【メッセージ】壁一つの隔たり

2021年9月26日

(エゼキエル43:1-12)

彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。(エゼキエル43:8)
 
コロナ禍の中で、騒音の苦情が、2〜5倍に増えている。東京の住宅情報編集長がそう述べていました。子どもに限らないかと思いますが、ステイホームで家にずっといると、何かと音の響きが気になるのだと思われます。マンションというのは、不思議なもので、思わぬところから音が響いてくることが分かっています。隣室からかと思ったら、かなり離れたところの音であった、ということもあり、それは建築構造により、波動の伝わり方が様々であることに基づくのだそうです。
 
昔だったら、木造アパートで、あちこちから音が聞こえるのはあたりまえでした。隣からテレビの音が聞こえるというのもありましたし、誰かが来て話をしていると、とくに夜は眠れないくらいに聞こえてきて、ずいぶん悩まされたことがありました。それは上の部屋からもそうでした。さらに昔の長屋のような構造だったら、もっとそうだったのではないでしょうか。
 
よからぬ音が聞こえてくるというのもありますし、逆に壁にコップを当てて聞き耳を立てるというような話もよくありました。
 
日本の家屋は、そうした音に対して無頓着だったのでしょうか。いえ、考えてみれば、古来、部屋の仕切りすらなかったことが多かったことを思い起こします。「間仕切り」として「襖」があるならまだよいほうで、たんに「衝立」しかない場合もあり、さらに吹けば倒れるような「屏風」という文化もありました。それでも、その屏風の向こうはこちらからは見えず、また聞こえないという前提でのおつきあいが成立していたのだと思われます。
 
つまり、さしあたりの仕切りを入れるだけで、その内と外とでは別の世界だという宣言をしたことになり、実際に知られ得ない世界となるという、暗黙の了解があったのだと考えられます。見て見ぬふり、聞こえぬふりというのは、いまでは消極的な意味にばかり用いられますが、こうした文化の中で、互いに他人に干渉しないための生活の知恵だったとも考えられます。
 
この「間仕切り」あるいは今風に言えば「パーティション」というのは、移動式であるのはとても便利なものです。私の勤務先でも、ある教室の間は移動式パーティションになっており、大教室として利用したいときには、それを取り払えば簡単にできるという利点があります。防音としては非力ですが、それはふだんから少しの我慢をしておれば次第に気にならなくなります。これは意識の問題であり、それを了解している文化の問題であるわけです。
 
日本の家屋は、元来そうした「間仕切り」で区切る仕組みが主流でした。洋風の、ドアと壁で区切られた家があたりまえのようになってきて、もしかするとパーソナルの概念も変わってきたかもしれません。
 
そこで、今度は地震や洪水などでの被災地での、避難所での問題が起きてきます。コロナ禍においては、密になることと、できるだけたくさんの人を収容するということとの両立が難しくなり、人数制限をして自宅待機というところもあったようです。実に胸が痛む措置です。しかし避難所に来たといっても、そこではこの「間仕切り」の問題が起こります。もはや昔風の生活文化をもたない現代の私たちは、プライバシーがだだ漏れになる情況に、我慢ができないようになってしまっているのです。
 
アルピニストの野口健さんが、熊本地震のときには、「テント村」の開設を実現しました。このときには、避難所に入れない人が多く「車中泊」をしていたことが話題になりました。しかし車中泊は、いわゆるエコノミー症候群と紙一重です。
 
その1年前に、ネパールで大きな地震がありました。そのとき野口さんはヒマラヤにいて地震の有様を見ました。それで基金を創設してネパールの人たちを助ける運動をしたのでした。そして翌年、今度は野口さんの祖国日本で熊本地震が起こります。これに対して、ネパールの貧しい少数民族のシェルパの方々が、当地の月収にあたるほどの額を送ってきてくれたと言うのです。これが基になって、野口さんはテント村をつくることに決めました。
 
手足が伸ばせるようになっただけではありません。間仕切りすらないような避難所に比べて、ずいぶん精神的に楽になったのではないでしょうか。もちろん、地震で壊れた家のことや、亡くなった方、傷ついた方々のことを思うと、楽だなどという言葉は控えるべきではありますが。
 
