【メッセージ】騙らずに語るように

2021年8月15日

(エゼキエル13:1-23)

人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。(エゼキエル13:2)
 
礼拝で説教を語る者は、その準備が大変だろうと思われます。毎週、必ず語らなければなりません。マンガ(に限らないけれど)週刊誌やアニメ制作会社の苦労と比較しても仕方がありませんが、違うのは個人的に背負い込むということでしょうか。時に、徹夜して夜明けと共に書き終わったといった逸話を明かす人もいます。今週は忙しくて大変でした、と人間っぽい苦労から説教を語り始める人も見かけます。
 
けれども私は、これをやってはいけないと考えます。苟も、神の言葉を取り次ぐのが講壇というものです。これではまるで、人間の苦労により書き上げたものを発表しますと言っているようなものにならないでしょうか。人間的に労苦した汗の結晶であるかのように語るというのは、それが神の言葉であるというのは嘘ですよ、と言っているように聞こえることに、気づいてもらいたいと願います。一週間に一度のこの礼拝で語られる言葉を、命がけで待つ人もいるのです。いえ、命を懸けてそれを聴くというのが、当然の信仰生活であり、当然の礼拝というものではないでしょうか。
 
毎週の礼拝だとだれてしまい、慣れっこになって、偶にはいいでしょ、と言わんばかりに、ちょっとくらい息抜きさせてほしいとか、人間っぽいギャグをかまそうとか、そんな誘惑に陥ることがあるかもしれません。でも、その礼拝が人生最後の礼拝出席になる人がいるかもしれないのです。そうでなくても、かけがえのない「いま、ここ」での神との出会いを求める思いでそこに座っている人、あるいはその時に救われるはずであった求める人がいたかもしれないのに、がっかりさせるということがあったとしたら、こうしたことはまさに命の問題であるということになります。
 
誰それに頼まれて今日は招かれました、仕方ないですね、といったふうな挨拶を説教の中でしたゲストもいました。確かに、罪を犯した司祭から受けた洗礼は無意味であろうかという悩みに対して、そんなことはない、という理解が一般的ではありますが、説教そのものを人間的な柵や自慢の種にするようなことでけは、決してしてはならないことだということを、私は語る者の戒めと考えて譲りません。そうした人に限って、話す内容には霊的なものは何もなく、予想通り人間的な知識の羅列に終わってしまったのも、必然であったと理解しています。
 
エゼキエルは今回、「イスラエルの預言者」たちを相手にします。相手にするというのは、対戦するという意味ではなくて、主なる神から、イスラエルの預言者たちに言え、と命じられるわけで、どんなふうに言うのかをじっと聞いている、というその場面を読みます。私たちにもそれは投げかけられているという当事者意識で、共に神の言葉を受けていきたいと思います。
 
預言者というのは、神の言葉を預かり、人々に告げる役割をもつ人のことです。これが、いま申しました、説教者であるという理解は、現代においてどうしても必要な視点だろうと思います。礼拝の場で、これは神の言葉だと示すのは、まさに、「主は言われる」と言葉を告げる預言者と重なって然るべきだと思われるからです。
 
神がエゼキエルに、こんな預言者ではいけない、という見本が、ここから並ぶことになります。いわば悪い説教者の見本が挙げられますから、こうして語る私にとっては実に耳の痛い話となります。おまえがそれだ、とナタンに指さされるような思いにずっと苛まれておりますが、それでも改めて、「主は言われる」という立場に徹しながら、私が受けたことを分かち合いたいと願っています。
 
13:2 「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。
13:3 主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。
 
エゼキエルはいつものように、突然主からの言葉を聞きます。言葉が突き刺さるようにやってきます。ここに、イスラエルの預言者たちがどのような人々であるか、はっきりと定義づけられています。「自分の心のままに預言する者たち」であり、「自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たち」です。対句的ですが、同じようなことを言っていることが分かります。神から聞く野ではなく、自分が思う通りに考えたことを、これが神の言葉だと語り、それを実行するのです。
 
耳の痛い話だと思いませんか。耳が痛くなってほしいと思います。私も思います。これは神のみこころです、などと叫んでいるけれども、実は自分の考えでしかないのではないか。それを考えるのはとても恐ろしいことです。最初に、礼拝説教は、神の言葉を語ることだと申しました。そこなのです。いったい、如何にして説教の言葉は、神の言葉となるのでしょうか。これは究極の信仰の問いとなります。ですからいまその問題に拘泥することは控えておきます。皆さまも、それぞれにお考えくだされば幸いです。
 
聖書解釈研究ではありませんから、記事の細かなところは飛ばして読んでいくことをお許しください。次は第一のポイントです。今日は、この批判されるべき「預言者たち」が、どのような預言者であるのか、それを受け止めていきたいと考えています。
 
