自由意志

2021年9月26日

「現代思想」という月刊誌があって、毎回ひとつのテーマを特集して、それに関して様々な論者にその分野から論じた文章を集めている。先頃の特集は「自由意志」であった。
 
カントを少しでも学んだ者としては、これは聞き捨てならないテーマである。これが内としたら、カント哲学はすべて崩壊する。自由意志論があるとすると、反対するのは決定論というところであろうか。
 
この特集には、副題がついていた。「脳と心をめぐるアポリア」だという。こうなると、最近流行の脳科学を前面に押し出した形で、人間が自由意志だとこれまで考えていたことを分析していくのだろうか、とも思った。確かにそうした観点がないわけではなかったが、それほど重きをなしてはいなかった。「現代思想」の良いところは、様々な角度からの観点を持ち込んでくることだ。時に偏ったものもあるが、いろいろな考えがあることを知るのに都合が良い。
 
脳にまつわる実験とくれば、ベンジャミン・リベットが有名な実験を行っている。1989年代の事である。手首を曲げるときの脳波を調べ他のである。脳波が変化した後に手首が動くのは当然である。だが、被験者に、手首を曲げようと意図したのはいつかということを同時に調べると、脳波の変化より一瞬遅いことが分かったというのである。つまり、意志決定よりも脳の活動が先である、というのである。
 
もちろん、この実験への批判もあったし、その批判によって、また新たな観点が生まれるなど、叩き台としての意味を考えると、この実験は、優れた貢献をしたことになるかもしれない。
 
21人がこの特集に関わっている。いろいろ面白かった。それぞれ新しい素材を持ち出してきているようにも思えたし、そうでなければ執筆する意味はないのだが、それでも、古来の自由意志に関する思想も大いに考慮に入るような領域に収まっているような気がした。私の理解が浅いからそう思えたのかもしれないが。
 
但し、古来考えた人のいなかったような事例も、さすがこの時代、生まれてくる。フランクファート型事例と呼ばれるそうだが、それは道徳的責任の問題から自由意志を論ずる場に投げかけられた思考実験である。脳神経科学者がある人物の脳内にチップを埋め込んでいて操作しようとするとき、その人物が殺人を犯そうとするとき、そのチップなしで行ったが、もし殺人を思いとどまればチップが作動するという仕掛けだったら、この人物は殺人を避けることができなかったことになる。道徳的責任の問題を考える原理を、これは破るというのである。
 
いまも苦しむ人は多いが、以前「マインドコントロール」という言葉が巷に広まったことがあった。従来の言葉で言えば「洗脳」である。聖書を一部用いる、政治的宗教団体が、大学生を次々と誘い込んで、教団のロボットのようにしてしまうのであった。私も、夜中じゅう彼らのうちの一人と話をしたことがある。こちらの言うことを聞き入れない頑迷さを肌で感じたが、それは向こうもこちらをそう見ていたかもしれない。普通のキリスト教側でも、そこから彼らを救済するということで家族の許に戻そうと努めることがあったが、すると今度は人権侵害だと訴えられることにもなった。当の本人は、自分は自由意志でその宗教を信仰している、と言い張るため、それを拘束した側が、法に抵触するということにもなるのである。このとき「自由意志」とは何だろうかと思わされる。
 
しかし、このなにげなく用いた「自由意志」という言葉だが、「自由」とは何か、定義がなされないままに、人々は普通議論しているし、「意志」とは何か、という点についても、それぞれが思い描いたままの意味で理解しているような気がしてならない。こうなると、ヴィトゲンシュタインが問題提起したように、言葉による争いであるかのようにも見えてくるではないか。
 
ギリシア語の中動態についての考察がひとつの謎を解く扉を開いてくれたように私は感じているが、中動態を責任問題に重ねて紹介してくれた國分功一郎氏が指摘していた。古代ギリシア哲学には、私たちが理解するような「意志」という概念がなかったというのである。
 
聖書には「意志」と訳されている語はあるが、それですら、私たちと同じ理解に基づくものであるかどうか、それはいま私は分からない。アウグスティヌスあたりになると、この「自由意志」というものは非常に大きな位置を占めてくる考え方となるが、こうした場面では、「自由意志」という問題は、神と人間との関係の中にあった。宗教的な罪の問題と共に考慮に上るものであったと思われる。対論としての決定論ですら、神が定めるものという思想背景の中で論じられていたと見ることもできよう。そこから、カルヴァンの予定説は侃々諤々の議論となった。
 
それが、近代には、神抜きで考えられるようになった。大まかに捉えると、神に関連してではなく、金に関連して真剣に考えられるようになったというような気がしてならない。
 
私たちは、考えるフィールドにより、論点も結論も異なることが予想される。「自由意志」は、時代や文化によっても様々に論じられ得るし、そうでなければならない。それを、「自由意志」とはこれこれこうです、などと事実として断言するような説教者がいたら、眉唾ものと決めてよい。信仰として語ることは差し支えないが、事実として断言してしまうことはできないからである。いろいろな人がいろいろな立場から、また背景から、考えあぐねていることを、いとも簡単に、これこれこうです、と言い切るような暴力的な決めつけをする説教があったら、それこそ私たちは、そのような人は信用するに足りない、と決めつけてよいだろう。その人は、世の中にある一人ひとり異なる人たちを、すべて同じものとして括ってしまう考え方が平気でできるからである。つまりは、目の前にいるその人のことを尊重することができず、自分の考えの枠に無理矢理当てはめることしかできないということである。
 
さあ、自由とは何か、意志とは何か、私たちは多くの論客の声に囲まれて、いまここでまた考えることができる場が与えられた。それを、神の前にいる自分において考える人と、神抜きで考える人とが、区別されるかもしれないが、私はさしあたり前者になってしまった、ということを改めて知るのであった。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります