パラリンピック閉幕

2021年9月6日

東京2020と称されたオリンピック・パラリンピックは1年延期という異例の開催となった。疫病という問題のために、延期開催についても、賛否両論あった。
 
ウイルスの感染において先が読めないだけに、そしてそれが少なからぬ人々の生命を脅かし、さらに経済を危機に導く可能性がある故に、慎重な意見が出るのは尤もだった。
 
だが、開催しなければ感染は止まるのか、減少するのか。開催しないことが感染拡大予防に有効であるのか、その検証なり、シミュレーションなりを欠くとなると、ただの感情か印象だけの問題でしかなくなる。
 
誤解しないで戴きたい。私は医療従事者を家族にもつ。医療従事者の立場からすると、感染拡大というものが何を意味するか、一般とは違う知識をもっており、それ故の恐怖と不安がある。その現場に立つ者であるということは、感染者と接触しなければならず、消毒や一般患者への配慮もさることながら、ワクチン接種の業務が加わり、さらにこれは行政の無策だと思うが、小さな医院にワクチン接種の予約電話が殺到するというのは、手が回るはずのない情況を引き起こす。感染拡大につながることを歓迎することはできない。
 
ほかにも、オリンピックへの反対者は、こんなことも言う場合があった。税金を払っているのは自分たちだ、その金をほかへ回せ。施設を無駄に建築するばかりだ。都市整備はホームレスを追い出している。建築のために海外の木を伐採したり、当地の労働者から搾取したりしている。
 
あるいはまた、パラリンピックのために(民間の募金のほかにも)多額の援助を受けて体を使って競技ができる障害者は恵まれた人々であって、重度の障害者が疎外され忘れられていることが、何の多様性や共生だというのか、といった厳しい問題提起もあった。
 
たしかに金を膨大に使う。ただ、金をどう使うかについての問題は、オリンピックに限らない。むしろその点を憤るなら、数限りなく甚大な相手が社会にはいくらでもある。オリンピック関係者への弁当が廃棄されたなどと言って、だからオリンピックは駄目だという空気を出したい声もあったが、私たちが日常的にそれとは比較にならないだけの食料廃棄を年間やってしまっていることは、JAROも最近強調していた。
 
施設の建築は、確かにその通りだ。だがそれはたとえば都市整備のための投資にもなるし、建築業のため、また失業者のためにも何かしら役立つ可能性がある。たとえそういう点がなかったとしても、無駄な施設の建築は日常的にこれまたいくらでもあるわけで、オリンピックだけを標的にすることはフェアではない。
 
ホームレスの居場所を奪うことが起きたのも、事実かもしれない。だがこれも、オリンピックをしなかったらホームレスの方々は守られていることになるのだろうか。まさにオリンピック開催が、ホームレスの方々を苦しめている主因なのだろうか。
 
森林伐採や搾取の件についても、ありうることだろう。だが、これを非難するならば、私たちはそもそも誰も生活できないのではないか。私たちの衣食住すべてにわたり、その指摘はすべて当てはまっているのではないか。私たちが資源を浪費し、安い衣料品や食料品を買い求めたとき、それは海外の誰かの搾取により価格なのだという点から、誰か清く離れた人がいるのだろうか。
 
これらのことがオリンピックに伴うことは事実であるとしても、そこを突くのは、私から見ればフェアではない。政府に不満なのか、オリンピックそのものを嫌悪しているのか、背景は分からないが、まず結論ありきで、そのために、他の方面ではもっと大きな問題であることには触れずにオリンピックだけを標的にして責めているようにしか見えないからである。
 
最後の、パラリンピックのテーマの「多様性」が、パラリンピックに登場する一握りの「恵まれた」アスリートだけを取り上げて実現できたなどと満足するなよ、という批判も、その通りである。但しそれは、そこに登場した選手だけで実現したのだなど思い込んでいたとしたら、の話である。選手たちは例外なく、スタッフや援助者への感謝をインタビューで口にしていた。念願のメダルを受けた選手が表彰台で、援助者の首にまずそれを掛けたという場面が、それを象徴していると思う。
 