13:6 彼らはむなしい幻を見、欺きの占いを行い、主から遣わされてもいないのに、『主は言われる』と言って、その言葉が成就するのを待っている。
 
主が敵視するのは、「むなしい幻を見る」預言者であり、「欺きの占いを行う」預言者です。これは繰り返し言及されます。幻を見た、と口では言います。しかしそれはむなしい、つまり中身のないもの、実体のないものです。つまりは現実とはならないただの空想の世界のものである、ということでしょう。「占い」とは、神からのものでなく、自分が求める何かしら霊的なものに運命を委ねることですから、言うなれば悪魔に意志を委ねるような行為です。それは人々を騙すためのものです。欺くための言葉としてそれをばらまきます。こうして畳みかけられると、ほんとうに語る者は居場所がなくなっていくのではないかという恐怖と戦わなければなりません。
 
これに対して主が怒り、どう対応するかということがこの後告げられますが、今日はそれに関わらないでいきます。私たちは、主の裁きを見ると、自分が裁かれるとは少しも思わない悪い癖をもっています。主が悪者を裁くと、いい気味だ、とは思いますが、自分が裁かれる立場にあることをすっかり忘れてしまいます。そこで今日は、そのざまあみろの部分を拾わずにいこうと思うのです。
 
13:10 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。
 
次は、彼らが「民を惑わす」預言者だとしていますが、その惑わし方が、平和がないのに平和だと言う、という具体性を伴っています。このことについては、エゼキエル書のほかに、エレミヤ書に例があります。引用してみましょう。
 
預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ6:13-14)
 
預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
彼らは、おとめなるわが民の破滅を
手軽に治療して
平和がないのに「平和、平和」と言う。(エレミヤ8:10-11)
 
ここでも預言者です。エルサレムが陥落するまで、奇跡的に救われた例もありますが、エレミヤは悲観的でした。この「平和」を、私たちは私たちの世界においては「大丈夫」に替えてみましょう。「大変だ、このままではどうなるんだろう」「大丈夫、大丈夫」、こうした様子を想像してみましょう。「新型コロナウイルスで医療崩壊すると言われている、感染もまた拡大しているようだし、もっと用心しなければならない」「大丈夫、大丈夫」、どうですか、ありませんか、こんなの。「教会に来る人が減っているんだって。このままいくと、教会がなくなっていくんじゃないだろうか」「大丈夫、大丈夫」、こんな慰め、ありませんか。そうならないように神さまがなんとかしてくださるよ、そんなふうに言うのは、恰も強い信仰があるかのようですが、概ね、無責任に根拠のない安心を漏らしているだけではありませんか。自分で何かをすることについて責任を負うような営みをすることなく、ただ「大丈夫、大丈夫」と繰り返す人は、エレミヤもエゼキエルも、徹底して批判されているのではないでしょうか。
 
ここで、「壁を築くときに漆喰を上塗りする」ことについて触れておく必要があろうかと思います。漆喰とは、消石灰を主成分とするもので、壁に塗って強度を増すためのものです。空気中の二酸化炭素を吸収して、元の石灰石に長い年月を経て戻っていくと、それはそれは頑丈な壁となります。湿気が多ければ吸湿し、乾燥すれば放湿してうまい具合に水蒸気量を調節してくれますし、昔からある知恵です。
 
聖書では、バベルの塔の建設のときにすでに登場しています。
 
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
 
何故かこちらではひらがななのですが、漆喰があるのは当たり前、それよりさらに接着力を考えたのか、アスファルトまで使っています。人類の創世記の頃ですよ。この頃には天然のアスファルトがあったようで、原油の一部がそのように利用されていたようです。この後ノアの箱舟の製作にもタール(創世記6:14)と言われていますが、似たようなものではないでしょうか。古代メソポタミアや古代エジプトでも確実に使われており、ミイラの防腐剤にもなったと言われています。
 
アスファルトもそうですが漆喰でも、壁を塗り固めるための素材です。これを塗れば壁は強くなる、とするのですが、神はかの預言者たちが民を惑わすのは、「壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ」と言っていました。そう、その中身の壁そのものが脆いのです。嘘偽りですから、いくら表面で「大丈夫」などと言ってみても、中身の預言が間違っており、崩れ落ちるものですから、壁そのものが破壊された時には、あの上塗りはいったい何だったのかね、と皮肉で対処していることになります。
 
続いてその預言者たちに対して告げるべきことは、こういうふうなことです。
 
13:17 人の子よ、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女らに預言しなさい。
13:18 あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。災いだ、人々の魂を捕らえようとして、どの手首にも呪術のひもを縫い付け、どんな大きさの頭にも合わせて呪術の頭巾を作る女たちよ。お前たちはわたしの民の魂を捕らえ、自分たちの仲間の魂を生かしておこうとする。
13:19 お前たちは、ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに、わが民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入るわが民を欺くことによって、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきではない者を生かしている。
 
