よそよそしい言葉

2021年8月15日

学習塾には、小学一年生のクラスもある。少人数だが、国語では、国語辞典を引くことを教えている。なんといっても、ゲーム感覚で、目指す言葉を探すということを繰り返していく。これで自然と辞典になじんでいくのだ。
 
小学生の国語辞典だが、夏休みとなると、カタカナもようやく読めるというような時期だ。五十音順に並んでいるということも、頭で一度理解していたにしても、実際に探すとなると、どちらが先にあるか混乱してしまう。
 
詳しくは語れないが、自分で思いついた言葉をいくつかまず並べておき、それを国語辞典で引いて探すゲームをする。これはいつの年も子どもたちに好評だ。それで、掲げておく言葉については、教師が一定の条件を出して、その条件に合う言葉を考えて書き出しておく。
 
たとえば、「夏休みだから、最初に「な」のつく言葉を書いてみよう」などともちかけるのである。これは、しりとり遊びをするときの発想でよいと思うのだが、昨今の子どもはしりとりなんぞしないのかもしれない。なかなか出てこない。しりとりは語彙を増やすなかなかよい遊びなのだろうが。
 
語彙そのものが少ないというのは、もちろんある。それを責めることはできないし、私の出した「な」は、実際やや難しい文字だったといえよう。ともあれ、こうしたことを繰り返すと、今時の子どもたちの語彙が見えてくるので面白い。
 
けれどもやがて、「な」で始まる言葉は規定の数だけ埋まった。「なす」あたりがポピュラーであったが、「なぽりたん」と書いた子には少し驚く。残念ながらこれは子ども用の辞書には載っていなかったので得点にはならなかった。
 
翌日、別の条件で同じゲームをする。今度は「3文字のことば」にした。これならしりとりとは関係ないし、身近にいくらでもあると思われた。もちろん、3文字というのはどういうことか、説明をたっぷりしておく。小さい「っ」も1文字であることなどを教えておく。
 
さあ、3文字のことばだよ。私は、動物や食べ物でも思い浮かべると、どんどん埋まり、国語辞典を引くゲームがすぐに始められると予想していた。だが、この思惑は外れた。「な」よりもいっそう出てこないのである。
 
私は教えられた。「な」で始まるほうは、確かに語彙が少ない小学一年生であっても、どのように思い出すか、イメージはあったのだ。だが、3文字という条件は、それに比べると抽象性が高く、どのようにイメージしてよいか、子どもたちには分かりにくかったのである。
 
ことばは、声を介しておもに発したり聞いたりしているのが中心で、目で見る文字というものは、まだ中心的な役割を果たしていないのかもしれない。3文字という、視覚的な条件が、その幼い言語活動の中では、まだ身に馴染んでいなかったようなのである。
 
私のようなおとなはどうだろうか。言葉を、どう捉えているか。「聞く」というのが元来の言語活動であった時代から、「見て読む」ほうが中心になってきたのではないか。識字率という言葉ももはや使いづらいようにすら思え、文字を読むことが文化の隅々にまで行き渡っているようにすら思われるこの時代、言葉は声を出して集団でそれを聞くという営みから離れ、個人が個別に文字を見て読むというものになってしまったかのようである。
 
聖書の言葉がそうだった。神の声を、昔人は聞いた。神の教えは、読み聞かせるものだった。いまはそうではなくなった。礼拝での聖書朗読でも、文字を目で追うばかりである。ある教会は、「せーの」で一緒に声を出して読む。声を出すからよいではないかと思われるかもしれないが、そこに、神から「聞く」という要素が消えてしまい、恰も自分が神にでもなったかのような気持ちにさせかねない危険性を帯びているような気がする。
 
小学一年生にとって、3文字のことばというのが自分の把握できない領域の条件に思えたかもしれないように、いつしか私たちも、神から聞こえてくる言葉という本来の姿が、なんだかよそよそしいものになってしまわないか、あるいはなってしまっていないか、少々気がかりである。そこには、命がないからである。



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