健常者ですら、彼らの競技を見て、感動を覚えた人が少なくないだろう。そして、自分も頑張ろうと前向きになったという人もいるだろう。だったらまた、障害を負った人も、何かしら力を与えられることが、あったのかもしれないと思ってはいけないだろうか。もちろん人により感じ方は様々であろう。そんなふうには思えない人もいるだろうが、重度の障害者にも何か感じられたらよいと希望したいし、社会が、障害者全般に気を払うようなふうに動いていくなら、重度の方にも、何か良い影響があると期待したいと思う。
 
障害者はかつて、人前に出てはいけない存在だった。いま差別用語となっているのでここでは挙げないが、かつては人目につくと、そのような用語を浴びていた。そもそも親は子を家の外には出さず、「座敷牢」に入れられたままというようなことも珍しくなかった。パラリンピックを見ていた小さな子が、選手たちに何の違和感ももたずに「すごいね」と応援してたというような声も紹介されていたが、パラリンピックはこうした若い世代を育てていく。こうしたことは、ろう者についてはすでに事実明らかになっている。運転免許も取れず、財産管理も許されないようにしていたのは、聴者たちであった。かつて「手まね」と軽蔑されていた手話は、いまどれほど適切に若い世代に認識されているか、それを知らないのは年寄りだけであるかもしれない。
 
閉会式で希望が主張されていたように、これからまた変わっていくことを期待する、こうした催しが、少しずつかもしれないけれど、確実に、社会を変えていく。#WeThe15 のハッシュタグが開閉開式で示されたが、15%もいる「障害者(という表現が適切であるかどうかはいまは問わないで戴きたい)」を、「健常者(という表現が適切であるかどうかはいまは問わないで戴きたい)」が、いかに差別し、疎外し、排除しているかどうか、そこに気づかされる機会になるだけでも、「多様性」を訴える意味は十分にあるはずである。
 
閉会式で最後に、櫻井翔さんが印象的なことを語ってくれていた。ずっとパラリンピック選手たちを取材してきたからこその熱弁であった。選手たちが自由に楽しそうにフィールドで活躍している。それは何故かと尋ねると、彼らは言う。ここでなら、自分は自由に活動できるんだ。そうか、と気づかされた。しかし待てよ。ということは、彼らはフィールド以外で、一般社会では、自由に活動できないということではないか。彼らに生活しづらい社会を、インフラであれメンタルであれ、自分たちが作っている、そこに気づいて、誰もが同じような自由さをもてる(それはわがままが許されるという意味でないことは当然である)世の中をつくることが必要なのではないか。こんなふうな内容であったと記憶している。
 
但し、パラリンピックにはろう者は招かれない。それでかねてからデフリンピックというものが開催されているが、こちらはマイナーであるために資金的にも厳しいものがある。今回のパラリンピックでは、様々な場面で手話が注目されていたのがよかったと思う。選手としてろう者であるという理由だけでは参加できないパラリンピックであったが、閉会式でも手話で歌が訳されている場面があった。オリンピックの開会式に手話通訳がないということを訴えた方がいて(私はその方の活動や考えを以前から知っているので、その話を聞いたときから陰ながら応援していた)、Eテレのほうであったが、手話通訳が前面につくパラリンピックの開閉開式があり、一般にも非常に評判になった。手話通訳を知る者にはあたりまえのことだが、画面をじっと見ているだけの通訳者がおもしろい、というのだ。手話通訳というものについても、道を拓いたのではなかったかと考えている。
 