自分の言うことをも信じさせるために、「呪術のひも」と「呪術の頭巾」を作るが、それは善き人を殺すことになってしまう、と言っています。具体的には細かなことは分かりません。占い、まじないの道具であることは確かです。それで人の魂を救おうとすることがそもそも間違っている、というふうに言いたいのだと思われます。
 
さて、信徒訓練として、説教壇に一般信徒が立つことがあります。そういうことを認めない教派もあれば、積極的にさせる教派もあります。特別な訓練や教育課程を受けていないから駄目だ、とするのも一つの考えですが、良い説教を長く聞いている信徒の中には、なかなか素晴らしい説教を語ることができる人もいます。スヌーピーの著者であったチャールズ・M・シュルツ氏も語ることがあったと聞いています。それだから、あの謎めいたコママンガの中に聖書的なエッセンスが描かれ、またスヌーピーが時にキリストの役を負っていると評されることもあったのだと思われます。
 
ですからその人によることは言うまでもないのですが、実例としては様々です。集会で、自分の証詞を語る場合があり、信仰生活が長くなると、話すことにも慣れ、話す内容も磨かれていくことがあります。信仰の体験談を語るということについては、実感もあり、非常に心惹かれるものもあるのですが、さて、これを礼拝説教として語るとなると、また違う印象を受けます。引いた聖書箇所とのつながりが薄かったり、取って付けたようであったりすることが目立ちます。
 
きっちり説き明かしをする牧師の説教を長く聞いた信徒の中には、聖書との兼ね合いも経験的に分かっていますので、そのまま牧師として語り続けてもよいような説教ができる場合もありますが、ある人の場合には、その後、語ることとは正反対の愛のない態度をとって教会をがたがたにしてしまうということもありました。逆に言えば、説教として語るその場面と、語る人物の人格や生き方というものは、必ずしも常に一致するものではないということも教えられます。オリンピックの開催を率いる責任者が幾人も、過去の思想や発言を指摘されて、その任を解かれるというばたばたしたことが先月目立ちましたが、その解任などは仕方がないにせよ、その人の音楽性や才能そのものを否定する理由にはならないことは言うまでもありません。洗礼を授けた牧師が後に解任されたときにはその洗礼は無意味なのか、という議論は、昔から教会にはよくあるものでした。
 
こうして、礼拝の場で語られた言葉、それは語る人物とは別物だという理解が可能になります。その人物の口を通して、たまたまその時に語られたわけで、聖書から語られたことに、聞く者は心を開いて聞き入れてよいのでありましょうし、つまりはそこで語られた言葉が神の言葉だと受け止めてよいのではないか、という問いかけがここにあります。少なくとも、聞く者は、そのように語る者のために祈って戴きたいと願います。昔から「通り良き管となるように」と、語る牧師のために信徒が礼拝の中で祈るということがありました。語る側も、管となって、天上からの心を伝えていければと自ら求める用でもありました。
 
しかし、がっかりすることも多々ありました。信仰があるような顔をしておきながら、そして物腰はそれなりに謙遜に見えはするものの、語れば実にだらしない、無知と無理解をも露呈してしまう人がいました。器用に話はするのですが、聖書の核心には触れることのできない人もいました。つまり、今にして総合的に考えるならば、この人たちは、神と出会ってなどいなかったし、神の救いというものを経験したことがなかったとしか考えられないのです。一人は、自分の罪が赦された経験がなかったようでしたし、もう一人は、自分に罪があるなどとは全く考えられなかったがための、口のうまい話でしかありませんでした。
 
確かに学べば、一定の知識は得られるでしょう。説教もたくさん聞いていれば、説教の形式は分かるでしょう。しかし、私たちはあれほど長い間学校に行ったとしても、誰もが教師として授業ができるわけではないのと同様に、説教というものは、やはり学びか、または才覚というものが必要になるのでしょう。それも、イエス・キリストに出会って救われた、という明確な体験がそこにもしなかったら、やはり語るものは説教にはならないのです。
 
自分に罪があること、キリストがそこから救ったこと、やはり昔から信仰箇条として挙げられてきたいくつかのポイントが経験されていなかったら、いくらそれらしく語っても、命がありません。命を注ぐことができません。自戒を込めてそのようなことを言ってしまいますが、これを思い起こしたのも、このエゼキエル書に、しきりに「むなしい幻」と出てきたからでした。もしかすると、当人には欺く意図はなかったかもしれません。しかし、少なくともそれは「むなしい幻」ではありました。中身がなかったのです。
 
神の言葉を取り次ぐ。これが、説教で語る者の使命です。自分の思想を説得する場所ではありません。聞く者の魂を生かす、つまり命をもたらすのが仕事です。神と人との応答としてこそ成り立つ礼拝だからこそ、この聖書を通じて神の心を伝えることは、非常に大きな役割を担うこととなります。だからこそ、「通り良き管」となることが求められるのであり、必要なのです。
 
