実は自分が

2021年8月13日

自分で考えることをせず、他からくる考えを無条件で受け容れる。それはとても危険なことだと言われる。それではまるで、他人の良いなりになるということになるからである。
 
聖書と雖も、それを何でもそのまま信じてしまうというのもまた、誰かに操られてしまうことになるかもしれない。カルト宗教は、信仰に対する純朴な姿勢を利用して、人を操ることをしばしばやってきた。洗脳、あるいはマインドコントロールという語も登場したが、聖書を素直に信じる心を狙う罠というのは、実に罪なものだと思う。
 
聖書をもっとじっくり読んでみましょう。ほら、普通これが正しい読み方だとされているけれども、よく調べてみると、違いますね。こんなふうな聖書の読み方は、ひとつには、聖書をあまりにも原理的に読むこと、そしてしばしばその読み方に頑固になってしまうことに対して、警告を与えるものとなった。だからまた、それは適切な読み方だ、と賛同する人もいることについて、私はそれがいけないなどと言うつもりはない。
 
けれども、こうした読み方がカッコいいと感じるのかどうか知らないが、その偉い先生の説に、猫も杓子も従っていく、というのはどうであろう。自分で考えるのが面倒なので、その先生の研究をまるまる信じて追従していくのだとすると、これまた、自分で考えることをせず、他からくる考えを無条件で受け容れている姿そのものである。そして、ある規定のものに抵抗している内容が目の前にあるだけに、実のところ自分が無思想に従っているという正にそのことに、自ら気づかないのが通例である。なお、本当に偉い先生というのはいるのであって、自分のことを批判してほしい、一人ひとりがよく考えて戴きたい、というポリシーを貫く人がいる。この誠実さに私は賛同する。だが世間にはこのようでない場合の方が遙かに多いのが残念である。
 
政府のすることに必ず批判を向け、なんでも反対ということが進歩的であると考えているかのように、吠えるタイプも、一部のキリスト教会や信徒にある。恰も、聖書を信じていない人々が、すべて間違っているとでも考えているかのような反応をも示す人々がいる。一見、聖書的であるようだが、先の構図のように、恰も自分自身が考えているかのように思い込んでいながら、実は簡単に誰から操られてしまうのではないか、あるいはすでに操られているのではないか、と私は案じている。8月15日を尊重しているのがその一例であることは、私は何度か指摘してきた。誰もそれに目を留めず、省みようとしないところが、すでに操られていることの証拠ではないか、と私は示すことができるとも思っている。



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