私は仕事の関係で、オリンピックのほうはあまり視聴できず、パラリンピックはゆっくり視聴できた。それで知るところのものがパラリンピックに傾いてしまうのだが、オリンピックにしても、個人的に思うところはある。確かにショーの要素が多くなり、莫大な金を使うようになった。利権の問題でのいざこざもある。しかし、オリンピックは別名「平和の祭典」と呼ばれる。偽善だ、と呼ぶ人もいるが、少しだけ考えてみたい。古代ギリシアでは、このオリンピア競技のときだけは、様々な争いは一旦棚上げにしていたと聞いている。それで平和の祭典と呼ばれるのかどうか知らないが、現代、そこまで紳士協定が可能なのかどうかは別として(今回もアフガニスタンの選手については様々あったし、相当に心配しているのだが)、もし四年に一度のこの催しがなかったら、私たち人類は、「平和」について、どれほど真剣に考える機会をもつだろうか、考えて見たい。定期的に薬を呑むからこそ、その薬は効能をもつのであるが、薬を呑み忘れると、さて、その病気は体を蝕むということにならないだろうか。何年か毎に、偽善的であろうと、「平和」について心動かす機会があることは、無意味であるようには思えないのだ。もちろん、1936年のベルリンオリンピックのような例はある。だが例があるからこそ、私たちは痛い学習をしたというふうに見てもよいと理解してもよいのではないか。
 
閉会式の「ダイバーcity」は、もちろん diversity をかけており、思わず笑ってしまったが、私たちは短い間でも、こうした問題を真面目に考えたことが、小さくはないと希望している。特に若い世代は、素直に受け止めてくれることが大いに期待できる。その世代が、SDGsを、ほんとうの意味で考えてくれることを望んでいる。いまやこの理念は、企業の金儲けの手段であるかのように考えるおじさんたちにより危険な扱い方をされているように見えるが、これからの時代を変える種になるのであれば、どうぞスポーツの祭典を開催し続けてもらいたいと願っている。
 
東日本大震災での被災地の花が表彰台での花束の正体であったこと、食材も被災地から供給されていたことを、閉会式の最後に大会委員長が明らかにした。いったいどこが復興五輪だ、と吠えていた人の心にも、何か響いただろうか。
 
そのように、私的にオリンピック開催を非難したり、揶揄したりしていた人たちが、その後もう言わなくなってしまったのはどういうわけか、私は知りたい。自分が正しい主張をしていると思うのなら、続けて言えばよいのに、と思う。私は開催には賛否両論あるだろうと言っており、どちらが正解だと決める権限を持たない。反対論が正しいと思うのなら、これからこそ言い続けてほしいと思う。そうでないと、あの発言者たちは、その都度威勢のよいものに倣って外野から声を挙げるばかりで、様子を見て考えを簡単に変えるような群衆であるということになってしまう。実はそれこそが最も怖い存在なのだということを、私はこれまでも説明してきた。だとすると、かの人たちこそが、この国や社会を、危険にもちこむ張本人ということになりかねないわけである。
 
さらに言えば、この感染拡大の中でオリンピックを開くなどどうかしている、などと非難していた人も中にはいた。たしかに聖書の旧約聖書続編の中でも、マカバイ二4:14ではそうした競技を異教のものと近寄せないし、キリスト教がローマ帝国の国教になったことが、古代オリンピア競技の滅亡の原因であったことなど、キリスト教の一部でも、そうした声はあった。
 
しかし、それを理由に激しく非難したり揶揄したりしていた人々が、医療従事者のために祈っているとか、医療を気遣っているとかいう発言したことを、たぶん私は全く知らない(知っていたら知らせてほしいと募ったが、お知らせはなかった)。ほんとうに医療従事者や保健業務者のことを、大切に思っていたのだろうか、少なくとも発言の上では疑わしいと言わざるをえない。否むしろ、医療従事者そのものに、また、コロナ禍の故に苦しんでいる人そのものに、無関心だったのではないか、とさえ勘ぐっている。
 
そうだ。日本では何故かマザー・テレサの名で知られるようになった、ヴィーゼルという人の有名な言葉がある。
 
The opposite of love is not hate, it’s indifference.



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