エゼキエルは今日開かれた箇所で、「自分の心のままに預言する者たち」、すなわち「自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たち」に徹底的に対抗するように、主から命じられました。ここまで、その預言者たちに対して主がどう臨むかという点には触れず、非難されるべき当該の預言者たちがどのようなことをしていたのか、どのような点がよくないのか、それを挙げた部分を拾って見てきました。主がそれに対してその都度主がどう対処するか、それはある意味で神の当然の「裁き」でありますから、私たちも比較的見慣れた風景ではあったわけです。
 
しかし結局主はどうするというのでしょう。それを、今日開かれた箇所の最後の部分から受け取ることにしましょう。
 
13:23 それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」
 
最後の「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」は、ここだけ聞くと、楽観的な人はこう思うかもしれません。そうか、ここで主と出会うようになって、救われるのだな。確かに、出エジプト記やイザヤ書では、そのように主の本当の姿を知る時が来る、というような意味で使われていることがあります。ところが残念ながら、エゼキエル書はそのような意味でこの言葉を使ってはいません。「知るようになる」と訳されている節はエゼキエル書が最も多く、74節を数えますが、その殆どが、厳しい裁きの言葉なのです。この13章にも、すでに三度登場していました。もちろん厳しい言葉です。
 
それほど、こうした偽りの預言者に対する聖書の姿勢は、きっぱりとしており、厳しいのです。
 
ああ、よかった。私は救われていた。こんな預言者なんかではない。今日だって見ていても、自分はこんなこととは反対の側にいることがよく分かる。むなしい幻など見ていないし、人を騙してなどいない。占いなんかしていないし、むやみに平和とか大丈夫とか無責任なことを言ってもいないぞ。呪術の道具なんか使うはずがないし、善人を躓かせるようなこともしていない。ああ、よかった。
 
そうですか? 本当に、そうですか? この問題を、もっと問い直してみませんか。もしかすると、よく検討もしないのに、初めから自分は正しい者だと思い込んで、読み始めていたのではありませんか。こんな預言者たちを遠目に見て、「こいつらしょうがねぇな」とでも思いながら、読み始めていませんでしたか。
 
聖書は徹頭徹尾、私が神の側にいることを証言してくれる、ありがたい権威だというふうに、考えたことはありませんか。考えていませんでしたか。――
 
もちろん、特に福音を語る方には、何かが聞こえたことだと考えたいと思います。たとえ講壇で語ることはなくても、何かの折に聖書のことを口にし、あるいは誰かに語ることがあるという意味では、キリスト者すべての人にも、何かしら聞こえてくるものがあっただろうと信じます。ただ、それを具体的に追及するのは、私の仕事ではありません。あとは聖霊なる神が、一人ひとりの魂に、呼びかけてくださることを信頼しておくことにします。
 
実はこの13章で、そのほかに目立つ言い回しがありました。
・主から遣わされてもいないのに(13:6)
・わたしが語ってもいないのに(13:7)
・平和がないのに(13:10,16)
・わたしが苦しめようとはしていないのに(13:22)
これらはどれも、主なる神の意志とは反対のことをわざわざやっている様子を示しています。今回非難の的となった、いわば偽の預言者たちは、まさに神の思いと反対のことを、自分たちの思い込みで神のものと考えてやっていたわけです。それは、ひとの思い、自分の思いを優先させて、それに神も従うのだ、という方向で物事を考えていたことを表します。そうです、この順序の転倒が、致命的でした。表面上は、そっくりに見えるのです。しかし、完全に逆の出来事です。ひとの思いを正当化するために、神や聖書を利用するというのは論外です。いえ、そこにこそ「悪」の本質を見る考え方もあります。そして、そこに陥っている自分自身に、気がつきにくいのです。エゼキエルが立ち向かうことになる預言者たちも、きっと自分では、よかれと思って、主は言われる、と叫んでいたはずです。私たちは、よくよく自分を調べなければなりません。それでも気づかない場合があるのですから、常に祈りつつ、神の言葉に向き合っていかなくてはなりません。
 
聖書の言葉は、ひとに命を与える言葉です。少なくとも私はそう信じています。私自身が、その命を与えられたからです。礼拝の場では、命の言葉が語られます。また、命がけでそれを聞こうとしている人が、必ず礼拝の場にいます。そしてその言葉は、ひとに力を与えます。立ち上がる力、やり直す勇気、面倒なことへの労苦、恐れとの闘い、すべてにおいて神からのすばらしいプレゼントがあるでしょう。これが神からの良い知らせです。それが福音です。福音を語り、福音を聞く。それが、まさに礼拝なのです。



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