キャッチボール

2021年9月18日

キャッチボールをする親子を、昔は時折見かけた。だが、いま見ることがない。昔はありきたりだった風景も、時と共に見られなくなり、それに伴い、生活様式だけでなく、考え方や文化まで変わってしまうという法則をここにも感じる。
 
そもそも、キャッチボールができる「広場」がなくなった。整備して設置された「公園」は、決まって「キャッチボール禁止」である。できる場所が身近にあるというのは、特権的な価値があるといってよい。だが、せっかくの特権も、用いる人がいるのかどうか。
 
私は父とキャッチボールをしてもらった。大人の球は速くて重かった。グラブの掌がじぃんとしびれた。家の事情で仕事に明け暮れていた父だったが、週に一度、うまくいけばキャッチボールをしてくれた。家の前に、それができる場所があった。
 
子どもたちは野球が好きだった。正確に言えばソフトボールだ。軟球さえ使わない。投手は下手投げだ。広場はあっても、今にして思えばあんな狭さでよくやっていたと思う。三角ベースだろうが、よくぞできたものだ。ファウルボールが近所の家に飛び込むことが度々で、「ボール取らせてくださーい」と叫んで門の中に入るというのが子どもたちの常識だった。いまならとてもそんな寛大な家はないだろう。昔は咎める人はいなかった。
 
そんな私だから、自分の子どもたちにも、野球は教えた。グラブは、高いものではないが、それなりにしっかりしたものを買った。ソフト軟球あたりがちょうどよかったが、上手投げで私が投げて打たせるということもよくやった。小さいときからグラブをはめさせていたので、捕球もなかなか巧くなったし、投げるのは子どもながら、自分の子どもの時のように「普通に」投げられるようになった。
 
「普通に」とわざわざ言うのは何故か。それは、その後の世代の子どもたちを見ると、投げられない子がひどく多くなっているからである。投擲能力が格段に落ちている。
 
一時サッカーブームもあり、野球の人気が落ちたせいもあるかもしれない。だがそんな時でも、野球は一定の市民権のある遊びであり、プロ野球の話は子どもたちに「普通に」通じた。それが、いつしか、野球の話をしても「分からない」という子のほうが多くなった。今では、プロ野球のチーム名を持ち出しても、知らないという小中学生が大半である。
 
こうなると、「普通に」投げることができないというのも、肯ける。特にキャッチボールは野球の基本であるから、野球部であれば嫌というほど、それをするだろうけれども、キャッチボールの経験のない子どもが、そのまま大人になっていくということがあたりまえになっているように見える。
 
ベタな話で恐縮だが、キャッチボールは、心のやりとりに喩えられることが多かった。言葉を投げては、それを受ける。そしてまた言葉を投げては、受ける。その言葉には心が詰まっている。相手の心を受け止めることがキャッチだ。それを捕球することなしには、対話あるいは心の通い合いは成り立たない。もちろん、相手が受け取れないような暴投をすることもよくない。自分だけが好き勝手に話しても、相手はキャッチできないのである。それぞれが相手を信頼して、投げ、そして受ける。このやりとりが、人間におけるコミュニケーションの姿である、と喩えていたのである。
 
それが、そのキャッチボールというものがポピュラーでなくなり、前提として知っているものではなくなったとなると、喩えの効力がなくなる。それはただ表現の上での問題だけではないような気がする。
 
何かに喩えても、子どもたちはきょとんとしている、そんなシーンを多く見るようになった。それはたんに世代の差、生活環境の違いというだけの問題だと理解することもできるだろう。「彼女の家に電話をするのは勇気が要るのだよ、父親が出たらドギマギしてね」などと話しても、中学生たちは一瞬そのシチュエーションを想像して、それからの反応ということになる。それも、想像力豊かな子どもたちでやっとそうなのであって、まるで理解できないという顔をされることもある。無理もない。英語で「夢は叶う」のような文があれば「ドリカム」が浮かんでくるのはもう相当な大人のみであり、中学生のクラスでは誰一人「ドリカム」など知らない。
 
先ほど、「普通に」投げることができないという言い方をした。現場で見ている学校の教師だと、投擲能力の劣化が著しいことを見ているはずであるが、そもそもその教師世代からしてすでに、まともな投げ方を知らないという場合があるので、子どもたちのどこがおかしいのか感じ取れていない可能性もある。また、うまく投げられない子どもたちがたくさんいることも、もはやあたりまえの前提であるように受け止めているかもしれない。ちょうど、鉛筆の握り方がもうアナキズムめいていて、不条理な世界を見ているような気持ちにすらなれないのと同様に。
 