今日、エゼキエルは神殿の幻を見ます。イスラエルの神殿の構造は、モーセ五書に詳しく、まるで設計図のように記されていますが、やはり文化の違う私たちには、もうひとつピンときません。きっと、法隆寺のつくりや京都御所のつくりなどを学ぶような気持ちで、私たちもこれを学ぶ必要があるのでしょう。ただ、ここでいまそれをする暇はありません。関心の出てきた方はいずれ資料で調べて戴くとして、いまはざっくりと見てみようかと思います。
 
実はエゼキエル書では、この43章に至るまで、40章からずっと神殿の細かな設計図的描写が続いていました。門の近くにいた天使と思しき人に説明を受け、見たことを心に留め、イスラエルの家に語れと命じられるのです。神殿については、寸法を交えた、実にマニアックな描写でした。その挙句が、今日の箇所です。神殿に主の栄光が入り、玉座のあるべき場所、聖所のあるところに、いよいよエゼキエルが連れてこられた、という場面です。
 
43:7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。
43:8 彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。
 
ここで民が区分けされている様子が感じられます。ここは、主の王座のある場所であり、とこしえに主が住む場所です。しかし、別に「淫行」と「死体」によって、そこから別のところに置かれます。「淫行」とは穏やかでありませんが、聖書の世界ではこれは象徴的な表現であり、この主ならぬ他の偶像を神として拝み、主への信仰を棄てることを表すことは間違いないでしょう。その結果、死がもたらされるのですが、その死体については、汚れたものとして、触れたら神殿に上がれないなど、厳しい律法がありました。
 
主を棄てた者は、主に棄てられる。この神の場所には「王座」という言葉が見えましたが、逆に「民も王たちも」というように、棄てられる者たちにも「王」という言葉が見えました。これはおそらく、イスラエルの王とその家について厳しい裁きを言っているのでしょう。
 
当時、神殿では、神の聖所と王の住処つまり王宮とは、接していたと考えられています。それらは「壁一つの隔たり」で接していたのです。しかし、その壁の向こうとこちらとでは、永遠に近づけない距離がありました。片や聖なる主の王座、片や淫行と死体に汚れた人間の王、いかに一つの壁しかなかったとしても、それは、全く交わることのない、極端に異なる世界の境目となっていました。
 
ここにあるのは厳しい裁きであり、人間には超えられない全き壁でした。では、主の聖所の側に人は入ることはできないのでしょうか。
 
43:9 今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。
 
汚れた者たちから遠ざかれば、それは神の側に入ることになるかもしれません。主はとこしえに共に住んでくださる、つまりその者は神の国に迎えられると言っているように聞こえます。ですから、ここからがエゼキエルの使命です。新たな神殿で神に会う方法を知らせるのです。壁一つ向こうの、イスラエルを養い損ねた、偶像に跪いた地上の王たちは、永遠にそこには入れません。壁のこちら側に迎え入れられるには、何が必要なのでしょうか。エゼキエル書は、そこに「罪」を知ることを掲げます。
 
43:10 人の子よ、あなたはイスラエルの家にこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥じ、神殿のあるべき姿を測るためである。
43:11 もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば、神殿の計画と施設と出入り口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに知らせなさい。それを彼らの目の前で書き記し、そのすべての計画と掟に従って施工させなさい。
 
おおまかに捉えると、罪の悔い改めをもするならば、救われる道が与えられる、ということを表しているように、私は感じました。罪を恥じるならば、神殿の「計画と律法」を知らせよとエゼキエルは命じられています。それにより神殿を造るようにさせられるような言い方がなされています。これは「設計と指図」というような意味をもつこともある語だと受け止めてよいものだとすると、考えが走ります。ここで、神殿の設計というものが長らく描かれていました。それは、ただの設計図というよりも、神の定めた計画、神の中にある救いの道筋のようなものと重ねられていたのでしょう。神殿を建築するための実際の手順である指図は、すでにイスラエルに与えられた律法の中にあったのだ、というメッセージのようにも聞こえます。神の救いは、もう聖書の中に与えられていたではないか、ということです。
 
それは後に、イエス・キリストによって、万人に分かるように与えられていくことになります。私たちはその流れの中に立っています。けれども、いまその、ある意味での結論に急ぐことはやめておきましょう。もう少し、エゼキエルの幻の中に留まって、そこで与えられた救いと裁きについて、思いを深めていたいと願います。
 
それは、いま私たちがこれをどう読むか、という点です。ああまたか、と言われるかもしれませんが、これがなければ、私たちはただの聖書研究会をしているに過ぎません。私たちをそこに含まない形で、ひとつの対象として取り扱うことは、学問としての意味はありますが、信仰とは直接関係のないものとなります。私たちは礼拝においては、神との信頼の関係の中に置かれています。私たちは、聖書講演会を聞こうなどとは考えていないのです。
 
