」の概念につながるとすれば、肯けるような気がします。つまり「心の思いが御前に置かれますように」という願いのために、私の心は清められていなければならなかったのです。こうした献げものは、神とつながるため、神を礼拝し、神との関係の中にあるために、必要なものでしたから、詩人は、神との強い関係の中に結ばれていたかったという願いがあったに違いありません。だからこその、思いが御前に、ということなのだと私は感じました。
 
でもここで、大きな問題が出てきます。確かに「清めてください」とは祈りました。でも、それで清くなったのでしょうか。清くなれるのでしょうか。神はそんなに簡単に、清めてくださるのでしょうか。清めるとは何でしょうか。見えない罪、自分でも気づいていないような罪をも赦すという神とは、どういうことなのでしょうか。
 
私たちは、この謎を、新約聖書の中に見出します。どうせ、そんなことは人間にはできないのです。清くなど、なれません。だから、イエス・キリストがいたのです。あの十字架の上で酷いいけにえとなった、イエス・キリストを神ご自身が備えるという恐ろしい愛でした。この献げものがあればこそ、それを心して献げたならば、この詩人が願ったことも、すべて神がよしとしてくださるというニュースを、新約聖書は私たちに伝えていたのでした。新約聖書とは、そういう本だったのです。
 
このでたらめな私を、神はそんなにも大切にしてくださった。イエス・キリストをいけにえとすることで、私を赦してくださった。私はそれに応えるように、呼び出された。その結果、いまここで、神の言葉を喜んで伝えているのです。
 
このように私の差し出す人間的な犠牲ではなしに、神の定めたいけにえを代わりに用いることを、「贖い」と呼ぶことがあります。イスラエルの文化に基づく考え方で、現代に私たちには、もちろんこの私には、簡単に理解できたり共感できたりするものではありません。しかし、あのイエス・キリストの十字架を見上げながら、この言葉を響かせる時、ようやくこの詩編19編の締めくくりに、アーメンと肯くことができるかもしれません。最後はこう結ばれていました。
 
19:15 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
 
最近、空を見上げたことがありますか。なければ、ぜひこの後見上げてください。自然の大きさを感じてみてください。今日、自然も神の手の中にある詩を読みました。その神の言葉がどんなに素晴らしいか、それも読みました。これをこれらかも読み続けていきましょう。そして最後に、自分とその言葉との関係を常に意識しましょう。自然を支配する神の言葉、その言葉と自分とが、強い絆で結ばれていることを、知って戴けるならば、私の口から出た言葉が、悪さをしなかったということになるかもしれません。



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