何気ないキャッチボールのようであっても、かなり想像力が働いているといえる。相手が捕球の構えができているかいないかは、見れば分かるものだが、しかしそれも阿吽の呼吸というものがあり、その心情を想像しながら投げるものである。いま投げてよいかわるいか、そんなことを心の中で感じ取りながら、投げているはずである。自分の状態だけを考えて無造作に投げるものではない。ちゃんと相手を見て、投げるのである。
 
投げ方自体も変だし、いつどのように投げてよいのかも分からない。キャッチボールという喩えの中で、この部分は深刻である。つまり、心を、どう投げてよいのか分からない。心を相手に伝える仕方が分からない。そして、どのタイミングで心を伝えるか、また、相手がそれを受け止める準備ができているかどうか、それが身についていない。まだこのキャッチボールの喩えは活きているように思いたいのだが、それを子どもたちにはなかなか伝えることができない。私自身、キャッチボールができていないのである。
 
そういうあんた自身が、空気読めていないよ。そういう声がいま聞こえてきそうである。長々と文章を書いても、誰も読まないよ。そのうち、狼少年のように、短い文章を書いたところで端から読まれもしないようになってしまったのだよ、などと言われて。あんたの言うことは尤もらしいが、自己満足であるし、誰の心にも響きはしない。ひとの気持ちなんて考えずに、自分が正しいというばかりに偉そうに書いていても、面白くもないし、読んでも腹が立ってくるよ。ひとの悪いところばかり指摘するみたいで、読んでも不快なのだよ。だから読んでなんかいないよ。こういう声が多いのだろう。(そうでなく心重ねて読んでくださっている方がいらっしゃることも存じ上げています。感謝しきりです。)
 
ごもっとも。元々私は、ひとの心が分からなかった。コミュニケーションは下手である。人気を取るようなしゃれたことは言えない。人が注目するようなステイタスもない。もともと自分を宣伝するようなつもりもないから、ウリやアピールを求めようともしていない。ひとに媚びないというようなものではないと思うが、小さな頃から協調性がないと言われた。だがそれは、ひとの言いなりにならないという点では、必ずしも悪いことではないと理解できるようになった。
 
そう、聖書に出会うと、そこに実に大きな慰めがあることを知ったのである。イエス自身、最も協調性のない方であった。そもそも地上生涯において誰かに理解されていただろうか。人気があったというのは、癒しとパンによるものであった。ヨハネによる福音書だと、呆れて殆どの弟子たちが去って行ったとされている。逮捕のときには十二弟子たちも逃げ去った。話したことを、弟子たちはそのときには全く分かっていなかった。イエスの孤独は、私たちのものとは質が違う。私たちは、それなりに誰かと話ができる。それなりに分かってくれる人がいる。だがイエスは、父なる神のほかはそれがなかった。
 
預言者たちもそうである。神の言葉を叫んでも、それをまともに聞く人はいなかった。エレミヤは私の愛する預言者であるが、叫んでも綴っても、反発され棄てられ、どうしようもなく孤独だった。エリヤもそうとうに惨めな生涯を送ったのではなかったか。エリシャはわずかに、預言者仲間に囲まれ、一定のステイタスをもっていたような気がするが、概ね一方的に言い放つばかりの一生であったように見える。
 
もてはやされ、優雅な生涯を送ったのは、ソロモンである。放つ言葉を誰もが喜び、栄華を極めた。だか彼は幸福だったのだろうか。ダビデは悉く人に裏切られ、命を狙われ、子育てにも失敗し、ほろりと一度惹かれたバト・シェバに結局いいように扱われた。だが、彼の心は神に結びついていた。ソロモンはそうではなかった。
 
もちろん、パウロも人々との関係からいえば散々だった。コリント教会には手を焼き、悪口をたたかれ、ガラテヤの教会も心が離れていく。命の危機は計り知れず、伝道仲間とすら大げんかをして分かれている。ろくな人生ではない。
 
聖書では、ちやほやされなかった人に、神の目が止まっているように見えて仕方がない。私は、聖書の真の著者と、キャッチボールをしたいと願っている。それは祈りであり、賛美なのである。



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