私が毎日ちびちびと読む本が何冊かあります。365日に分けられたタイプのもので、そのうちのひとつが、『み言葉の放つ光に生かされ』という本です。日本の教会の礼拝説教に大きな貢献をしてきた加藤常昭さんの書いた黙想のための日課です。その9月11日のところに、ルカ18章の徴税人とファリサイ派の人の祈りの場面が用いられています。
 
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 
ここから、加藤氏はこのように記しています。「聴く私たちは、自分は当然、この徴税人であると思い、ファリサイ派とは縁が遠いと考える。……だが、そのようにして私たちは胸を打つ祈りを忘れるのではないか。……それは開き直りでしかない。弱者の義を誇り、ファリサイ派と同じことになり、強者でないことを誇ることになる。」
 
さらに続けて、「罪のなかにある者は、神を仰ぎ見ることもできないのである。そこに主が求められる信仰が見出されるのではないか。」と結びます。
 
これは、私が日々の戒めとして掲げているテーマでありました。それで、そうだそうだと肯きながら、本を閉じました。しかし、そのように喜んだ瞬間、また罠に陥る危険があります。自分がまた、それで正しいんだ、というような精神構造に嵌まってしまうかもしれないからです。やったね、などと思った瞬間、私はもうこの徴税人の側にはおらず、ファリサイ派の側に立ってしまっていることになってしまうのです。
 
分かりにくい説明だったかもしれません。元来、これは説明などできない事柄であったように思うのです。同じ意識をもてる者には、説明がなくても分かってもらえることがあります。しかしもてない人には、いくら説明しても通じません。それが信仰の言葉です。きつい言い方かもしれませんが、先ほどの「壁一つの隔たり」により、見える景色も伝わる言葉も、全然違ってくるのです。
 
私は、徴税人の痛みを抱えています。徴税人の側にいるかどうか、それは私の決めることではありません。ただ、徴税人と共に、胸を叩いていたいだけの話です。そして、あなたはどうですか、と問いかけることしかできない者です。
 
でも、放り出すようなことはしないように努めます。いろいろな語り方をもすべきです。エゼキエル書の、先の箇所を取り上げましょう。
 
43:8 彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。
 
彼らというのは、主に背を向けた人々のことです。わたしというのは、天使と思しき人のことですが、いつしかそこから出る言葉は、もう主の言葉となってしまっています。彼らは偶像を造り、主の御名を汚したために、滅びの裁きを受けたというのです。これは、徴税人とファリサイ派の祈りの構図からすると、ファリサイ派の役割に比較できようかと思います。この彼らというのは、王家をはじめとしたリーダーたちです。金持ちであるとか、身分が高いとか、そういうステイタスもある人が多かったことでしょう。宗教的に優位に立っていたファリサイ派がこれに類するということは、分かりやすいだろうと思います。
 
義とされた、されない、というかの譬え話においては、神の目から見て、一つの壁の両側に置かれたということになるでしょう。壁一つ隔てて、大きく運命が変えられてしまうわけです。このような厳しい区分けは、羊と山羊という、かの地で明確にグループ分けしていたことに比較して、イエスが語ったこともありました。
 
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。(マタイ25:31)
 
イエスは、分けるのです。エゼキエルも、神が壁一つの隔たりで人を分けるのを見ました。まず、この壁というものについて、私たちは今日幾度も目を向けてきました。問題はここからです。
 
あなたはこの話を聞いたとき、その壁の、どちら側にいると思いましたか。
 
無意識に、神の側、救われる側に当然いるという聞き方をしていませんでしたか。いえ、それもある意味で健全なのです。自分は救われた、ハレルヤ、その救いの確信というものはひとつの輝ける信仰の姿です。むしろ、自分は救われているのだろうか、とくよくよすることこそ、イエスの救いを信じない、不信仰な態度であるという見方も当然できるのです。そのほうが、福音的な聖書理解であろうと思われます。
 
けれども、それだけで解決できるほど、聖書は単純なことしか言わなかったのでしょうか。単純かもしれませんね。幼子のようでなければ神の国には入れないのですし、複雑なことを考えすぎる人間はよく思われていないのが聖書の信仰というものなのでしょうから、ごくごく単純に、救われて感謝、というあり方でよいのかもしれません。
 
でもここで、加藤常昭さんのあの言葉をもう一度思い起こしましょう。「聴く私たちは、自分は当然、この徴税人であると思い、ファリサイ派とは縁が遠いと考える。……だが、そのようにして私たちは胸を打つ祈りを忘れるのではないか。……それは開き直りでしかない。弱者の義を誇り、ファリサイ派と同じことになり、強者でないことを誇ることになる。」
 
胸を打つ祈りの中に自分がいつもいるでしょうか。そのような祈りをしている人を見下していないでしょうか。そして、そのような人ではない自分を誇ろうとしていたことは、なかったでしょうか。
 
ここでは、「淫行」と「死体」が挙げられていました。神への背反と律法の汚れを指しているのかもしれません。法的に、あるいは道徳的に、よろしくないことをしていると思われる人に対して、私たちがどういう思いを抱いているか、振り返ってみてください。人の死に関わるようなことに、むしろ自分のほうが刃を向けていないかどうか、振り返ってみてください。
 
デリケートな問題なので、私も用心します。誰か当事者を傷つけてしまわないかと気遣いたいと願っています。でも話題にした瞬間に、傷つけてしまうことは否めません。災害で生死の境目にいた時に、自分が助かったせいで誰かを死なせてしまった、そんな人に、私たちは冷たい目を向けることがないでしょうか。感染症で苦しむ人に、自業自得だというような思いを抱いたことがないでしょうか。ワクチンを無駄にすることになった事故において、それをした人を責めるような発言をしたことがないでしょうか。事情のあるアボーションに至った女性を、人殺し呼ばわりした男性はいないでしょうか。私はその声を、教会の中ではっきりと聞きました。
 
アメリカのテキサス州の高校で、卒業式の総代の女子高生が、アボーションを事実上全面禁止とする法律に反対するスピーチをしたことが、今年の6月に話題になっていました。この法律について「非人間的な行い」と非難しました。高校側は彼女の卒業を保留する議論までしたそうですが、結果、卒業資格を剥奪される事はありませんでした。
 
テキサス州では9月1日から、この法律が施行されています。ホワイトハウスのサキ報道官はこの問題について男性記者から問われました。大統領はなぜアボーションの権利を支持するのか、と。サキ報道官は力強く答えています。あなたは男性だから分からないだろうが、「その選択に直面したことのある女性にとっては、これは信じられないほど難しいことです。大統領はその権利が尊重されるべきだと考えています。」と。
 
紋切り型の自己満足の塊だったファリサイ派が、イエスの目から見て壁の向こうに追いやられてしまって見えたように、私たちの、愛のない断罪や傲慢な見方が、壁の向こう側に私たちを連れていくことは間違いありません。そしてさらに具合の悪いことには、自分は徴税人なのだ、と得意げに語るとき、私たちはやはり同じように壁の向こう側に自ら移動してしまうことにさえなるということを、今日痛感したいと願います。
 
ただし、それではどこに福音があるのか、と問われそうです。今日のエゼキエル書の中には、「もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば」(11)という、救いの可能性が開かれていたことに注意しましょう。確かに壁一つの隔たりで、世界が完全に違ってしまうことを、私たちは知りました。そしてそのどちら側に自分がいるのかということについては、自分で決めてしまうな、という戒めを与えられたと思っています。
 
神との関係の内にあるのか、ないのか、そこにある壁は消え去りません。しかし、消え去る壁もあるのです。
 
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。(コロサイ2:14-15)
 
キリストは、私たちの中の敵意という隔ての壁は壊します。私たちの間で、絶望的に隔てられたと思われる人間の関係や、争いや、問題も、そして特に律法という人間世界に置かれた法則や規則、ルールや思い込みも含めて、隔てるものは廃棄されたのだ、という宣言があったのです。私たちには、キリストの愛という道が、まだ残されているのです。イエス・キリストが自ら語ったこと、自ら傷ついたこと、苦しんだこと、それらを他人事として距離を置いて見るようなところからではなく、気がつけばすぐそこにいつも共にいてくださるイエス・キリストの息づかいを感じながら、自分だけを優位に立たせるような錯覚を振り捨てて、神が最終的にどうなさるかは私たちが判断せずすべて委ねることとして、せめて私たちの見える世界においてだけでも、隔ての壁は実はないのだ、ということを信頼しつつ、ここに立ち、それから歩もうではありませんか。イエス・キリストがそこに示されているのですから。



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